正力松太郎の死の後にくるもの」カテゴリーアーカイブ

正力松太郎の死の後にくるもの p.274-275 本社の販売関係者のオイシサ

正力松太郎の死の後にくるもの p.274-275 安いバケツの出物があると聞けば、車を飛ばして日本橋横山町あたりの問屋街にかけつけ、現ナマで叩きに叩いて買う。買付けの帰り途は、三味線ならしてドンチャン騒ぎで、懐中にはガッポガッポと入ってくるという
正力松太郎の死の後にくるもの p.274-275 安いバケツの出物があると聞けば、車を飛ばして日本橋横山町あたりの問屋街にかけつけ、現ナマで叩きに叩いて買う。買付けの帰り途は、三味線ならしてドンチャン騒ぎで、懐中にはガッポガッポと入ってくるという

販売委員会の様子を聞いてみると、各社の販売局長、部長クラスの委員が出席して、紛争当事社の委員は、それこそ、生れてこのかた、ポリバケツやナベ、カマなど、見たこともないような〝熱弁〟を振う。涙すら浮べて、「わが社はバケツなど拡材を使っていない」と、神にかけて誓うテイだそうだ。

その舌の根も乾かぬうちに、安いバケツの出物があると聞けば、車を飛ばして日本橋横山町あたりの問屋街にかけつけ、現ナマで叩きに叩いて買う。数量も、値段も、正確に当ったりしない。それこそ、一山いくらの口である。

その辺には、本社の販売関係者のオイシサがあるらしい。買付けの帰り途は、三味線ならしてドンチャン騒ぎで、懐中にはガッポガッポと入ってくるという——まさに、新聞の主張する「正義」のカゲの〝怪談〟ではある。しかし、確かに、家庭を訪れる拡張員はナベ、カマをタダでくれても、受領証を請求しないのだから、本人の胸先三寸、主婦が美人であれば、アレもコレもと、何でも気前よくおいてゆく。してみると、販売店主の段階でも、拡材の数量は胸先三寸であろう。さらにさかのぼれば、本社と販売対店主の関係、問屋対販売部の関係も、いずれも胸先三寸とあってみれば、ドンチャン、ガッポも満更のウソではなかろうというものだ。

新聞は刷れば刷るだけ、売れれば売れるだけ儲かるものではない。限界利益部数というのがあって、例えば、製作実費七百円のものを、広告料で補って、四百五十円で売っていたし、朝刊は朝、夕刊は夕方と配達時間が限定されているので、部数がふえれば、その経費にくわれて赤字になるというものである。

ここらに、新聞販売の数字の上の秘密やむずかしさがある。しかし、結論すると、新聞販売店が儲かる商売であることは、間違いない。どうも、タクシー会社と同じように、一台の認可をも

らえば運転手を確保できる限り、確実に儲かるし、その権利の転売だけでも莫大なものになるように、配達員を確保できれば、確実に儲かるものなのである。

販売店が音をあげているのは、タクシー会社と同じ、人手確保であって、メシがくえないということではない。まず第一に、新聞代値上げ問題に、この点を注目せねばならない。業界紙の記事をみても、店の権利の売買が行なわれており、経営不振で一家心中などというのは見当らない。

高い、安いという主観的な問題や、値上げの可否については、ここでは論じない。「宅配確保」のための値上げの意味を考えてみたいのである。

宅配は必らず崩れる

一般日刊紙の場合には、配達員の出入りが激しいのか、しばしば欠配があるのだが、ところが、アカハタ日曜版と、聖教・公明両新聞には、遅欠配いずれもないのだから面白い。その理由など云々しまい。タクシーになぞらえれば、会社タクシーと個人タクシーとの差違であろうか。

もはや、都会における生活形態は、朝メシ抜きの時代になっている。少くとも、通勤のための

盛り場付近での、牛乳の立ちのみ、そばの立ち喰いに変りつつある。つまり朝食の食卓で、新聞に読みふける時代は過去のものとなった、というべきであろう。

正力松太郎の死の後にくるもの p.276-277 ボスたちの〝餌食〟になるだけの値上げ

正力松太郎の死の後にくるもの p.276-277 新聞にとって、最大の発言者は、時の政治権力でも、金融資本でも、ましてや、広告スポンサーでもない。実に、販売店主とその連合体である。そして、新聞にとっての、最大の敵は、また実に、販売店主とその連合組織である。
正力松太郎の死の後にくるもの p.276-277 新聞にとって、最大の発言者は、時の政治権力でも、金融資本でも、ましてや、広告スポンサーでもない。実に、販売店主とその連合体である。そして、新聞にとっての、最大の敵は、また実に、販売店主とその連合組織である。

もはや、都会における生活形態は、朝メシ抜きの時代になっている。少くとも、通勤のための

盛り場付近での、牛乳の立ちのみ、そばの立ち喰いに変りつつある。つまり朝食の食卓で、新聞に読みふける時代は過去のものとなった、というべきであろう。

朝まだき四時、五時。新聞と牛乳配達の駆けめぐる必然性は、薄れつつあるのだ。電気冷蔵庫の普及が、牛乳配達を不要としてきている。新聞とて同様であるまいか。

生活様式の変化ばかりではない。新聞少年、新聞青年の勤労観の変化も無視できない。山田太郎が、どんなに明るく新聞少年の歌を唱い、国会議員たちが自分の配達した往時を回想し、その社会的、精神的意義をアッピールしたとて、〝新聞少年〟のなり手は殖えはしない。依然として、販売店の人手確保のための苦闘はつづくのである。

この勤労観の変化は無視できない。新聞配達員に、高給を支払えば、人手は心配なく、宅配は確保できよう。値上げした新聞社は、いまから、八十円を配達員に投じて、宅配を確保しようとしているのか。三百部抱えて走る少年が、二万四千円のアップとなるのなら、間違いなく志望者が集まる。

しかし、そうではない。

この八十円の中、雀の涙ほどが配達員に分配されるだけである。これで、どうして宅配確保の値上げといえようか。販売店の労務改善という逃げ口上が用意されている通り、ボスたちの〝餌食〟になるだけの値上げである。タクシー値上げと、全く軌を一にしている。もしも、本当に販

売店主の生活が苦しいのなら、どうして、彼らは団結して、新聞の販売制度の合理化促進を訴えないのか。新聞社別の直販から、共販へと切替えてこそ、不合理な販売経費が節約されるのではないか。

内実は〝便乗値上げ〟である。販売店主たちは、販売制度の合理化は、自分たちの既得権益の侵害であると考えている。自分たちのウマ味への侵略であると感じている。

前述した数字——古い数字だが、一例として読売の朝夕刊セット一部当りコスト七百円というのは、もちろん、紙代、印刷代、編集費、人件費といった、新聞の直接製作費ばかりではなく、販売費も含まれての数字である。では果して販売費を引けば、いくらになるのだろうか。

残念ながら、私の手許に資料がなくて、その内訳を示すことができない。しかし、相当部分が販売費であることは間違いない。つまり、読者はもっと安価に新聞を購読できるにもかかわらず、販売ルートなるものの維持のため、余分な出費を強いられている。新聞にとって、最大の発言者は、時の政治権力でも、金融資本でも、ましてや、広告スポンサーでもない。実に、販売店主とその連合体である。

そして、新聞にとっての、最大の敵は、また実に、販売店主とその連合組織である。新聞はそのために、読者と社会に対して赤面し、かつ、経営を蝕まれているのである。

販売制度の合理化とは、専売制から共販制への切り替えなのであるが、そのために、共同輸

送、共同配達、共同集金などの試験的な手さえ打たれず、各社は必死になって、この宅配確保を打ち出している。

正力松太郎の死の後にくるもの p.278-279 キリリリ、ポンという爽快な配達音

正力松太郎の死の後にくるもの p.278-279 月曜日の朝刊をひろげた時の味気なさ! 新聞の各面とも、鮮度がなくて砂を噛む思いがする。——この時、誰が暁闇にたたずんで、配達少年の足音を待つであろうか。
正力松太郎の死の後にくるもの p.278-279 月曜日の朝刊をひろげた時の味気なさ! 新聞の各面とも、鮮度がなくて砂を噛む思いがする。——この時、誰が暁闇にたたずんで、配達少年の足音を待つであろうか。

そして、新聞にとっての、最大の敵は、また実に、販売店主とその連合組織である。新聞はそのために、読者と社会に対して赤面し、かつ、経営を蝕まれているのである。
販売制度の合理化とは、専売制から共販制への切り替えなのであるが、そのために、共同輸

送、共同配達、共同集金などの試験的な手さえ打たれず、各社は必死になって、この宅配確保を打ち出している。

だが、歴史の必然はすでにこの宅配制度の崩壊への歩みを、進めはじめている。第一に先に述べた、生活様式の変化であり、第二は速報制の放棄である。

放棄といえば聞えはいいが、実は奪われたのである。日曜日午前中に朝刊を読み終り、正午のニュースからはじめて、時事ものにチャンネルをあわせ、十一時の最後のニュースを見終ってから、月曜日の朝刊をひろげた時の味気なさ! 新聞の各面とも、鮮度がなくて砂を噛む思いがする。——この時、誰が暁闇にたたずんで、配達少年の足音を待つであろうか。感覚的にいっても、キリリリ、ポンという、爽快な配達音さえ失なわれているではないか。今は、ビタビタ(足音)ガチャリ(郵便受け蓋の金属音)である。

