高毛礼茂」タグアーカイブ

最後の事件記者 p.236-237 日暮、庄司、高毛礼の検挙

最後の事件記者 p.236-237 だから、〝スパイは殺される〟という。このラ事件の日暮事務官、三橋事件の佐々木元大佐など、いずれも形は自殺であっても、この不文律で、〝殺された〟のである。
最後の事件記者 p.236-237 だから、〝スパイは殺される〟という。このラ事件の日暮事務官、三橋事件の佐々木元大佐など、いずれも形は自殺であっても、この不文律で、〝殺された〟のである。

ラ書記官の失踪はソ連代表部から警視庁へ捜索願いが出たことから表面化したのだが、その外交官は、実は内務省の政治部中佐で、スパイ操縦者だったというばかりか、失踪と同

時に、米国へ亡命してしまったということが明らかになった。

この事件ほど、当局にとって、大きなショックだったことはあるまい。米側の手に入ったラ中佐は、直ちに日本を脱出、在日ソ連スパイ網について供述した。その間、日本側が知り得たことは、ラ中佐の失踪を知って、警視庁へ出頭してきた、志位正二元少佐のケースだけである。

一月二十七日、代表部から捜索願いが出されて、二十四日の失踪が明らかになると、志位元少佐は保護を求めて、二月五日に出頭してきた。二等書記官が実は政治部の中佐、そして、ソ連引揚者で、米軍や外務省に勤めた元少佐参謀。この組合せに、当局は異常な緊張を覚えたが、肝心のラ中佐の身柄が、日本に無断のまま不法出国して、米本国にあるのだから話にならない。

ヤキモキしているうちに、米側から本人を直接調べさせるという連絡があり、七月中旬になって、公安調査庁柏村第一部長、警視庁山本公安三課長の両氏が渡米して、ラ自供書をとった。

両氏は八月一日帰国して裏付け捜査を行い、日暮、庄司、高毛礼三外務事務官の検挙となったのだ。もっとも五月には、米側の取調べ結果が公安調査庁には連絡された。同庁では柏村第一部長直接指揮で、外事担当の本庁第二部員をさけ、関東公安調査局員を使って、前記三名の尾行、張り込みをやり、大体事実関係を固めてから、これを警視庁へ移管している。

この事件は、つづいて日暮事務官の自殺となって、事件に一層の深刻さを加えた。東京外語ロシア語科出身、通訳生の出で、高文組でないだけに、一流のソ連通でありながら、課長補佐以上に出世できない同氏の自殺は、一連の汚職事件の自殺者と共通するものがあった。現役外務省官吏の自殺、これは上司への波及をおそれる、事件の拡大防止のための犠牲と判断されよう。そして犠牲者の出る事実は、本格的スパイ事件の証拠である。

スパイは殺される

ソ連の秘密機関は大きく二つの系統に分れていた。政治諜報をやる内務省系のMVDと、軍事諜報の赤軍系のGRUである。三橋のケースはGRU、ラ中佐はMVDであった。第二次大戦当時、ソ連の機関に「スメルシ」というのがあった。これはロシア語で、〝スパイに死を!〟という言葉の、イニシアルをつづったものだ。

だから、〝スパイは殺される〟という。このラ事件の日暮事務官、三橋事件の佐々木元大佐など、いずれも形は自殺であっても、この不文律で、〝殺された〟のである。日暮事務官はなぜ死んだか? もちろん、東京地検で、取調べ中の飛び降り自殺だから、遣書などありようはずがな

い。

最後の事件記者 p.238-239 なぜ妻子を残して死なねばならぬ

最後の事件記者 p.238-239 日暮、庄司両氏は、「新日本会」というソ側への協力的団体のメムバーだった。ことに日暮は佐藤大使の秘書的な立場にいたので、一番重要な人物と目されていた。
最後の事件記者 p.238-239 日暮、庄司両氏は、「新日本会」というソ側への協力的団体のメムバーだった。ことに日暮は佐藤大使の秘書的な立場にいたので、一番重要な人物と目されていた。

だから、〝スパイは殺される〟という。このラ事件の日暮事務官、三橋事件の佐々木元大佐など、いずれも形は自殺であっても、この不文律で、〝殺された〟のである。日暮事務官はなぜ死んだか? もちろん、東京地検で、取調べ中の飛び降り自殺だから、遣書などありようはずがな

い。

高毛礼元事務官の一審判決は、「懲役一年、罰金百五十万円」である。彼は報酬として四千ドル(百四十四万円)をソ連からもらっているので、この罰金がついたのである。納められなければ、一日五千円に換算して、労役場へ留置する、とあるから、これが三百日になる。合計して一年十カ月の刑である。日暮と同じ程度の刑だから、なぜ妻子を残して死なねばならないのだろうか。

