迎えにきたジープ p.028-029 諜報基地〝マイズル〟

迎えにきたジープ p.028-029 Captain Sakamoto looked for an advisor. He recruited former Major Masatsugu Shii (military school 52nd), who was a 35th Air Force staff member, returning from Siberia and living in Maizuru. This is the person later known in the Rastvorov case.
迎えにきたジープ p.028-029 Captain Sakamoto looked for an advisor. He recruited former Major Masatsugu Shii (military school 52nd), who was a 35th Air Force staff member, returning from Siberia and living in Maizuru. This is the person later known in the Rastvorov case.

二十三年暮ごろ、LSとCICのセクショナリズムがひどすぎるので、この調整機関と広報をかねて、新しい組載として第五班ができた。この班の仕事はCIE(民間情報教育局)に属し、引揚者の更生教育の指導と報道関係とにあった。この長には函館からキヨシ・坂本(サカモト)という二世大尉が着任した。彼の発言はLSのリッチモンド少佐を押えるほどであった。広島県出身の二世で、中学は日本で卒業しているといわれ、非常に日本人的感覚のある二世らしからぬ二世であった。

第二次大戦に州兵師団の兵隊として軍隊に入ったが、ガダルカナルの戦闘で、攻撃進路の偵察、島嶼作戦の事前工作などで、抜群の功績をたて、さらに、ブーゲンビル、比島と転戦して任官した。

着任した坂本大尉は、アドバイザーを探して、舞鶴在住のシベリヤ帰り、元第三十五航空軍参謀志位正二少佐(52期)を採用した。これがのちにラストヴォロフ事件で自首してきた問題の人物である。

舞鶴の港を握っていたのは軍政部で、ポート・コマンダーは同部の若い少尉スターだった。彼はテイラーと同様に抜身の拳銃をブラ下げていたが、さっそうとしていて、キング・オブ・マイズルと呼ばれていた。引揚船が入港すると、星条旗をハタめかしたランチに乗って船にいった。

 船長、パーサー、復員官らからナホトカの状況、引揚者の船内動向などを聞いて、下船の指示を下す。そして、彼自身は援護局の入口桟橋で引揚者を迎えて、『ミナサン、モウココデハダレモ〝ダワイ、ダワイ〟トイイマセン、アンシンシテクダサイ』と挨拶しては、〝ダワイ〟というロシヤ語に喜んでいた。

もう一つ書かねばならない組織がある。新しいアドバイザー・グループである。復員庁の顧問団がやめて、G—2から八名の日本人が派遣されてきたのである。その中にはハルピン特機育ちで、ハルピン保護院(監獄)長だった前田瑞穗元大佐(33期)、前川国雄元少佐(45期)らがおり、この八名のうち七名までが元軍人だった。

米国の秘密機関の詳細については、後のNYKビルの項にゆずって、このようにして東京駅前のNYKビルに直結する諜報基地〝マイズル〟は着々と整備された。まず引揚者は軍政部系統のHMで京都府職員の日本人の手によって下調査され、LSかCICに廻される。LSは一—四班まであり、前記八名の日本人を顧問として兵要地誌の調査をやる。ここは前期には言学部といったが、後期は連絡部と呼ばれていた。CICは飜訳部といいスパイ摘発専門。坂本(サカモト)大尉の第五班がその間の調整という分担だった。LSとCICには鉄条網が張られ、武装した米兵が立つというものものしさである。

しかし、終戦直後の対ソ資料収集でも、陸海空の三軍がそれぞれにソ連関係将校を呼んでは人材の奪い合いをしたという、セクショナリズムのはげしい米人たちである。これら各機関が、ここでも同様に引揚者の奪い合いで、自己の業務ばかりを主体として他を顧みないので、引揚者の帰郷出発が遅れたり、NYKビル送りの数の多少まで争うので、日本側の業務はしばしば混乱させられていた。