新聞が、真に自由であるためには、この販売店と販売制度という重い桎梏を投げうたねばならない。

さて、私は、八十円の全額が配達員に振り向けられるのでなければ、この値上げこそ、新聞が自らの手で「新聞の自由」をしめつけはじめたのだと、いわねばならない。そして、「宅配確保のため」と銘打ったこの値上げの、値上げ分の決算報告を紙面に公表することを要求したい、と思うのである。

だが、宅配は必ず崩壊する。そして新聞は、再び「紙面でこい」の自由競争の時代にもどらねばならない。「報道の自由」が真に国民の「知る権利」の代理行使であるならば、国民は、朝な夕なに、新聞をえらぶ権利をもっているハズである。その権利を販売制度によって、ネジまげているのが、現在の新聞のあり方である。

聖教・公明両新聞は、朝の家事が終った主婦の手で、午前九時から同十一時ごろの間に宅配されている。一般紙も、この労働力を動員して、宅配希望者には配達料を別途計算して配達すればよい。一般読者には、安い料金の新聞を、スタンドで自由にえらばせるべきである。「宅配は日本独特のよい制度」「スタンド売りにすると部数が安定せず、新聞社の経営を不安にして、乗取られるおそれがある」「外国でも少年の身心鍛練に宅配が行なわている」——これらの値上げ弁明の言葉こそ、「この記事が、この真実が世を正す」(新聞週間標語)というスローガンに恥ずべきである。

さて、〝朝日はアカイ〟という神話をブチこわすため、朝日の実情を中心にして「新聞」を見てきたのだが、この稿の結論をまとめるため、やはり、経営陣と社主側それぞれの〝現実認識〟の度合いを叩かねばならないと考える。そして、広岡知男社長への会見を申しこんだのである。太田博夫秘書室長は、快くその段取りをつけてくれたのであるが、社長は出張不在の故をもって、総務、労務担当の、渡辺誠毅取締役に会うこととなった。

正力松太郎の死の後にくるもの p.280-281 〝朝日の左翼偏向〟

正力松太郎の死の後にくるもの p.280-281 一犬虚に吠えて、万犬実を伝う——この古諺さながらの実情に、二人は〝虚に吠え〟た犯人を煮つめていったのであるが、どうやら、時事通信社長の長谷川才次あたりに落ちつく様子であった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.280-281 一犬虚に吠えて、万犬実を伝う——この古諺さながらの実情に、二人は〝虚に吠え〟た犯人を煮つめていったのであるが、どうやら、時事通信社長の長谷川才次あたりに落ちつく様子であった。

渡辺誠毅。東大農学部で、農業経済を専攻した昭和十四年入社組。ゾルゲ事件に連坐した田中慎次郎直系ともいうべき経済記者であるが、四十三年暮に、役員になったばかりの、次代の朝日の荷ない手である。

東京編集局長田代喜久雄は、渡辺と同じ十四年卒業だが、他社に一年いたので、入社は昭和十五年。渡辺は、田代が東京の局長になったのよりおくれて、大阪の編集局長となり、役員待遇になったのも、田代よりおくれていたのだが、役員では追越した形となった。そこに、〝広岡体制〟における後継者ともみられる要素がある。

論説委員、調査研究室、総合企画室といったポストを経ており、〝編集一本槍〟ではなく、かつ、原子力をはじめとする科学技術を踏まえた未来学の分野に明るい、といわれているので、大阪編集局長からよびもどされて、役員に列したというあたり、広岡の信任も厚いとみるべきであろう。「視野の広さ、読みの深さ。当代朝日人の中では一流」と、ベタボメする人もいる。

インタビューは二時間半にもおよんだ。渡辺は、滔々と弁じ、諄々と説き、外語を交えては東西に例証を求め、語って倦まなかったのである。ある時には、伝法な新聞記者の姿がのぞき、ある時には学者であり、そして、冷静な〝経営者〟でもあった。非は非としててらうことなく認め、さらに、〝明日の朝日新聞〟のあるべき姿を語るのであった。

朝日はアカくない

朝日新聞は、果して「左翼的偏向」を犯しているのであろうか? 渡辺は、言下に否定した。

「私は朝日の紙面をアカいとは思わない」と。〝朝日はアカい〟という神話はブチこわされねばならないと、私は書いた。その点は意見は一致したのである。

〝朝日がアカい〟という声は、意識的につくられ、流されているというのである。一犬虚に吠えて、万犬実を伝う——この古諺さながらの実情に、二人は〝虚に吠え〟た犯人を煮つめていったのであるが、どうやら、時事通信社長の長谷川才次あたりに落ちつく様子であった。

かつては、マルクス・ボーイであったろう渡辺としては、〝朝日の左翼偏向〟などを肯定し得るものでないことは、理の当然でもあろうが、その偏向非難の声が、「意識的につくられ、意識的に流されている」という見方は、的を射たものというべきである。

「潮」別冊冬季号(四十三年)に、「マスコミに奏でられる〝転向マーチ〟」という、小和田次郎(デスク日記の著者)のレポートがある。

「六八年十月四日、京都で日経連五十嵐事務局長が講演した『安保問題と労働組合』の中で、六

〇年以後、過去九年間のマスコミ工作によって、いまや『朝日、TBS、共同通信』の三社以外は、まったく心配はいらないという、判断が表明されている。残る〝マスコミ偏向トリオ〟に攻撃を集中すればよい、という認識である」

正力松太郎の死の後にくるもの p.282-283 小和田次郎(デスク日記の著者)のレポート

正力松太郎の死の後にくるもの p.282-283 小和田はいう。「目にみえて右傾化していった朝日が、振り子をふたたび元にもどし、ここ二、三年の朝日の紙面は、ふたたび政財界をして、偏向マスコミのチャンピオンのように目されてきた。」
正力松太郎の死の後にくるもの p.282-283 小和田はいう。「目にみえて右傾化していった朝日が、振り子をふたたび元にもどし、ここ二、三年の朝日の紙面は、ふたたび政財界をして、偏向マスコミのチャンピオンのように目されてきた。」

「潮」別冊冬季号(四十三年)に、「マスコミに奏でられる〝転向マーチ〟」という、小和田次郎(デスク日記の著者)のレポートがある。
「六八年十月四日、京都で日経連五十嵐事務局長が講演した『安保問題と労働組合』の中で、六

〇年以後、過去九年間のマスコミ工作によって、いまや『朝日、TBS、共同通信』の三社以外は、まったく心配はいらないという、判断が表明されている。残る〝マスコミ偏向トリオ〟に攻撃を集中すればよい、という認識である」

小和田によれば、日経連は〝マスコミ偏向トリオ〟として、その三社の名前をあげているというのであるが、私は改めて〝偏向〟の定義を考えざるを得ない。小和田はいう。

「……このような情勢の中で、日本の新聞、放送は深い〝反省期〟にはいった。

一九六一年六月号の朝日社内報〝朝日人〟のなかで、当時の笠信太郎論説主幹は、『政府と新聞』と題する論文をまとめ、安保報道に対する総括をしている。

……真実を書き、それを国民のまえに明らかにすると、いまの日本の国民はすぐ起ちあがり、大衆運動が盛り上がって、政府・自民党や財界を窮地に追い込んでしまうような危険な情勢であるから、じゅうぶん気をつけなければならないという、『ものの見方考え方』を表明したこの笠論文は、六〇年安保後のマスコミのあり方を理論化したものであった。日本マスコミ界の代表的イデオローグとしての、笠信太郎が指し示したこの道こそ、その後の新聞、放送のたどってきた道であるといえよう。

…〝偏向ご三家〟の最大のマスメディアとよばれる朝日はどうか? 広岡社長は六八年十月十

五日付の朝日に『朝日新聞の姿勢』と題する大論文をのせ、そのなかで『ときおり政府、与党あるいは財界などの一部に、朝日新聞は〈反米〉〈反政府〉だとする声が、底流としてあるように聞く。だが、朝日新聞が、意識的にそうした立場から作られている事実はまったくないし、誤解もはなはだしいという以外にはない』と釈明している、同じ日の朝日社説も『新聞人の責任』と題して偏向問題を重大視し、政財界からの偏向攻撃に対する反論を試みている。朝日が六八年の新聞週間にあたって、社説と社長論文まで掲げてわざわざ『偏向間題』を取り上げて釈明し、反論につとめなければならなかったことは、朝日への偏向攻撃の激しさを示すものである。と同時に、朝日が外部からの偏向攻撃を、それだけ強く意識していることの表明とも受けとれる。

…六〇年安保を機に、目にみえて右傾化していった朝日が、六三年末からのお家騒動を経て、しだいに振り子を、ふたたび元にもどしはじめ〝朝日右翼時代〟とよばれた時代にようやく別れをつげ、ここ二、三年の朝日の紙面は、ふたたび政財界をして、偏向マスコミのチャンピオンのように目されてきた。オーナー村山家との抗争で、広岡現社長らは社員大衆の支持にのって勝利を得たという事情も、その一つの要因と考えられる。

しかし、滔々たるマスコミ反動化シーズンの中で、朝日の振り子が戻るのもみずから限界がある。六八年三月一日付けで、伊藤牧夫社会部長が、西部本社の編集局長(筆者注。局次長の誤まり)に〝栄転〟した背景にも、社会面の安保報道に対する自己規制のあらわれという一面がうかがわ