終戦時の在モスクワ日本大使館。そこでは佐藤尚武大使以下、在留日本人までが館内に軟禁されていた。そして、この軟禁につけこんで、ソ連側では、スパイ獲得工作の魔手をのばしてきた。「幻兵団」と同じである。

これは、ラストボロフの自供した、ソ連代表部のスパイ一覧表をみれば明らかだ。ラ中佐の亡命時に、狸穴の代表部直結のスパイは四十八名いた。これを所属別に分類すれば、MVD四十三名、GRU三名、海軍二名、人種別では、日本人三十五名、白系ロシヤ人七名、その他の外国人六名となっている。

三十五名の日本人を、さらに分類すると、戦後ソ連抑留者二十名(幻兵団)のほか、外務省官

吏、新聞記者、旧将校らとなっている。日暮、庄司両氏は、終戦時にモスクワにいたばかりではなく、「新日本会」というソ側への協力的団体のメムバーだった。ことに日暮は佐藤大使の秘書的な立場にいたので、逮捕された三人のうちでは一番重要な人物と目されていた。

彼らが逮捕された時の、みじめな私を忘れることができない。八月十四日の公安三課のラ事件のその後の経過発表も、私の公休日という悲運だった。しかも、その時には、すでに日暮、庄司両氏を逮捕していたのである。私は休日出勤してきて、かねて準備していた、志位元少佐の記事を書いた。これはスクープではなかったが、読売が一番詳細、正確な記事だった。

不覚の涙

だが、そのあとがいけない。感じとしては誰かを逮捕しているようなのだが、全くつかめない。私用を抱えていた私は、公休日でもあったので、取材をいいかげんで投げ出してしまった。そして、出かけようとした時、一人の親しいニュース・ソースに出会った。

『お忙しそうにどちらへ?』

『イヤ、ちょっと、なに……』

『アア、目黒ですか』

彼は一人で納得してうなずいた。

最後の事件記者 p.240-241 私は特ダネ記者といわれた

最後の事件記者 p.240-241 私は泣いた。これほどの醜態はなかった。新聞記者には、「紙面で来い」というタンカがある。「紙面に現れた結果」で、勝負を争う実力の世界である。
最後の事件記者 p.240-241 私は泣いた。これほどの醜態はなかった。新聞記者には、「紙面で来い」というタンカがある。「紙面に現れた結果」で、勝負を争う実力の世界である。

不覚の涙

だが、そのあとがいけない。感じとしては誰かを逮捕しているようなのだが、全くつかめない。私用を抱えていた私は、公休日でもあったので、取材をいいかげんで投げ出してしまった。そして、出かけようとした時、一人の親しいニュース・ソースに出会った。

『お忙しそうにどちらへ?』

『イヤ、ちょっと、なに……』

『アア、目黒ですか』

彼は一人で納得してうなずいた。いつもの私なら、ここで「エ? 目黒?」と、ピンとくるはずだったが、それを聞き流してしまったのである。

翌十五日の日曜日朝、私は朝日をひろげてみて、胸をつかれた。不覚の涙がハラハラと紙面に落ちてニジんだ。朝日のスクープは、一面で日暮、庄司の現役公務員の逮捕を報じているではないか。

しかも、読売はどうであろうか。「政府高官逮捕説を、警視庁が否定」と、なくもがなの断り書を、小さな記事ではあるが、出しているのである。昨夜、電話で、「警視庁は誰も逮捕していないと、否定していますよ」とデスクに断ったのが、記事になっている。確かに、平事務官なのだから、〝政府高官〟ではないかもしれない。しかし、朝日が逮捕をスクープして、読売が否定しているのでは、あまりの醜態であった。デスクが、「じゃ断り書を記事にしておこう」といった時、私は「そんなのは、デスクの責任逃れだ」と思っただけで、あえて反対しなかったのも、痛恨の限りであった。

調べてみると、この両名の逮捕は、警視庁が極秘にしていたのを、この事件を防諜法制定の道

具に使おうと思っていた緒方副総理が、朝日の政治部記者へ洩らしたのだ、といわれている。その上、「目黒へ」といった係官から聞けば、彼は私が急いでいたので、ちょうどまだガサ(家宅捜索)をやっていた、目黒の庄司宅へ行くのだと思ったという。つまり、私がすでに庄司、日暮の逮捕を知っているものだと極めこんでいたのであった。

