赤い広場ー霞ヶ関 p.104-105 「日本人富岡芳子」それが私が発見した女だった

赤い広場ー霞ヶ関 p.104-105 On behalf of the Soviet's spy pilot who had to withdraw after the peace treaty came into force, they were trying to set up a Japanese spy pilot who would take over the work.
赤い広場ー霞ヶ関 p.104-105 On behalf of the Soviet’s spy pilot who had to withdraw after the peace treaty came into force, they were trying to set up a Japanese spy pilot who would take over the work.

二十八年四月ごろから、三鷹市下連雀の自宅でオールウェイヴ・ラジオによりソ連からの秘密暗号情報を受信、暗号解読練習をした。さらにこの秘密通信文を埋め、その通信文をソ連側に送信する送信技術をおさめた。このほか在日残存秘密特務情報網のメンバーの人相確認を行った。

この間協力者二名に対する報酬を含めて一年四千ドル(百四十四万円)を一括受領した。

▽ドル入手関係=①二十七年二月ソ連代表部で、コチエリニコフ氏から四千ドルを受取った。②被告はこのドルを二十七年四月、日本人富岡芳子を介し、昌栄貿易重役遊佐上治氏(元外務省経済局動務)らに売却、自己または他人の名儀で、興亜土地合資会社(代表者佐藤直氏)へ融資、あるいは山一証券など数社に株式売買資金として費消。

▽秘密文書関係=被告は二十七年十月、二回にわたりクリッチンに職務上の秘密文書、経済第二課企画(国際経済機関二十六年度版)上下を手渡した。

つまりこの冒頭陳述のドル入手関係に書かれている「日本人富岡芳子を介し」という、富岡芳子こそ私の発見した彼女だったのである。そして彼女によって、二十九年八月二十一日兵庫県警察本部が摘発した「英印人ヤミドル団」とスパイ網とが結ばれていたのであった。

当局の捜査は高毛礼氏からスパイ資金を受取るはずの日本人スパイ群と、高毛礼氏と同様に他のソ連人からバトンを受けついだ他の〝地下代表部員〟およびヤミドル団との背後関係の三点に向けられていたのであった。

では、ここで高毛礼氏捜査の経過をみてみよう。さる二十七年ごろからラ氏にかかる刑特法違反容疑事件の捜査を行っていた同課では、ソ連代表部員の行動調査を始めていたが、アナトリイ・F・コテリニコフ領事とL・A・ポポフ経済官(実際は政治部少佐と信じられている)両氏の乗用車を尾行したところ、三鷹市下連雀付近まで月に数回でかけるという事実をつかみ付近一帯を捜査した結果、高毛礼氏宅があるのを発見、一応チェックしていた。

ところが二十九年八月上旬、山本課長がワシントンでラ氏から、ポポフ氏担当の日本人スパイの話をきき取り、これを経歴その他に前記尾行の線がピタリ符合する高毛礼氏と判断した。その結果、約二週間の尾行から富岡氏ら四名の女性を発見したのである。

逮捕に向ったとき、同氏は『一切を死によって清算したい』旨の遣書を残して、ヌレ手拭で自殺を図ったほどで、それだけに重要な人物として厳しい追及をうけたところ、取調べ官宛に手記を書いて一切を自供したものである。

ここで当局は始めて、ソ連側では講和条約の発効によって、代表部は引揚げざるを得ないという情勢判断をしており、そのため、ソ連人に代るスパイ操縦者の日本人、いうなれば〝地下代表部員〟の設置を行っていたという、重大な事実を握ったのであった。