れた。

正力松太郎の死の後にくるもの p.284-285 共同通信社会部記者不破哲三

正力松太郎の死の後にくるもの p.284-285 共同通信社の〝偏向〟のはじまりは、昭和二十四年の都条例反対デモで、一人の青年が死んだ事故を「警官に殺された」と、当時の社会部記者不破哲三(現日共、政治・外交政策委員長)が、〝誤報〟したのにはじまっている。
正力松太郎の死の後にくるもの p.284-285 共同通信社の〝偏向〟のはじまりは、昭和二十四年の都条例反対デモで、一人の青年が死んだ事故を「警官に殺された」と、当時の社会部記者不破哲三(現日共、政治・外交政策委員長)が、〝誤報〟したのにはじまっている。

しかし、滔々たるマスコミ反動化シーズンの中で、朝日の振り子が戻るのもみずから限界がある。六八年三月一日付けで、伊藤牧夫社会部長が、西部本社の編集局長(筆者注。局次長の誤まり)に〝栄転〟した背景にも、社会面の安保報道に対する自己規制のあらわれという一面がうかがわ

れた。反日共系全学連ゲバルトに対しては、徹底的に非難キャンペーンをすることで、〝身のあかし〟をたてようとの配慮も感じられる。いままでは〝進歩的朝日のショーウインドー〟として黙認され、コマーシャリズム上からも商売にプラスしてきた『朝日ジャーナル』の編集方針についても、六九年中には方向転換が行なわれるのではないかと、とりざたされている。

しかし、いずれにしても朝日は六八年秋で朝刊部数五百八十万部を誇り、六九年中には『六百万部の朝日』を実現すべく、隆々たる社業発展のコースを歩んでいる。このため広告界との力関係でも、金融資本や政府権力との力関係でも、相対的ながらもっとも独自性を保持しやすい条件におかれているということができる。それ故にこそ、朝日への偏向攻撃がもっとも激烈をきわめているわけであり、TBS、共同の〝転向〟が進展するなかで、朝日の孤立化は深められ、その相対的主体性が、商業マスコミ本来の体制的本質の陰に喪失してゆく方向は必至であろう」

長い引用ではあったが、渡辺さえも〝左翼偏向とは、意識的デマだ〟と断定する根拠が、〝小和田次郎〟という格好の人物の文章の中にみられたので、とりあげてみた。

一体、偏向とはなにか? 現在の大新聞の中に、その綱領という〝女郎の起請文〟に謳ったような、「中立公正」な立場が、可能なのか、どうか。考えねばならない問題は多いのである。

「偏向報道」というのは、虚報、誤報、歪報のことではない。ところが、現実には「誤報」(虚

報、歪報をも含めて)のことが「偏向報道」とよばれている。〝偏向ご三家〟の元祖である共同通信社の〝偏向〟のはじまりは、昭和二十四年の都条例反対デモで、一人の青年が死んだ事故を「警官に殺された」と、当時の社会部記者不破哲三(現日共、政治・外交政策委員長)が、〝誤報〟したのにはじまっている。

しかし、小和田は「……真実を書き、それを国民のまえに明らかにすると」という。真実を伝えることと、誤報との関係を明らかにしないで、〝偏向〟という言葉を〝流行にのって〟使っている無神経さである。

私の長い記者生活の体験からいっても、ある現象、ある対象を報道する時、その現象やら対象やらに、好意をもつのと、もたないのとによって、記事からうける印象は、全く別のものになってしまうのである。報道文章の基本型である五つのWと一つのH、これを〝真実〟で充足しながらも、レポーターの主観が、その中に入りこんで、言葉をえらばせるのである。ボキャブラリイが豊富であればあるほど、〝真実〟を書いてなお、〝主観〟をニジませることが可能なのである。

ところが、言葉の貧しい記者では、ウソを書く以外に、〝主観〟を表現できないのである。だから、誤報になるのである。「偏向報道」というのは、「真実を伝え」かつ「客観を装って主観を交え」ることである。なぜ、そのようなことが可能であろうか。盾には両面があるからである。

朝日に関して、〝偏向〟といわれているものの多くが、事実は「誤報」である。小和田が支持 する「伊藤社会部長の西部編集局長への〝栄転〟の背景」というクダリも、局次長とを間違える(前後から判断して校正のミスではないと思う)ほどのズサンさであるから、もっともらしい〝背景〟がありそうに書かれてはいるが、今まで批判してきたように、その代表例「板橋署六人の刑事」にみるように、誤報である。

正力松太郎の死の後にくるもの p.286-287 キャンペーン記事の〝現実〟

正力松太郎の死の後にくるもの p.286-287 渡辺は言下にいった。「六人の刑事? ア、ありゃマズい」「キャンペーンをやると、どうしてもデスクは一方的にクロ材料を求めて、取材記者がチラリ洩らした片言隻句を追う。そして、エスカレート」
正力松太郎の死の後にくるもの p.286-287 渡辺は言下にいった。「六人の刑事? ア、ありゃマズい」「キャンペーンをやると、どうしてもデスクは一方的にクロ材料を求めて、取材記者がチラリ洩らした片言隻句を追う。そして、エスカレート」

朝日に関して、〝偏向〟といわれているものの多くが、事実は「誤報」である。小和田が支持

する「伊藤社会部長の西部編集局長への〝栄転〟の背景」というクダリも、局次長とを間違える(前後から判断して校正のミスではないと思う)ほどのズサンさであるから、もっともらしい〝背景〟がありそうに書かれてはいるが、今まで批判してきたように、その代表例「板橋署六人の刑事」にみるように、誤報である。

渡辺は言下にいった。「六人の刑事? ア、ありゃマズい」

当時、朝日の紙面は沈滞気味であったので、少し、ハッパをかけようではないか、という声が編集幹部の間に起きてきた。その上意が下達されるや、伊藤社会部長は、得たりや応とばかり、華々しいキャンペーン記事を展開しだしたというのである。部長を補佐するデスク連も、〝沈滞打破〟を金科玉条と心得て、取材記者を叱咤激励するという状況になってきた。

「あなたも経験があると思うが、キャンペーンをやると、どうしてもデスクは一方的にクロ材料を求めて、取材記者がチラリ洩らした片言隻句を追う。そして、『そうだろ?そうだろ?』と、エスカレートしてしまい勝ちなものです」

渡辺は、一般論として、キャンペーン記事の〝現実〟をこう説明する。これでみると、やはり、朝日幹部の良識は、偏向と誤報との差違を認識していたということである。

「だから、キャンペーン記事への批判がでてきて、最近ではあまりやっていないでしょう」——とすると、元朝日記者佐藤信の指摘した通り、伊藤の一連のキャンペーンは、〝社内向け〟キャ

ンであるというのも、うなずけるようであった。私の得た印象では、幹部の意のあるところを取り違えた下の者が、とんでもない間違いをしてくれた、しかし、本人は一生懸命なのが認められるから、叱りおく程度ですませた、といった感じであった。人物でなかったというべきか、人を得なかったというべきなのか……。

「朝日ジャーナルは、私も創刊の企画に参画していたので、よく事情は知っているのですが、創刊の趣旨はあんなものではなかった」

渡辺は、質問に応えてさらにつづける。

新聞社の全般的な傾向として、出版局は本流ではないとされ、出版局勤務の社員は編集局へ行きたがる。朝日とて例外ではない。だから、出版局の部長クラス(編集長、デスク)はもちろん、記者とても、ことに、かつて編集局(注。新聞部門はすべて包含されて、こう呼ばれる)に勤務していた者は、なおのこと、〝成績をあげて〟編集へもどりたがるか、ヤル気をなくして出版局に埋もれるかの傾向がある。このような点について、渡辺にただしてみたところ「そうでしょうね」と朝日においても、その傾向がみられることに同意していた。

〝創刊の趣旨はあんなものではなかった〟という趣旨の発言は、渡辺も現在のジャーナルの編集のあり方に、肯定的ではないということである。「もともとは、たとえ儲からなくても、ヒドイ赤字にさえならなければ、新聞社の出す週刊誌らしい、程度の高い理論誌をというネライだっ

たのだが、当事者にしてみれば、返本率だの、採算点だのが示されている以上、〝売れる雑誌〟にしたいと意気込むのは当然でしょう」
小和田は「コマーシャリズム上からも商売にプラスしてきた朝日ジャーナル」と、コマーシャリズムを〝からも〟と二次的な評価をしているのだが、事実は〝売れること〟が、社内的な実情から第一義とされていることが明らかである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.288-289 コマーシャリズム第一主義を容認

正力松太郎の死の後にくるもの p.288-289 「売れていることは確かです」この問答の部分では、私は「読者にコビた編集方針をとっているのではないか」と、〝コビ〟るという言葉を使って質問したのだが、渡辺は気がついたのか、つかなかったのか
正力松太郎の死の後にくるもの p.288-289 「売れていることは確かです」この問答の部分では、私は「読者にコビた編集方針をとっているのではないか」と、〝コビ〟るという言葉を使って質問したのだが、渡辺は気がついたのか、つかなかったのか

〝創刊の趣旨はあんなものではなかった〟という趣旨の発言は、渡辺も現在のジャーナルの編集のあり方に、肯定的ではないということである。「もともとは、たとえ儲からなくても、ヒドイ赤字にさえならなければ、新聞社の出す週刊誌らしい、程度の高い理論誌をというネライだっ

たのだが、当事者にしてみれば、返本率だの、採算点だのが示されている以上、〝売れる雑誌〟にしたいと意気込むのは当然でしょう」

小和田は「コマーシャリズム上からも商売にプラスしてきた朝日ジャーナル」と、コマーシャリズムを〝からも〟と二次的な評価をしているのだが、事実は〝売れること〟が、社内的な実情から第一義とされていることが明らかである。