私は泣いた。これほどの醜態はなかった。取材源が警視庁だろうが、内閣だろうが、新聞記者には、「紙面で来い」というタンカがある。取材源や取材の経過などは、それほど問題ではないということだ。「紙面に現れた結果」で、勝負を争う実力の世界である。

私は特ダネ記者といわれた。それがこのていたらくであった。もちろん、私の記録の中にも、輝かしいものばかりではない。失敗のみじめな歴史も多い、だが、この時ほどに、ニガい思い出はない。

横井事件の犯人隠避も、惨敗の記録ではある。しかし、これは爽快な敗け戦である。思いかえしてみて、いささかも恥じない。快よい記憶である。「紙面で来い!」と、タンカをきりそこねたのである。しかも、私の先手を警察に奪われて、警察の先手を、また奪い返したからである。

スパイ事件は私のお家芸であったのだ。それで、あの三橋事件の勝利も、自信をもって戦えた

からである。それなのに、最後の「目黒へ?」という言葉も、聞き流してしまうとは!

朝日をみつめながら、私のホオはまだ涙でぬれていた。

赤い広場ー霞ヶ関 p.084-085 吉野氏の物的証拠が何もない。

赤い広場ー霞ヶ関 p.084-085 There is no physical evidence about Yoshino.
赤い広場ー霞ヶ関 p.084-085 There is no physical evidence about Yoshino.

いわゆる物的証拠というものはまず入手が困難である。関・クリコフ事件などは、現行犯逮

捕であるから物証を得られたが、ラ事件ではすべて自供である。自首した志位正二氏をはじめ日暮氏もそうである。捜査の根拠となったものが、ラ氏自供の「山本調書」である。

鹿地・三橋事件の際は、三橋自供によって、二人のレポが事前に察知されていたので、レポ現場における鹿地氏の逮捕となった。また鹿地氏の三橋氏宛ハガキ(註、のちに紛失して問題になったハガキ)も入手できたし、米国側撮影による二人のレポ現場写真もでき上ったのである。しかし、これは三橋氏が米国スパイだったから可能であった特例なのである。

吉野氏に関しては、ラ氏供述以外は何も物的証拠もない。吉野氏がラ氏などは知らないといえばそれまでである。二人のレポ現場でも撮影してあれば、知らないとはいわせられないのだが……。もちろん一民間人である吉野氏は、たとえラ氏の協力者であっても、何ら法的には拘束されない。

このような場合、当局としてあげ得る傍証には「金」がある。ラ事件で高毛礼氏が外国為替管理法違反で起訴されたように、容疑者の入金と出金とを詳細に検討してみることによって、容疑が強められる。三橋氏が自宅と敷地とを購入したなどはその例である。

吉野氏は陽当りのよい数百坪の土地を買い、こじんまりとした住宅を建てている。この資金は?という質問に対しては、

『連邦通商の取締役時代の収入ですよ』

と、言下に答えた。吉野氏の容疑は充分だが、証拠がないのである。当局では吉野氏に対して、ラ氏の協力者ではあったが、当局にとっては非協力者であると結論している。

吉野氏の言葉――アカハタの記事は、私への挑発で、何者かの陰謀だということこそ、彼が不用意に洩らした真相ではあるまいか。アカハタが平井警視正や丸山警視などの名前をあげており、吉野氏も二人に逢ったことを認めているからには、義弟S氏や友人H氏の如く、警察情報原として両氏の名前を、吉野氏からラ氏へ報告していたのではあるまいか。その情報を〝高く売り込む〟ために……。

いずれにせよ、アカハタがこのような事実を裏返しにして公表しているのは、〝何者かの陰謀〟に違いないのだろう。

吉野氏が〝協力者〟(ラ氏への)であるから〝非協力者〟(当局への)であるというのに対して、自首してきた志位氏は〝協力者〟(当局への)であったために結果的に〝非協力者〟(ラ氏への)になったという、全く対照的な立場にいる。

赤い広場ー霞ヶ関 p.100-101 赤いマニキュアの派手で豪華な身なりのご婦人が

赤い広場ー霞ヶ関 p.100-101 There is a woman behind the crime. Similarly in the case of spy cases ...
赤い広場ー霞ヶ関 p.100-101 There is a woman behind the crime. Similarly in the case of spy cases …

はじめてスパイ事件を手がけた、当時の国警都本部では、まず小説や映画でしか知らなかった「スパイ」なるものを、現実の公安警察の対象として係官たちに教育しなければならなかった。

