読売梁山泊の記者たち p.202-203 〝上海の王〟が安キャバレーをやるだろうか

読売梁山泊の記者たち p.202-203 愛宕署まわりと(記憶は確かではないが、当時流行のマンボ・ズボンをはいていたので、通称マンボと呼ばれた、本田靖春だったかもしれない)、築地署まわりを、喫茶店に誘って、管内で、変わったニュースがないか、と、たずねたりした。
読売梁山泊の記者たち p.202-203 愛宕署まわりと(記憶は確かではないが、当時流行のマンボ・ズボンをはいていたので、通称マンボと呼ばれた、本田靖春だったかもしれない)、築地署まわりを、喫茶店に誘って、管内で、変わったニュースがないか、と、たずねたりした。

リーは、東京の郊外に、「モーテル」を建設中だ、と説明した。いまでこそ、モーテルなどというものは、国道沿いに乱立しているが、この時、日本の活字媒体に、はじめてモーテルが紹介された。

「…モーテルとはモーターホテルをしゃれた意味で、郊外にドライブしたまま、車もろともに泊まる旅館で、一階がガレージ、二階が寝室といった構造のもので、いわば、アメリカの温泉マークである…」

リーの話から、とうとう、シカゴ系の賭博王という記事は、書けなかった。リーが、東京に賭博場を開くのに、適当な場所はないかと、相談を持ちかけられた、といわれる日本人も、その証言を拒んだからである。

つまり、モー・リプトンより、リーのほうがはるかに、〝大物〟であったのである。そして記事には、リーが建設中のモーテルの写真を入れて、「伝聞」でしか書けなかった、オトナシイ記事になった。もちろん、建設現場の写真を入れたのだから、現場を調べたのだが、とうてい、賭博場に転用できる設計ではなかったのだ。

戦後史の闇に生きつづけた上海の王

さて、こうなると、いよいよ〝上海の王〟のインタビューである。辻本デスクには、ハッパをかけられるし、連載開始日は迫ってくるし、私もいささかあせり気味であった。

そのような時、頼りになるのは、サツまわりと呼ばれる、入社三~四年目。地方支局で一通りの〝記

者修行〟をさせられ、本社勤務に戻ってきた、若い諸君である。

新橋、銀座の一帯を担当する、愛宕署まわりと(記憶は確かではないが、当時流行のマンボ・ズボンをはいていたので、通称マンボと呼ばれた、本田靖春だったかもしれない)、銀座を担当する築地署まわりを、喫茶店に誘って、管内で、変わったニュースがないか、と、たずねたりした。

すると、愛宕署まわりがいう。

「新橋の土橋のところに、黄色会館という、三階建てのビルがあり、一、二階が、ビッグパイプという、キャバレーなんです」

「ああ、大きなパイプのネオンをつけ、開店日に、三階の屋上から、十円札をバラまいたという、アレかい?」

「エェ、そうです。その、十円札のバラまきは『いずみ』(注=社会面左下隅のミニ・ニュース)に書きました」

「ウン、読んだよ。それで知ってるンだ」

「あすこの社長は、中国人で、確か、ワンといったと思います」

「へエ、じゃ、調べてみるか」

と、局面打開の途が、開けたようだった。しかし、〝上海の王〟ともあろうものが、十円札をバラまくような、安キャバレーをやるだろうか。

——イヤイヤ、さきの匿名外人記者の記事にも、ワンは、ナイトクラブの日本娘を、客引きに使って

いる、とあったではないか!