振り子はもどる朝日ジャーナル

「……そのため、読者層をハッキリ学生という若い年齢層に限定してしまって、現在のジャーナルの形ができあがってしまった。そのため、売れていることは確かです」

この問答の部分では、私は「読者にコビた編集方針をとっているのではないか」と、〝コビ〟るという言葉を使って質問したのだが、渡辺は気がついたのか、つかなかったのか、その言葉にはあえてこだわらず、肯定的であった。

「……しかし、四十三年の後半あたりから、ジャーナルの編集のあり方について、社内からの批

判もあって、だんだん変ってきているハズです」

小和田の見通しは我田引水であった。「いままでは、〝進歩的朝日のショーウインドー〟として黙認され」ていたわけではない。赤字でなければよいというのに、読者にコビて売りまくっていたのであって、〝ショーウインドー〟でもなければ〝黙認〟されていたわけでもない。しかも、編集方針は〝六九年中には方向転換〟どころか、昨年中に〝偏向是正〟へと動きだしていたのである。

「週刊朝日もツライ立場ですな。扇谷時代とまでいわれた、百万部もの独走ぶりからくらべると、雑誌社系の週刊誌などのハサミ打ちにあって、昔日のおもかげはないですよ。だから、何とか窮境を打開しようという当事者のあせりが、御指摘のようなことになるのでしょうな」

私は、週刊朝日が松本清張をハノイに〝本誌特派〟という肩書きを銘打って送りこみながら、その原稿を他紙誌と同時掲載するという醜態を演じたことを、芸能誌や女性誌の〝独占スクープ〟という名の共通ダネになぞらえて笑ったのである。つまり〝本誌特派〟という肩書きの〝売り方〟を問題にしたのであるが、渡辺は、「新聞と違って、出版局の雑誌には、過去のデータからくる〝返本率〟という目安がつきまとう。だからどうしても、担当者は〝売る〟〝部数を伸ばす〟ことが、第一になってしまう」と、その、コマーシャリズム第一主義を容認せざるを得ない、といった口吻であった。

正力松太郎の死の後にくるもの p.290-291 社内での〝立身出世〟の道

正力松太郎の死の後にくるもの p.290-291 では、偏向朝日新聞から、一体、誰が辞めていったか? 敗戦の日、戦争協力の紙面を恥 じて〝大朝日〟を辞めた一先輩が、一人いるだけである。新聞界最右翼の朝日の高給を、おのれの信念のために投げうった記者の、誰がいるのだろうか。
正力松太郎の死の後にくるもの p.290-291 では、偏向朝日新聞から、一体、誰が辞めていったか? 敗戦の日、戦争協力の紙面を恥 じて〝大朝日〟を辞めた一先輩が、一人いるだけである。新聞界最右翼の朝日の高給を、おのれの信念のために投げうった記者の、誰がいるのだろうか。

さて、これらの問答を通して考えてみるとき、果して「朝日は左翼偏向」であろうか。

答えは、否である。渡辺は「日本の新聞の発生からの体質として『反政府』的、野党精神の伝統があるのだから、それからいっても朝日が特に〝左翼偏向〟しているとは認められない」という。事実である。部外者がそれぞれに、自分の利害の立場から、片々たる現象を利用して、〝左翼偏向〟ときめつけ、〝進歩的朝日〟と称賛するにすぎないのである。

それらの〝利用される〟現象は、すべて、社内事情から表面化してくるものにすぎないのである。出版局のコマーシャリズム、編集局のハネあがり——すべてこれ、社内での〝立身出世〟の道なのである。

もし、本当に〝朝日がアカい〟のであれば、日共秘密党員が指導しているのであれば、共同通信から多くの人材が他社へ流出したように、朝日をあきたらなく思う人物は退社してゆくハズである。では、偏向朝日新聞から、一体、誰が辞めていったか? 敗戦の日、戦争協力の紙面を恥 じて〝大朝日〟を辞め、小新聞〝たいまつ〟を出した一先輩が、一人いるだけである。新聞界最右翼の朝日の高給を、おのれの信念のために投げうった記者の、誰がいるのだろうか。

卒直に、〝経営者〟としての信念を語る渡辺の実力は、笠信太郎でさえ認めざるを得なくて、笠も渡辺を登用したという。その笠でさえ、小和田には「六〇年安保以後の新聞、放送のたどった反動化の指針を示した」と、きめつけられ(前出「潮」別冊冬季号)、旧部下の佐藤信にも、

「常務の職と給与を前にして岩波進歩派グループからぬけた〝安全な思想家〟」と皮肉られるほど(同著「朝日新聞の内幕」)なのである。

朝日が左翼偏向しており、秘密共産党員が紙面をリードしている——これが〝神話〟でなくてなんであろうか。

大体からして、小和田次郎なる〝匿名〟の現役記者は、組織の中で、編集しかみていないのだから、「デスク日記」は書けるかもしれないが、新聞および新聞社というものを、マクロに眺めるには、ヨシのずいから天井をのぞいているようなものである。

六百万部の朝日を実現せんとする、隆々たる社運だから、「このため、広告界との力関係でも、金融資本や政府権力との力関係でも、相対的ながらもっとも独自性を保持しやすい条件におかれている、ということができる」と、単純な考え方をする。

過去五年間(自三十八年度、至四十二年度)の経営数字の一覧表(S銀行調査部調べ)によると、朝日の銀行借入れ金は、部数の伸びに比例して漸増の傾向を見せていることがわかる。

「大阪本社の新築経費の分で、長期借入れ金が増えているのは事実。短期資金がふえるのは、社業がのびているから、これも当然。一番苦しかったのは、広岡専務時代になった昭和四十年ごろ。二本のケイ光燈を一本消し、トイレット・ペーパーさえ節約した時代があった」と渡辺はいう。

正力松太郎の死の後にくるもの p.292-293 資本主義下の〝マス〟コミュニケーション産業の特質

正力松太郎の死の後にくるもの p.292-293 小和田の見解の皮相さは明らかである。〝隆々たる社運〟になればなるほど、運転資金の需要は増大し、借入金への依存度が強まるのである。「金融資本や政府権力に対する独自性」は、いよいよ崩れてゆく
正力松太郎の死の後にくるもの p.292-293 小和田の見解の皮相さは明らかである。〝隆々たる社運〟になればなるほど、運転資金の需要は増大し、借入金への依存度が強まるのである。「金融資本や政府権力に対する独自性」は、いよいよ崩れてゆく

この五年間の借入金は、三十七億、三十九億、六十五億、六十五億、八十七億と倍増し、これを長期、短期に分類すれば、昭和38年度の各二十二億程度が、五年後には、短期三十六億、長期九十六億とハネ上っている。長期資金は大阪新築のせいで、この三年間、五十八億、七十六億、九十六億という巨額である。そして、部数の伸びを示すものは販売(購読料)収入の百分比が、三十六~七%台だった三年間ののち、42年度で四十三%になり、五十%近い広告収入が四十六・七%という、五年ぶりの低率になっている。

小和田の見解の皮相さは明らかである。五百数十万という部数を維持し、さらに六百万の大台に向って、〝隆々たる社運〟になればなるほど、運転資金の需要は増大し、借入金への依存度が強まるのである。仕事をバリバリやればやるほど、銀行が大切になるのである。「金融資本や政府権力に対する独自性」は、いよいよ崩れてゆくのが、資本主義下の〝マス〟コミュニケーション産業の特質ではないか。

〝広告界との力関係〟もなおさらである。新聞はオリンピックに際しての過剰な設備投資と、それにつづく不況のため、大手広告主の出稿手控えに苦しんだ経験をもっている。

「読売のような、案内広告が充実しているのが、新聞としての大きな強味です。ナショナル・スポンサーという、全国相手の大広告主は、好況の時は金高を問わず出稿して、不況時にはバッタリというのが、新聞にとっては一番困るのです。そんな大手広告主は、当然のように、紙面への

口出しもするのです。

アメリカあたりでは、広告の出稿と掲載という、〝純〟経済行為と、紙面の記事とは無関係という、合理性につらぬかれているので問題はないようですが、日本の感覚的商習慣は、大きな広告を出しているのだから、記事で攻撃するなんて……、オチョウチンをもってもらいたい位だ、などという考え方をする。そこで、大広告主の記事介入といったような問題がでてくる。

ところが、案内広告のような小さな広告主は、それが団結して編集権に干渉するなんて考えられない。だから、小さなスポンサーを沢山もつというのが、編集、経営両面からみても一番得策なのです。

その上、一月八日付朝刊の各紙(読、毎、サンケイ、日経)にのった、『東大卒業生有志の会=代表安川第五郎』の『東大の学生諸君、大学を救うため全員が立ちあがろう』という意見広告の問題がある」

小和田の、部数が多いから広告面は売手市場だ、といったような単純なものではない。渡辺取締役は、この東大OBの会幹事との個人的なつながりから、この問題にタッチした真相を語る。週刊文春(二月三日号)の同記事に登場する〝重役〟とは渡辺のことである。

「朝日としては、あの意見広告を断わったりしたことから、いよいよ〝左翼偏向〟の証左の一つにされたりしてますが、そうではなくて、意見広告掲載の基準について、もう少し時間をかけ

て、統一見解をもとうとしていることなのです」

正力松太郎の死の後にくるもの p.294-295 右翼や商売人と同じ手合い

正力松太郎の死の後にくるもの p.294-295 小和田のいうような、「相対的主体性が、体制的本質の陰に喪失してゆく方向は、必至であろう」という、愚にもつかない、きまりきった判断を、類型的な漢字の羅列文で、もっともらしく表現するなど、笑止にたえない。
正力松太郎の死の後にくるもの p.294-295 小和田のいうような、「相対的主体性が、体制的本質の陰に喪失してゆく方向は、必至であろう」という、愚にもつかない、きまりきった判断を、類型的な漢字の羅列文で、もっともらしく表現するなど、笑止にたえない。

