p65下 わが名は「悪徳記者」 メングレの刑事が駅に張り込んでいて…

p65下 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 ところが、事態は意外な進展をみせて、すっかり変ってきたのである。十五日には逗子の貸別荘で安藤、久住呂(島田)の両名が逮捕され、つづいて十七日には花田までが犯人隠避で逮捕されてしまったのである。
p65下 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 ところが、事態は意外な進展をみせて、すっかり変ってきたのである。十五日には逗子の貸別荘で安藤、久住呂(島田)の両名が逮捕され、つづいて十七日には花田までが犯人隠避で逮捕されてしまったのである。

おろしてからの一、二時間は、本当のところ恐かった。もしかするとメングレ(顔見知り)の刑事が駅に張り込んでいて、彼を逮捕するかも知れないからだ。しかし、メングレでなければ、手配写真などでは、絶対に判らないだろうと考えて、列車にさえのれば旭川着は間違いないと思った。そして、私の雄大豪壮な計画はまず、その第一歩では成功であった。

ところが、事態は意外な進展をみせて、すっかり変ってきたのである。この秋に、私たち戦前の演劇青年、少女たちが集まって、職業人劇団を結成し、その第一回公演を、やはりメンバーの一人である大川耀子バレー研究所の発表会に便乗して、砂防会館ホールで開こうという計画があった。その準備の会合で、十三、十四の両日がつぶされたが、十五日には逗子の貸別荘で安藤、久住呂(島田)の両名が逮捕され、つづいて十七日には花田までが犯人隠避で逮捕されてしまったのである。

全く、アレヨアレヨと思う間の進展ぶりで、私の計画は早くも崩れはじめた。もはや最悪の場合である。小笠原一人の逮捕協力以外に途はなくなってしまったのであった。志賀、千葉両名はまだ残っていたが、花田がいなくなっては、もはや連絡のとりようもなかった。私は最後に小笠原を出そうと決心して、彼の連絡をひたすらに待っていた。 十九日にフクから「会いたい」と電話がかかってきた。夜、渋谷であってみると、別に彼のもとにも連絡はなかったようである。私はもちろん無制限に小笠原を旭川においておくつもりはなかった。「就職させた」などと報じられているが、彼は外川材木店で働いていたわけではないし、外川方で金をもらってもいない。