だが、ラ事件は二度目だ。三橋事件の〝戦訓〟もある。当局と米国側とのラ氏の身柄などについての特別な関係、政府の政治的利用などから、厳重な対新聞記者防諜命令が出て、新聞記者はまったくしてやられてしまった。ラ氏が失踪してから半年、この間に彼の自供は時々変り、しかもポツンポツンと事実を語った。そのたびに米側から警視庁に連絡がくる。公安調査庁の調査官も一緒に、その関係日本人のウラ付捜査のため、六、七月はテンテコ舞いをさせられた。レポ場所を望違鏡で見張ったり、毎日映画館に通って待合室にばかり坐ったり、しかも秘密は厳守を命ぜられた。

山本課長のラ氏取調べのアメリカ出張も、ある社の記者などはほんとに京都出張だと信じこんでいた。課長が出発したあと、木幡第一係長は全係官を集めて『課長のアメリカ行の真相がバレたら、一同マクラを並べて辞表だ』と訓示するほどの、防諜ぶりだった。

課長が八月一日に帰国して二週間、ラ氏の最後的供述による関係日本人の最後の捜査が行われて、十四日朝の家宅捜索、検挙、発表となった。

こんな騷ぎも一わたりすんだある午後のこと。公安三課の事務室に赤いマニキュアの、派手で豪華な身なりの三十前後のご婦人がいた。彼女が庶務係にでもいれば、戦争花嫁の一人が米国へ行くための、証明書をとりにきただけの話にすぎない。

だが、彼女は高毛礼氏のドル関係捜査に当っていた係で、しきりに何か説明していた。

犯罪のかげに女あり。スパイ事件も、金と酒と女が出てこなくては面白くない。ピンときた私は気長にネバって、彼女の帰りを待った。自動車を呼んで玄関に待たせた。折よく雨が降ってきた。

夜八時、待ったかいがあって、彼女は幾分とまどいしながら、おびえたように玄関の階段を降りてきた。

『雨が降ってます。お送りするようにとのことです。どうぞ……』

私は名前や身分を名乗らなかったが、またウソもいわなかった。彼女は、夜のヤミと、雨と冷たい階段と、取調べの不安と、疲労との中で、つとさしのべられた暖い手に、崩れるように何の疑いも持たずに取りすがってきた。

警視庁の正面玄関。横づけされた車――。私は彼女より一歩遅れて、立番する二人の制服警官にソッとお辞儀をした。休めの姿勢だった警官はサッと足をひきつけて挙手の答礼だ。

赤い広場ー霞ヶ関 p.102-103 高毛礼は二百三十五万円を受領した

赤い広場ー霞ヶ関 p.102-103 Developed from the Rastvorov incident to a more extensive the Soviet Union's investigation of the red spy network in Japan.
赤い広場ー霞ヶ関 p.102-103 Developed from the Rastvorov incident to a more extensive the Soviet Union’s investigation of the red spy network in Japan.

車内での私の取材が始まった。取材の大半が終わったとき、私は名刺を出して記者であることを告げたのだった。

当局では彼女を高毛礼氏関係のドルの裏付捜査の参考人として、任意出頭を求めて取調べていたのであった。私はこうして、はしなくも彼女によって、もはやラストヴォロフ事件と呼ぶのには相応しくない、大規模な在日赤色スパイ網の捜査に手をつけている、当局の姿をチラリと覗いたのである。

つまりラ事件捜査の経過から、在日赤色諜報謀略網の徹底的摘発を決意した当局では、これらぼう大な組織のうち、ラストヴォロフ政治部中佐担当のスパイ線は、おおむね捜査を終り第二段階へ移った。すなわち、ラ氏自供にもとづいて検挙した高毛礼氏の背後関係から、他のソ連代表部員担当の、各スパイ線捜査へと進行していたのである。

三十年二月十一日に東京地裁で開かれた、同氏の第三回公判における、検事の冒頭陳述をみてみよう。(同日付読売、毎日新聞)

一、高毛礼被告がソ連に接近した事実=二十四年新潟市内新潟鉄工で、ソ連向け貨車数十輛の検収が行われた際、ソ連通商代表部員シュチュルバコフと知り、ソ連に親近感を抱いていた被告は、自分の退官の際ソ連人から便宜を受けようと、ソ連通商代表部に自らすすんで二十五年三、四月ごろ訪ね、ソ連在日代表部員の一員であるコチエリニコフと知り、ひそかに同人を介し、麻布狸穴のソ連在日代表部を訪ねた。