「朝日としては、あの意見広告を断わったりしたことから、いよいよ〝左翼偏向〟の証左の一つにされたりしてますが、そうではなくて、意見広告掲載の基準について、もう少し時間をかけ

て、統一見解をもとうとしていることなのです」

意見広告が出せるとなれば、金のある奴は誰でも申しこんでくる。売名、政治と思想、宗教、何でも彼でも断われなくなってくる。金のある政党といえば、まず、公明党と共産党が全頁の意見広告を申しこんできたらどうしよう。それより、東大OBの会のよびかけに対抗して、全学連がきたら、これまた断わりきれまい——といったような、社内での意見が対立したらしい。文春誌は〝朝日の良識〟と皮肉ったが、事務ベースの問題であったというものである。

このようなことでさえ、〝左翼偏向〟の証左としてもち出されるということは、渡辺のいうように、〝意識的につくられ、意識的に流されている〟ことを、裏付けるものであろう。第一、最近、問題となりはじめている、朝日、読売、毎日三社の共同通信復帰でさえも、「これは、朝日と共同のアカが、合法的に手を握り合うための陰謀で、共同通信の〝偏向記事〟が、朝日の巨大な発行部数の紙面に、共同のクレジット付きで印刷される危険が増大している。共同の偏向記事は、今でこそ、一部地方紙にしか印刷されないのだが、これは大問題である」と、憂えている老新聞人もいる。

この稿の冒頭でのべた、村山社主夫人をして、「朝日のアカを退治してやる」とゴマ化して、〝黒い霧〟スターたちの不動産屋に引きずりこんだ〝他称・右翼の巨頭〟などをはじめとして、「朝日はアカい。だから七〇年安保は大変だ」と、危機感をあおって、自分の〝商売〟にしたり

する連中と、そのシリ馬にのった〝憂える〟部類の、ハヤリならカゼでも引きたいという愚民どもが「朝日はアカいという神話」を信奉しているのだ。

ましてや、小和田のいうような、「TBS、共同の〝転向〟が進展するなかで、朝日の孤立化は深められ、その相対的主体性が、商業マスコミ本来の、体制的本質の陰に喪失してゆく方向は、必至であろう」という、愚にもつかない、きまりきった判断を、類型的な漢字の羅列文で、もっともらしく表現するなど、笑止にたえない。

〝主体性が体制的本質の陰に喪失する〟などと、判りにくいことをいわなくても、新聞や放送が巨大化するということは資本主義体制が進むことであり、資本が安全であるためには、反体制を打ち出せないという、中学生にも納得できる論理であり、それが必至であろうなどと、もったいぶった御託宣など無意味である。これもまた、右翼や商売人と同じ手合いである。

私は問うた。「宅配制度は崩壊すると思うのだが、御意見は?」と。

渡辺は、さり気なくこの質問をかわして、宅配制度の見通しについての、ハッキリした意見はのべなかった。そして、いかに宅配制度を守るために、必死の努力をしているかという答をもって、これにあてた。つまるところ、大阪編集局長秦正流が「崩壊は時の流れでもあろう」と、直截に語ったのにくらべるならば、渡辺の発言はより重大な影響があるので、言葉を濁したのであろう。

正力松太郎の死の後にくるもの p.296-297 宅配制度の見通しに対しての渡辺の発言

正力松太郎の死の後にくるもの p.296-297 渡辺とのインタビュー二時間半をふり返ってみると、将来における見通しについては、極めて慎重。もちろん、「経営、業績ともに好調」と断言する渡辺が、今、〝宅配は崩れる〟とはいえない立場であることは、明らかである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.296-297 渡辺とのインタビュー二時間半をふり返ってみると、将来における見通しについては、極めて慎重。もちろん、「経営、業績ともに好調」と断言する渡辺が、今、〝宅配は崩れる〟とはいえない立場であることは、明らかである。

渡辺とのインタビュー二時間半をふり返ってみると、過去の事実については、彼は極めて歯切れのよい発言をして、是は是、非は非としての、明快な結論を出すのだが、将来における見通しについては、極めて慎重であって、発言の影響やら、将来の、より重要な責任者としての〝食言〟を避ける配慮が、あのさわやかな弁説の流れの中で、よどみなく配られていたようである。

もちろん、広岡社長の下で、総合企画室長として、五カ年計画の立案者であり、「社主問題はもちろん、経営、業績ともに、広岡社長時代に入って、極めて好調である」と断言する渡辺が、今、〝宅配は崩れる〟とはいえない立場であることは、明らかである。

「さきごろの値上げ分八十円は、間違いなく全額を、宅配確保のための経費にまわした。これをどう使うかに、販売店ごとの実情に即して、店主に一任されている」「昔は、記者の待遇が一番よかったのだが、戦後は労働組合に、記者も工員も包含されて、同一賃金ベースになった。それが、今度は、宅配確保のために、販売店とその従業員までも、組合員に近い形で包含させられることを迫られつつある」「事実、退職金もなければ、昇給、栄進のない仕事では、労務管理上、極めてやりにくい。そこに人手確保の条件が、地域や時期(学校の試験、休暇)などで、それぞれ違うことが、さらに困難を加えている」「共販の問題はまだむずかしい。拡張の面からいうと、〝あの子が配達しているから〟といったように、配達員、集金員と読者との、人間的つながりが、部数確保、拡張などの面で、やはり無視できない要素である」

宅配制度の見通しに対しての、渡辺の発言は、大体、要旨このようなものであった。見通しについて、直接は答えていないけれど、これらの言葉の中には、私がいままで提起してきた、多くの問題について、はなはだ示唆的な回答が含まれている。

例えば、新聞経営は、部数の頭打ち(世帯数増加程度の伸びはある)で、読者の争奪戦となっている。これは、放送が二十四時間という、全時間を売り終った時と同じような状態で、利潤をあげるためには、値上げと合理化促進以外の途がなくなることを意味する。

従って、小刻み値上げはひん度を増すであろうし、合理化が徹底しなくてはならない。速報性を失った新聞にとっては、〝号外〟を刷るために整備された自営印刷工場も、今や負担になってきて、カラー印刷などの〝紙面効果〟以外に効用価値がなくなり、できれば、離して、外注にしたいあたりが本音であろう。

それなのに、労働組合があるため、工場部門を切りすてられないでいる。そこに切捨てに逆行して、販売店やその従業員までも、下手をすると、傘下に抱えこまねばならないとも限らない。東京都新聞販売同業組合PR版「読者と新聞」二月号は、今東光大僧正の談話として、「新聞社の準社員として社会的地位の向上はかれ」と早くも謳いだしている。これは新聞企業の自殺を意味することで、とうてい無理な注文であり、だから、「宅配は崩壊する」のである。

八十円の値上げ分が、社に入らなかったことは確かであろう。しかし、それが販売店主に渡さ

れるということは、地域差のため一律化がむずかしい(本社員に加え、組合員とすれば、従業員の待遇の一律化も可能である)とはいっても、タクシー値上げと同様に、会社が肥るだけで、運転手は依然としてカミカゼ、乗車拒否というのと同じである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.298-299 あの檄文を「声」欄に安川第五郎名儀で

正力松太郎の死の後にくるもの p.298-299 すると、安川老は一カツしたそうである。「新聞の投書欄に引きずりこもうというのか!」と。ニセ投書やらで〝声〟価をとみに落した〝声〟欄である。投書するのは常連で、それこそ〝車夫馬丁の集り〟ぐらいにしか、安川老には考えられないのだろう。
正力松太郎の死の後にくるもの p.298-299 すると、安川老は一カツしたそうである。「新聞の投書欄に引きずりこもうというのか!」と。ニセ投書やらで〝声〟価をとみに落した〝声〟欄である。投書するのは常連で、それこそ〝車夫馬丁の集り〟ぐらいにしか、安川老には考えられないのだろう。

八十円の値上げ分が、社に入らなかったことは確かであろう。しかし、それが販売店主に渡さ

れるということは、地域差のため一律化がむずかしい(本社員に加え、組合員とすれば、従業員の待遇の一律化も可能である)とはいっても、タクシー値上げと同様に、会社が肥るだけで、運転手は依然としてカミカゼ、乗車拒否というのと同じである。

そして、「宅配確保のため」という理由で、ともかくも、四十三年の値上げが読者に押しつけられたのであったが、ふたたび、四十四年度の値上げ九十円が、さまざまな理由で押しつけられた。トップを切った毎日が十月十五日、読売十九日、朝日二十二日、サンケイ、日経二十五日といった順である。国鉄の新聞運賃値上げが第一の理由で、菅野経企長官の撤回要求無視の上だ。

「レンタル・システムのファクシミリが各家庭に備えつけられて、家庭では、必要とする種類の通信をとって、その料金を支払うことになろう。そんな時、全面広告が送られてきたりして、その料金を請求されてモメたりするかもしれない。それでも、外国の学者や新聞人たちには、今の形の新聞は滅亡しないという意見が強い。その時代への準備は怠っていない」

簡単にハショッたが、渡辺の〝未来新聞学〟は、さながらSF小説のように面白かった感じが残っている。やはり、なかなかの人物のようである。

私は反問した。「部数が不安定では、経営が不安定だというのは新聞経営者としての一方的な考え方であって、そこでは〝読者不在〟ではないでしょうか」と。

事実、これからの「マスコミとしての新聞」においては、いよいよ読者不在の傾向が強くなっ

てゆくのである。それが、朝日、読売の二巨大紙の〝超巨大化〟を推進して、いわゆる言論機関としての機能が退化し、意見広告などの、広告面を中心とした〝広報伝達紙〟の形をとってくるであろう。

