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迎えにきたジープ p.026-027 拳銃を下げたテイラー

迎えにきたジープ p.026-027 This American, Taylor, who always has a bare pistol on his waist, was the first man to face a Soviet spy in Japan after the war.
迎えにきたジープ p.026-027 This American, Taylor, who always has a bare pistol on his waist, was the first man to face a Soviet spy in Japan after the war.

四 パチンコのテイラー

舞鶴には引揚開始前から米国機関がおかれていた。軍政部とCIC、大津連隊舞鶴分遣隊の三つである。ところが引揚とともにGHQの直系のLS(言学部、Language Sec.)と称するナイト少佐の調査班と、CIC(防諜隊)本部からテイラーとその副官ともいうべき中村(ナカムラ)を長とする特別班とが設置された。

軍政部は政府や民間の監督、分遣隊は警備、舞鶴CICは地区の思想問題と、それぞれの任務を持っており、そこにさらに全く指揮系統の違う二つの機関ができたので、この五つの米国機関はそれぞれニラミ合いのような恰好になってきた。

第一次引揚でナイト少佐班の二世たちが、クソの役にも立たないことを知ったG—2では、顧問団を教官として二世たちにスパイ容疑者訊問法を教育しはじめるとともに、スパイ関係調査は特派CICの管轄に入れることとした。

スパイ関係を受持ったこの特派CICは、G—2の調査班とも、また同じCICである舞鶴CICとも仲が悪かった。そのキャップであるテイラーという男の実態は判らなかった。独系のスポーツ選手のような身体つきの、三十四、五才の男だったが、いつも抜身でパチンコをブラ下げており、他の米人たちからもケムたがられていた。彼は日本語が自由なくせに、使ったこともなければ、分らないようなフリをしており、しかも東京では中佐の階級章をつけていたのを見たという人もある。

中村(ナカムラ)という二世はまだ二十四、五才の男で、テイラーの子分のような男だった。このテイラーというアメリカ人が、戦後はじめてソ連スパイと対決した男である。草田ら五氏は中村に呼び出され、テイラーに付き添われてNYKビルに送られたからである。米ソスパイ戦史の記録に留めねばならない男であるが、正体はついに分らなかった。

LSははじめナイト少佐以下十六名というコジンマリしたものだったが、二十二年四月の引揚再開以後は次第に人員が殖え、百名もの大世帯になったこともある。長はナイト少佐、テイラー少佐、スコット少佐、リッチモンド少佐、ダウド大佐、ハイヤート中佐と変っていった。

四月の引揚再開後は、復員庁関係の菅井元少将らの顧問団はやめて、G—2の職員として本格的採用になった日本人に変った。八月になるとスコット少佐が総指揮官として着任し、組織も拡大されてHM(統計調査部、Home Ministry)という、LSや特派CICの下請け機関ができた。

二十三年暮ごろ、LSとCICのセクショナリズムがひどすぎるので、この調整機関と広報をかねて、新しい組載として第五班ができた。この班の仕事はCIE(民間情報教育局)に属し、引揚者の更生教育の指導と報道関係とにあった。この長には函館からキヨシ・坂本(サカモト)という二世大尉が着任した。

迎えにきたジープ p.028-029 諜報基地〝マイズル〟

迎えにきたジープ p.028-029 Captain Sakamoto looked for an advisor. He recruited former Major Masatsugu Shii (military school 52nd), who was a 35th Air Force staff member, returning from Siberia and living in Maizuru. This is the person later known in the Rastvorov case.
迎えにきたジープ p.028-029 Captain Sakamoto looked for an advisor. He recruited former Major Masatsugu Shii (military school 52nd), who was a 35th Air Force staff member, returning from Siberia and living in Maizuru. This is the person later known in the Rastvorov case.

二十三年暮ごろ、LSとCICのセクショナリズムがひどすぎるので、この調整機関と広報をかねて、新しい組載として第五班ができた。この班の仕事はCIE(民間情報教育局)に属し、引揚者の更生教育の指導と報道関係とにあった。この長には函館からキヨシ・坂本(サカモト)という二世大尉が着任した。彼の発言はLSのリッチモンド少佐を押えるほどであった。広島県出身の二世で、中学は日本で卒業しているといわれ、非常に日本人的感覚のある二世らしからぬ二世であった。

第二次大戦に州兵師団の兵隊として軍隊に入ったが、ガダルカナルの戦闘で、攻撃進路の偵察、島嶼作戦の事前工作などで、抜群の功績をたて、さらに、ブーゲンビル、比島と転戦して任官した。

着任した坂本大尉は、アドバイザーを探して、舞鶴在住のシベリヤ帰り、元第三十五航空軍参謀志位正二少佐(52期)を採用した。これがのちにラストヴォロフ事件で自首してきた問題の人物である。

舞鶴の港を握っていたのは軍政部で、ポート・コマンダーは同部の若い少尉スターだった。彼はテイラーと同様に抜身の拳銃をブラ下げていたが、さっそうとしていて、キング・オブ・マイズルと呼ばれていた。引揚船が入港すると、星条旗をハタめかしたランチに乗って船にいった。

 船長、パーサー、復員官らからナホトカの状況、引揚者の船内動向などを聞いて、下船の指示を下す。そして、彼自身は援護局の入口桟橋で引揚者を迎えて、『ミナサン、モウココデハダレモ〝ダワイ、ダワイ〟トイイマセン、アンシンシテクダサイ』と挨拶しては、〝ダワイ〟というロシヤ語に喜んでいた。

もう一つ書かねばならない組織がある。新しいアドバイザー・グループである。復員庁の顧問団がやめて、G—2から八名の日本人が派遣されてきたのである。その中にはハルピン特機育ちで、ハルピン保護院(監獄)長だった前田瑞穗元大佐(33期)、前川国雄元少佐(45期)らがおり、この八名のうち七名までが元軍人だった。

米国の秘密機関の詳細については、後のNYKビルの項にゆずって、このようにして東京駅前のNYKビルに直結する諜報基地〝マイズル〟は着々と整備された。まず引揚者は軍政部系統のHMで京都府職員の日本人の手によって下調査され、LSかCICに廻される。LSは一—四班まであり、前記八名の日本人を顧問として兵要地誌の調査をやる。ここは前期には言学部といったが、後期は連絡部と呼ばれていた。CICは飜訳部といいスパイ摘発専門。坂本(サカモト)大尉の第五班がその間の調整という分担だった。LSとCICには鉄条網が張られ、武装した米兵が立つというものものしさである。

しかし、終戦直後の対ソ資料収集でも、陸海空の三軍がそれぞれにソ連関係将校を呼んでは人材の奪い合いをしたという、セクショナリズムのはげしい米人たちである。これら各機関が、ここでも同様に引揚者の奪い合いで、自己の業務ばかりを主体として他を顧みないので、引揚者の帰郷出発が遅れたり、NYKビル送りの数の多少まで争うので、日本側の業務はしばしば混乱させられていた。