読売梁山泊の記者たち p.200-201 〝暗黒街のボス〟などに会うのは生まれてはじめて

読売梁山泊の記者たち p.200-201 「東京租界」が、第一回菊池寛賞に輝いたのも、牧野君の人柄と、あのタドタドしい〝通訳〟があったればこそ。そして、後年、彼が、香川京子にホレられて、結婚にいたる〝新聞記者の魅力〟は、この取材を通して身についたのであった
読売梁山泊の記者たち p.200-201 「東京租界」が、第一回菊池寛賞に輝いたのも、牧野君の人柄と、あのタドタドしい〝通訳〟があったればこそ。そして、後年、彼が、香川京子にホレられて、結婚にいたる〝新聞記者の魅力〟は、この取材を通して身についたのであった

ところが、牧野君は〝暗黒街のボス〟などに会うのは、生まれてはじめてのこと。緊張そのものである。

と、そこに、まさに、音もなく、ヒラリという感じで、ひとりの男が現われた。いかにも悪役顔をした、モー・リプトンである。

それが、アメリカ・ギャングの所作(しょさ)なのだろうか。やや目深に冠ったソフトを、左手の拇指で、グイとアミダ冠りに持ち上げるのだ。牧野君は、すっかり威圧されてあわてて、挨拶をし、私を紹介した。

だが、この男も、通訳付きの会話には、馴れていないのである。私には、ほとんど目もくれずに、私の質問を通訳する牧野君に、喰ってかからんばかりに、しゃべりまくる。

モー・リプトンの、ヤクザ英語の通訳に苦労しながら、私の質問の返事をすると、矢継早に反問する私の質問、それをリプトンに通訳すると、早口の彼の反論——。

それはもう、見ていて、気の毒なくらいの牧野君の周章狼狽ぶりであった。もっとも、私は余裕夕ップリ。リプトンが反論のために差し出す証明書の日付けが、話と違っていることを確認したり、彼が、手に握って振りまわす書類の表題が、話と違うことを、彼の手を押さえてのぞきこむなど、インタビューは成功であった。

だからこそ、これらの連中から、告訴状の一本だって、出てこなかったのである。「東京租界」キャンペーンが、第一回菊池寛賞に輝いたのも、牧野君の人柄と、あのタドタドしい〝通訳〟があったれ

ばこそ、である。

そして、可愛い子に旅、の古諺の示す通り、後年、彼が、香川京子にホレられて、結婚にいたる〝新聞記者の魅力〟は、この取材を通して、身についたのであった、と、私はいいたい。マソニック・ビルを後にした彼は汗ビッショリの姿であった。

それに比べると、ジェイソン・リーのインタビューは、はるかに落ち着いたもの、であった。第一、日本のヤクザの親分クラスにも、リプトン風のガサツな武闘派は少ない。

リーは、物腰の穏やかな、初老の紳士であった。たしか、日比谷の富国生命ビルの喫茶店だかで、コーヒーをすすりながらの、インタビューであった。

私の質問は、さきの外人記者の記事がネタである。しかし、リーは、「私は実業家で、だから、カポネ関係の人たちを知っているし、友人もいる。だからといって、私が賭博師だ、とはいえない」と、言いぬける。

「じゃ、あなたは、日本になにしにきた?」

と、タタミこむと、彼はサラリといった。

「日本という、新しいマーケットで、新しい事業の、なにに可能性があるか、の調査だ」

「で、結果は?」

「私が事業家だ、ということを証明する、現在、進行している事業がある」