意見広告を朝日に拒否された東大OBの会では、渡辺重役のあっせんで、あの檄文をそのまま、投書欄の「声」欄に安川第五郎名儀で掲載しようと申込まれた。すると、安川老は一カツしたそうである。「新聞の投書欄に引きずりこもうというのか!」と。竹山道雄の「ビルマの竪琴」論争やら、ニセ投書やらで〝声〟価をとみに落した〝声〟欄である。いくら、オピニオンのページと銘打っても、投書するのは常連が多い(太田秘書室長の話)ので、一部の特殊な人物に利用されているのだから、それこそ、〝車夫馬丁の集り〟ぐらいにしか、安川老には考えられないのだろう。

意見広告のすう勢に、同時に、言論機関としての、ミニコミ、小新聞、ガリ版新聞の隆盛を促してくるのだ。ここに、ハッキリと大新聞と小新聞の機能別併存が約束されよう。

「社主問題は、極めてよい状態へと向かっており、解決の曙光が見えてきている。それは、村山社主側が常に側近にまどわされて、朝日新聞にとって、悪い方の途をえらびつづけられたから、社内に支持者を失ったことと、広岡社長の下で、社運が隆盛へと進んでいること。さらに重大なことは、社主の次女富美子さん御夫妻が、解決への努力をつくされていること、などが理由です」

正力松太郎の死の後にくるもの p.300-301 〝凋落の毎日〟と極めつけるだけではなく

正力松太郎の死の後にくるもの p.300-301 毎日の歴史から容易に判断されるものが、大阪(大毎)、東京(東日)の二つの大きな派閥が生まれるであろうということである。つまり、人事閥では大阪が主力でありながら、業績の面では、東京が重点という現実。
正力松太郎の死の後にくるもの p.300-301 毎日の歴史から容易に判断されるものが、大阪(大毎)、東京(東日)の二つの大きな派閥が生まれるであろうということである。つまり、人事閥では大阪が主力でありながら、業績の面では、東京が重点という現実。

最後に、前項でのべたABCレポートによる、読売との全部数差四十万が、追い抜かれはしないだろうか、という質問をした。

渡辺は、この時はじめて、静かな闘志を瞳に輝かせて、答えたのである。

「部数競争が、新聞のすべてではない。しかし、部数がトップであるということは、大切なことだ。社員の士気からいっても、朝日はこの競争にも勝ち抜く!」

銀行借入金、ついに百億突破

毎日新聞についても、〝凋落の毎日〟と極めつけるだけではなく、一通りの解析を加えてみよう。

毎日は、大阪、東京、西部、中部の四本社制をとっているが、登記面では、大阪本店、東京、西部(北九州市)両本社が支店、名古屋の中部本社が別会社である。この歴史から容易に判断されるものが、大阪(大毎)、東京(東日)の二つの大きな派閥が生まれるであろうということである。つまり、人事閥では大阪が主力でありながら、業績の面では、東京が重点という現実が、毎日新聞の分析の上で、大きなポイントにならざるを得ない。事業の主体が東京にありなが

ら、本田元社長の大阪編集主幹、上田前社長の大阪営業系出身とあっては、人事の主流は大阪系である。

本田〝天皇〟時代の様子については、すでに述べた通りであるが、その〝退位〟を迫ったのは、現会長の田中香苗ら東京系幹部による、一種のクーデターであった。そして、そのクーデターは、内外への影響を考え、流血の惨を避けて、暫定首班として人格穏健な上田常隆がえらばれたのであった。

国敗れて山河あり! 革命の推進力であった田中——梅島ラインには、この莫大な借金を背負った毎日新聞の経済復興には、メイン・バンク三和銀行との円滑な接衝が苦手だったらしい。そのため、銀行筋にもよい上田が浮んできたのである。

上田社長の就任第一声は、「社内民主化」であったからである。本田〝天皇〟時代の、全くのワンマン政治は、読売における正力の如く、実力とオーナーとしての権威に裏付けされた「ワンマン」と違って、法律的な代表権にのみ保護された、いわば、成り上り者の強権政治であったから、〝物言えば唇寒い〟陰湿な派閥を生んだのであった。

かつての毎日新聞は、営業が鹿倉吉次(現最高顧問兼東京放送相談役、四十四年十月死去)。 編集が高田元三郎(現最高顧問)の両氏に代表されており、やはり、営業系列の人が実権を握っていた。つまり、編集出身者は、ゼニコに弱いという、経営者としての資格にかけるうらみがあ

ったからである。そして、東西合併後も、不思議と営業系列は一本化していたのに対し、編集は常にいくつかの系列にわかれて対立していた。これは、営業が実権を握るために、煽動していたのではないかとも、疑われるフシが、ないでもなかった。

正力松太郎の死の後にくるもの p.302-303 毎日と、朝日・読売との基本的な違い

正力松太郎の死の後にくるもの p.302-303 毎日には、資本家重役がいない。毎日経営陣は、これすべてサラリーマン重役なのである。大株主をあげれば、販売店主の集まりで、社長がその会長をかねている、財団法人毎日会が一一・六%…
正力松太郎の死の後にくるもの p.302-303 毎日には、資本家重役がいない。毎日経営陣は、これすべてサラリーマン重役なのである。大株主をあげれば、販売店主の集まりで、社長がその会長をかねている、財団法人毎日会が一一・六%…

かつての毎日新聞は、営業が鹿倉吉次(現最高顧問兼東京放送相談役、四十四年十月死去)。 編集が高田元三郎(現最高顧問)の両氏に代表されており、やはり、営業系列の人が実権を握っていた。つまり、編集出身者は、ゼニコに弱いという、経営者としての資格にかけるうらみがあ

ったからである。そして、東西合併後も、不思議と営業系列は一本化していたのに対し、編集は常にいくつかの系列にわかれて対立していた。これは、営業が実権を握るために、煽動していたのではないかとも、疑われるフシが、ないでもなかった。

そのように、営業畑が比較的波静かだったので、上田は、経理、広告、総務、人事などの部門を、順調に歩んできた。昭和九年ごろ、まだ三十歳の初期の青年上田常隆は、当時NHKで放送されて好評だった、友松円諦師の「法句経講義」に聞き入って、大いに開眼するところがあったという。この話からも判断されるように、その真面目で真摯な人柄が、次第に支持者をふやし、ことに、銀行筋の圧倒的信頼を集めていった。いうなれば、読売における務台副社長とも比肩される、銀行の支持だったのである。

上田社長は、その人柄ゆえに、社長となるや、直ちに、集団指導制の確立を図った。本田ワンマン時代の反動としても当然であるが、氏自身が、親分にへつらい、子分を養うタイプではなかったし、何よりも、彼の双肩には、「経営の建て直し」という、重大な使命が課せられていたからである。その第一声が、「社内民主化」であったということは、つまり、派閥という言葉をさけているが、派閥の存在を認め、その弊害が毎日の存立をおびやかした事実を卒直に承認した上での、派閥の打破であった。そのためにも、派閥の親分、師団長クラスを全部あつめて、その集団指導制をとり、その中で、派閥を序々にブチ壊してゆこうとしたかの如くみられる。つまり、河

野一郎を大臣にして、閣内協力のワクをはめるのと同じように、実力者たちで重役陣を編成し、各派閥の長老たちには「顧問」の地位を用意した。能力ある者が、その能力を「最大限に発揮できる」ように、「徹底的ディスカッション」による「集団指導制」——その安定の上にのった、社長としての「カジ取り」を考えたのである。

ここでまず、毎日と朝日、読売との、基本的な違いをみつめねばならない。つまり、毎日には、明治十五年以来、一世紀近い歴史がありながら、その歴史と共に歩んできた、資本家重役がいない、ということ。これを裏返せば、毎日経営陣は、これすべてサラリーマン重役なのである。株式はもちろん、社内株であるが、大株主をあげれば、販売店主の集まりで、社長がその会長をかねている、財団法人毎日会が一一・六%、前社長上田常隆一・一%、原為雄(相談役)、安部元喜(客員)各〇・九%、本田親男(元社長)、後藤弁吉(客員)各〇・八%という分布である。しかも、この数字を前年度以前と比べてみると、社長交代などの異動のたびごとに、常に動いているのである。

ところが、朝日では、村山長挙一二・〇%、村山於藤一一・三%、村山未知子、同富美子各八・六%(計、村山家で四〇・五%)、上野精一、一三・八%、上野淳一、五・七%(計、上野家で一九・五%)と、両家の合計は六割となり、この数字、比率は、戦後一度も動いていない。

また、読売の場合は、正力の個人持株を分離した、財団法人正力厚生会二〇・九%、正力松太

郎六・六%、小林与三次(副社長、正力女婿)六・二%、関根長三郎(正力女婿)五・五%、正力亭五・〇%(計、正力家で四四・二%)、務台光雄(副社長)四・〇%、高橋雄豺(顧問)三・四%となっている。

正力松太郎の死の後にくるもの p.304-305 毎日の百二十五億の借入金は多すぎる

正力松太郎の死の後にくるもの p.304-305 読売の一行当り最高額は、住友の九億がトップで、合計四十一億。朝日は住友二十二億を頂点に、合計九十四億で、読売の二倍強。毎日は三和の四十二億を最高に、合計百二十五億で、読売の三倍強という、借金である。
正力松太郎の死の後にくるもの p.304-305 読売の一行当り最高額は、住友の九億がトップで、合計四十一億。朝日は住友二十二億を頂点に、合計九十四億で、読売の二倍強。毎日は三和の四十二億を最高に、合計百二十五億で、読売の三倍強という、借金である。

また、読売の場合は、正力の個人持株を分離した、財団法人正力厚生会二〇・九%、正力松太

郎六・六%、小林与三次(副社長、正力女婿)六・二%、関根長三郎(正力女婿)五・五%、正力亭五・〇%(計、正力家で四四・二%)、務台光雄(副社長)四・〇%、高橋雄豺(顧問)三・四%となっている。

このような、株主構成、つまり、経営体のあり方の差は、同時に、銀行資金の流入状態にも現れてくるのは否めない。「正力の読売」として、前だれ姿の〝正力商店〟ともいうべき、零細企業から出発し、中小企業から、大企業と育ってきた読売には、いわゆるメイン・バンクがないことは、先にも述べたが、これを銀行別に借入金を調べてみると、住友の九二六(単位百万円)を筆頭に、以下、三井九二四、富士五八四、勧銀五六○と続き、大阪読売では、三和、富士、住友、東海の各一五四(計六一六)、三井信託一五八、安田信託一五〇、三菱信託一一六、長銀一一一となっている。東京本社の新社屋建設に備えてか、東京での借入金を整理して減らし、これを大阪読売に転嫁している。

「新聞の公器性ゆえに、銀行としては、新聞社には、ある程度の融資のおつきあいは申しあげねばならない」とは、某行幹部の言葉だが、読売の実情をみると、このおつきあいらしく、住友など十行から、合計四十一億四千五百万円を借りている。

これに対し、朝日はメイン・バンク住友から二二一七、長銀一六九八、日本生命一三七五、住友信託二一〇五、三菱信託八二八、富士七一三、三和五五二と、七行合計九十四億八千八百万

円。

毎日はどうかといえば、朝日の住友の二十二億をグンと引き放して、そのメイン・バンク三和から四二三一、日本生命二〇〇五、三菱二一七〇、大和一七〇七、住友九五〇、三井九七二、東洋信託四八八。七行合計百二十五億二千三百万円という、巨額の借入金を抱えている。

これを比べてみると、読売の一行当り最高額は、住友の九億がトップで、合計四十一億。朝日は住友二十二億を頂点に、合計九十四億で、読売の二倍強。毎日は三和の四十二億を最高に、合計百二十五億で、読売の三倍強という、借金である。もっとも、朝日も大阪本社の新社屋建設、毎日はパレス・サイドビル移転と、朝毎は移転、新築を終っているのに対し、読売はこれから二百億の本社建設にとりかかるから、借入金もふえるのだが、それにしても、毎日の百二十五億の借入金は多すぎる。有楽町から〝名誉ある撤退〟をして、土地を売ったにしては(四十三年度の資料の数字だが)相当な赤字だということがうかがえよう。

過去五年間の借入金合計をみてみよう。三十九年度九十億(三和三十七億)(端数四捨五入)、四十年度八十三億(三十三億)、四十一年度八十六億(三十四億)、四十二年度百億(三十四億)と、一度四十年度に下った数字が、以後はどんどん上っている。これも本田時代の三十五年度の五十五億からみれば、物価の上昇率を上廻っての、借入金激増であり、メイン・バンクの三和が、四十、四十一、四十二年度は三十三億台をもちつづけていたのにもかかわらず、借入金合計が上昇していることは、〝借りれるところすべてを借り廻っている〟感じで、四十三年度に、三和が三三八

六から一挙に四二三一と上昇すると同時に、トータルでは九九五〇から一二五二三(いずれも単位百万円)と、大膨張していることは、注目しなければならない。

正力松太郎の死の後にくるもの p.306-307 今や東大出でないとダメなんだよ

正力松太郎の死の後にくるもの p.306-307 昭和十八年ごろ、朝日は早稲田、毎日は慶応でなければ、出世も登用もされないと、喧伝されていたほど。ところが、上田時代の役員一覧表をみると、ナント東大が七名、官公立が過半数を占め、慶応はわずかに一名。
正力松太郎の死の後にくるもの p.306-307 昭和十八年ごろ、朝日は早稲田、毎日は慶応でなければ、出世も登用もされないと、喧伝されていたほど。ところが、上田時代の役員一覧表をみると、ナント東大が七名、官公立が過半数を占め、慶応はわずかに一名。

過去五年間の借入金合計をみてみよう。三十九年度九十億(三和三十七億)(端数四捨五入)、四十年度八十三億(三十三億)、四十一年度八十六億(三十四億)、四十二年度百億(三十四億)と、一度四十年度に下った数字が、以後はどんどん上っている。これも本田時代の三十五年度の五十五億からみれば、物価の上昇率を上廻っての、借入金激増であり、メイン・バンクの三和が、四十、四十一、四十二年度は三十三億台をもちつづけていたのにもかかわらず、借入金合計が上昇していることは、〝借りれるところすべてを借り廻っている〟感じで、四十三年度に、三和が三三八

六から一挙に四二三一と上昇すると同時に、トータルでは九九五〇から一二五二三(いずれも単位百万円)と、大膨張していることは、注目しなければならない。

この数字だけみても、毎日の調落ぶりは明らかである。本田から上田への政権交代が、三十六年一月だから、四十年度に合計で約七億(三和だけで四億)減らしたのは、上田の功績ともいえるが、有楽町から竹橋への移転は四十一年秋、つまり、有楽町の土地などを処分した時期なのだから、当然であろう。しかも、上田から現会長田中香苗、現社長梅島楨のコンビに変ったとたんに、借入金が二十六億もふえたのである。金融能力があったといえばいえようが、これでは、毎日新聞は全く斜陽の一途をたどっているとしかいえないだろう。しかも、発行部数は四百万の大台割れに近づき、読売の三倍の借金を抱えているのである。付言するならば、田中、梅島ともに、東京入社の東京系。本田、上田の大阪系に対する〝クーデター〟とみる所以だ。

東京拮抗の毎日人事閥

さて、数字による例証が、いささか長きに失したようである。角度をかえて、田中業績は未知

として、上田業績を眺めてみたい。

私が読売に入社した昭和十八年ごろ、朝日は早稲田、毎日は慶応でなければ、出世も登用もされないと、喧伝されていたほど、学閥華やかであったらしい。日大の私が、学閥なしで実力次第といわれていた、当時の読売をえらんだ理由の一つに、それがある。

ところが、上田時代の役員一覧表をみると、十六名の取締役に、三名の監査役、酒井衍(東大)、梶山仁(青学)、高原四郎(東大)と、十九名中、ナント東大が七名、京大二名、東北大一、商大三(東京、神戸、大阪)と官公立が十三名の過半数を占め、慶応はわずかに一名、早、明、青学、東亜同文、府立高工芸の各一名が続いている。「慶応でなければ人にあらず」どころか、官学にとって代わられているではないか。

さきごろ、停年退職した慶応出の毎日記者をたずねて聞いてみると、「今の毎日は変った。今や、役人と仲よくできる奴、つまり東大出でないとダメなんだよ」という。戦前に「三田会」(慶大出身者の会)を結成しようとして、同氏が社内を駈けまわったところ、「毎日三田会の会員でないと、人でないような傾向が出そうなほど、慶大出身の社員が多いから、会の結成はやめろ」と、社の幹部に注意されたという。ところが、同氏の停年間際になって「今度は人数が少ないから結成してもよい」と、お許しが出たのだ、と、同氏は嘆ずる。

かつての官尊民卑の時代、新聞記者はタネトリとさげすまれ、河原乞食である役者と同列にみ なされていた。

正力松太郎の死の後にくるもの p.308-309 「上田社長の人柄はおわかりでしょう」

正力松太郎の死の後にくるもの p.308-309 上田社長出現は、反本田だからではない。かえって無色であったからである。そして、社長六年におよんで、まだ、上田派なるものができないのだから、いかに彼が社長として適任であったかがわかろう。
正力松太郎の死の後にくるもの p.308-309 上田社長出現は、反本田だからではない。かえって無色であったからである。そして、社長六年におよんで、まだ、上田派なるものができないのだから、いかに彼が社長として適任であったかがわかろう。

かつての官尊民卑の時代、新聞記者はタネトリとさげすまれ、河原乞食である役者と同列にみ

なされていた。この風潮は、明治から大正、昭和とうけつがれ、野党精神旺盛な記者稼業は、私学出身者のよりどころであったのだが、戦後の民主化時代は、新聞を花形職業とし、新聞社は一流企業と肩を伍するにいたった。

競争の激しい入社試験で、一定成績以上のものを採用するとなると、答案作成技術のうまい、官学出身者が多くなる。そして、平均値の高い模範社員がふえる。私学出には型破りが多いから、平均値が下がるのである。こうして、毎日から学閥はついえ去った。現役の連中にたずねまわっても、学閥があるというものは皆無であった。

学閥はなくなったが、すでに新しい人事閥が生れていた。学閥なるものは、客観的にも先輩、後輩の仲であり、立証もやさしいが、利害、恩怨、愛憎、好悪による人事閥の説明はむずかしい。しかし、毎日を語るに、この人事派閥にふれずに通ることはできまい。

本田が十三年間もワンマンとして君臨した事実からみて、当然、本田派と反本田派とがあったことはいえる。反本田派の巨頭としては、田中香苗があげられよう。上田社長出現の経緯は、さきに説明した通りで、反本田だからではない。かえって無色であったからである。そして、社長六年におよんで、まだ、上田派なるものができないのだから、いかに彼が社長として適任であったかがわかろう。副社長工藤信一良もまた、派閥の毎日にあって、子分のない人、あるいはつくれない人である。氏の副社長兼大阪代表は、引退の花道と評されている。とすると、師団長クラ

スとなって、いずれも東京系の代表取締役である、営業の梅島楨専務、編集の田中香苗主幹、山本光春常務とならざるを得ない。

田中の反本田に対し、山本常務は本田派と社内でいわれるのだから、田中派と山本派の対立が、やはり大きな派閥を形づくっているのであろうか。株主構成からいって、誰もオールマイティーの切り札をもっていない。出身はみな同じ平社員で、新聞社の門を叩くからには、能力いずれも秀でた人ばかりとあっては、水準の高低を無視すれば、ドングリ揃いでもある。

このような、毎日の特殊事情は、労働組合にとっても、まことに不都合なことであるらしい。つまり、資本家に対して〝闘争〟して〝闘い取る〟といった、悲壮感が一向にモリ上ってこないのである。これは、台所の苦しい毎日にあって、経済闘争をやる場合、一そう奇妙なものになってくる。ある組合幹部はその悩みをこう洩らす。

「上田社長の人柄はおわかりでしょう。会社側は経営内容を卒直に出します。ガラス張りです。と認めていいでしょう。不正も、汚職もなく、またやろうにもできない、貧乏世帯です。重役の給与も、同程度の他の会社にくらべて、まず高くはない。ベース・アップもボーナス闘争も、手の内をみせられては、強いことをいえないではありませんか。御用組合だといわれ、下からの突きあげもありますが、経済闘争といっても、経営努力への叱咤勉励に終らざるを得ないのです」

サエない話だと笑ってはならない。朝日、読売が体験した体質改善の、そのチャンスさえ、つ

かめないのである。毎日の現実の中では〝革命〟はあり得ない。そして、それゆえにこそ、派閥がハビこるのではないかと思えるのだ。

正力松太郎の死の後にくるもの p.310-311 この〝ショック療法〟は確かに成功であった

正力松太郎の死の後にくるもの p.310-311 毎日紙面は全く沈滞し、読者を失っていた。この社内刷新は敏感に紙面に反映した。一日ごとに、毎日の紙面は活気を帯び、熱気さえ立っていたのである。私も、三紙のうち第一番に毎日をひろげたいという、興奮さえ覚えたほどである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.310-311 毎日紙面は全く沈滞し、読者を失っていた。この社内刷新は敏感に紙面に反映した。一日ごとに、毎日の紙面は活気を帯び、熱気さえ立っていたのである。私も、三紙のうち第一番に毎日をひろげたいという、興奮さえ覚えたほどである。

サエない話だと笑ってはならない。朝日、読売が体験した体質改善の、そのチャンスさえ、つ

かめないのである。毎日の現実の中では〝革命〟はあり得ない。そして、それゆえにこそ、派閥がハビこるのではないかと思えるのだ。

第一、当時、闘争中の「賃闘」で、毎日労組東京支部青年部が、出入りの社員にビラをまいている。そのビラそのものから、いわゆる闘志はニジミでてこない。見出しこそ、「会社、組合に挑戦、ふざけきった百円増額(年齢手当)」などとあるが、ビラの中にある「本部声明」は、「……本部は今後の道のけわしさを、今論じない……」と、所詮は、といったタメ息が、早くも洩れている感じだ。それに、「会社、組合に挑戦」とリキンだところで、その会社なるものは、このビラまき青年の〝明日〟なのである。

上田を評価するに、毎日記者の多くの人々が、彼の派閥打破への意欲と、人材登用の英断とを認める。上田自身の表現による、「社内民主化」とは、まず、東西四本社における人事の交流であった。四本社間の転勤、移動であるから、これは金をくう仕事である。だが、彼は断行した。この〝ショック療法〟(私はこうよぶ)は、確かに成功であった。折しも、朝日は社主との紛争事件の長期化が、社内の志気を沈滞させ、読売は「よみうりランド」の建設に没頭する正力の〝悲願〟にあおられて、これまたヤル気をなくしていた。

毎日自身は、それ以前から、本田〝天皇〟の末期症状で、同様にヤル気をなくして、紙面は全く沈滞し、読者を失っていっていた。この社内刷新は敏感に紙面に反映した。一日ごとに、毎日

の紙面は活気を帯び、熱気さえ立っていたのである。私も、三紙のうち第一番に毎日をひろげたいという、興奮さえ覚えたほどである。

この刷新は、同時にスター記者の売り出しであった。毎日の記事には、署名記事が目立って多くなり、「吉展ちゃん事件」の成功では、担当事件記者の都内遊説といった手まで打たれた。〝事件記者、来る!〟というガリ版刷りの折り込みチラシが、バラまかれるといった調子である。「森」シリーズの記者たち、外信部長に〝国際事件記者〟というニックネームをつけ、社会部長もまた、何かにつけては、紙面に登場してきた。

一般的な「新聞紙面」はどうであったろうか。毎日の躍進に驚いた朝日と読売は、反省して陣容を立て直した。読売でいえば、正力の女婿小林与三次住宅公団総裁(元自治次官)が入社して、務台専務とともに副社長となり、正力ワンマン・コントロールの影響を防ぐ一方で、原出版局長が常務編集局長として、積極的な紙面造りをはじめた。

そのころまで、毎日の独走だった〝熱のある紙面〟は、にわかにシボンで、また、以前の沈滞がよどみはじめた。この現象を、ある毎日幹部は、「朝日、読売の立ち直りで、以前ほど光らないだけだ」と説明するが、一人の毎日社会部の古手記者はいう。

「田舎記者をこの大東京にもってきて、即座に戦力たり得るだろうか。マンモス東京のもつ環境的な悪条件が、清浄な地方の条件に適応していた彼の肉体や精神に変化を与えるのが当然だ。た

とえば、興亜建設大橋事件の抜かれっ放しなど、地方の区検と、東京地検特捜部とを同一検察庁とみるに等しい。そりゃ、上京当時こそハッスルするだろうが」
彼は、派閥打破の上田の意欲に、十分に納得し、それに賛成した上で、こう、技術的に批判する。

正力松太郎の死の後にくるもの p.312-313 毎日の〝ショック療法〟

正力松太郎の死の後にくるもの p.312-313 大小のショックを与えてみて、一時は病状好転かと思えたが、結果はやはり、思わしくなかったのである。例えば、〝国際事件記者〟として売り出され、すっかり〝スター〟になってしまった、大森実の退社問題がある。
正力松太郎の死の後にくるもの p.312-313 大小のショックを与えてみて、一時は病状好転かと思えたが、結果はやはり、思わしくなかったのである。例えば、〝国際事件記者〟として売り出され、すっかり〝スター〟になってしまった、大森実の退社問題がある。

「田舎記者をこの大東京にもってきて、即座に戦力たり得るだろうか。マンモス東京のもつ環境的な悪条件が、清浄な地方の条件に適応していた彼の肉体や精神に変化を与えるのが当然だ。た

とえば、興亜建設大橋事件の抜かれっ放しなど、地方の区検と、東京地検特捜部とを同一検察庁とみるに等しい。そりゃ、上京当時こそハッスルするだろうが」

彼は、派閥打破の上田の意欲に、十分に納得し、それに賛成した上で、こう、技術的に批判する。

電波の発達によって、新聞はその速報性を奪われたという。確かにそうであろう。しかし、新聞が失った速報性は、ホンの一部のニュースの分野で、である。またいう。速報性を失った新聞は、その解説性を強調すべきであり、記録性をも具備しなければならない、と。事実である。だが、新聞はすべての分野で、速報性を失っていない。

新聞が解説を主力とするならば、解説は主観が入るのだから、署名記事にすべきで、署名が入るから、スター記者が生れるのが当然である——この論理の組み立ては、一応筋道が立ってはいるが、重大な誤ちを犯している。第一前提である、「新聞は解説を主力記事とする」という点で。

今、三紙の記事量の何パーセントが解説であろうか。速報性をほとんど失っていない新聞の現状で、かつまた、現在の新聞が必死になって、維持しようとしている「宅配」の習慣、そして、紙面をひろげてみるという、随時性の長所に、完全に馴らされている読者の現況の中で、新聞は依然としてその速報性を失っていないのである。

テレビ受信機の普及率、トランジスタ・ラジオの生産台数、カー・ラジオの……と、どんなデータをあげても、新聞が奪われた速報性は、ホンの僅かであり、それを立証するものは、一日に

三千万枚も発行されている新聞紙面で、ニュースの占めているパーセンテージである。これが、私のいう、毎日の〝ショック療法〟の根拠である。スター記者は意識して造られたもの、なのである。毎日新聞の退勢挽回のコマーシャリズムのため、〝売り出された〟ものである。この、スター売り出しが、ショックとなって、全社が立ち直るかと判断されて、大きなショックを与えてみたのである。人事交流しかり、若手抜てきしかりだ。大小のショックを与えてみて、一時は病状好転かと思えたが、結果はやはり、思わしくなかったのである。

〝外報の毎日〟はどこへ

例えば、〝国際事件記者〟として売り出され、すっかり〝スター〟になってしまった、大森実の退社問題がある。

大森記者の退社をめぐるイキサツも、各種の情報が入り乱れて、真相はつかみ難い。しかし、その〝各種の情報〟が出るところに、今日の毎日の性格が現れている、と、みることは偏見にすぎるであろうか。