二、スパイ活動=①対ソ協力者としての誓約――二十五年十二月ころ旧在日ソ連代表部に行き、ソ連に忠実に協力して特務情報活動を行うむね誓約、特務情報活動に関する被告の番号名がエコノミストとされた。②その内容――外務省事務官として職務上入手可能な日本政府の秘密資料の内容を、ソ連のため在日特務情報機関に知らせること。③報酬と資金――二十六年一月から二十八年七月までの間、スパイ活動の報酬として、月五千円から二万五千円の定期的給与計五十八万円を受けたほか、特務情報活動用のカメラ、ラジオ受信機などの購入設備資金として数回にわたり、二十二万円、さらに二十七年二月四千ドル(百四十四万円)など総計二百三十五万円を受領した。

④スパイ活動の一般的経過――指示された方法で、毎月一、二回東京都港区芝御成門都電停留所付近、千代田区大手町常盤橋公園ほか数ヶ所の街頭を連絡場所として、二十六年一月から二十七年夏まではポポフ、二十八年末まではクリニッチンと連絡をとり、外務省資料を手渡したが、現在では特定しがたいほどの多数に及んでいる。⑤対日平和条約直前、同被告がスパイ活動のため特別な任務と訓練を受けた事実――二十七年一月から九月まで三回にわたり、コチエリニコフから代表部に呼ばれ、対日講和条約の発効に伴い、特務情報機関が日本を引揚げる場合、同被告がソ連のためスパイ活動を引続き行う任務を受け、暗号表とその解読方法、ソ連放送の聴取方法、マイクロ写真技術などスパイ活動に必要な訓練を受けた。

赤い広場ー霞ヶ関 p.104-105 「日本人富岡芳子」それが私が発見した女だった

赤い広場ー霞ヶ関 p.104-105 On behalf of the Soviet's spy pilot who had to withdraw after the peace treaty came into force, they were trying to set up a Japanese spy pilot who would take over the work.
赤い広場ー霞ヶ関 p.104-105 On behalf of the Soviet’s spy pilot who had to withdraw after the peace treaty came into force, they were trying to set up a Japanese spy pilot who would take over the work.

二十八年四月ごろから、三鷹市下連雀の自宅でオールウェイヴ・ラジオによりソ連からの秘密暗号情報を受信、暗号解読練習をした。さらにこの秘密通信文を埋め、その通信文をソ連側に送信する送信技術をおさめた。このほか在日残存秘密特務情報網のメンバーの人相確認を行った。

この間協力者二名に対する報酬を含めて一年四千ドル(百四十四万円)を一括受領した。

▽ドル入手関係=①二十七年二月ソ連代表部で、コチエリニコフ氏から四千ドルを受取った。②被告はこのドルを二十七年四月、日本人富岡芳子を介し、昌栄貿易重役遊佐上治氏(元外務省経済局動務)らに売却、自己または他人の名儀で、興亜土地合資会社(代表者佐藤直氏)へ融資、あるいは山一証券など数社に株式売買資金として費消。

▽秘密文書関係=被告は二十七年十月、二回にわたりクリッチンに職務上の秘密文書、経済第二課企画(国際経済機関二十六年度版)上下を手渡した。

つまりこの冒頭陳述のドル入手関係に書かれている「日本人富岡芳子を介し」という、富岡芳子こそ私の発見した彼女だったのである。そして彼女によって、二十九年八月二十一日兵庫県警察本部が摘発した「英印人ヤミドル団」とスパイ網とが結ばれていたのであった。

当局の捜査は高毛礼氏からスパイ資金を受取るはずの日本人スパイ群と、高毛礼氏と同様に他のソ連人からバトンを受けついだ他の〝地下代表部員〟およびヤミドル団との背後関係の三点に向けられていたのであった。

では、ここで高毛礼氏捜査の経過をみてみよう。さる二十七年ごろからラ氏にかかる刑特法違反容疑事件の捜査を行っていた同課では、ソ連代表部員の行動調査を始めていたが、アナトリイ・F・コテリニコフ領事とL・A・ポポフ経済官(実際は政治部少佐と信じられている)両氏の乗用車を尾行したところ、三鷹市下連雀付近まで月に数回でかけるという事実をつかみ付近一帯を捜査した結果、高毛礼氏宅があるのを発見、一応チェックしていた。

ところが二十九年八月上旬、山本課長がワシントンでラ氏から、ポポフ氏担当の日本人スパイの話をきき取り、これを経歴その他に前記尾行の線がピタリ符合する高毛礼氏と判断した。その結果、約二週間の尾行から富岡氏ら四名の女性を発見したのである。

逮捕に向ったとき、同氏は『一切を死によって清算したい』旨の遣書を残して、ヌレ手拭で自殺を図ったほどで、それだけに重要な人物として厳しい追及をうけたところ、取調べ官宛に手記を書いて一切を自供したものである。

ここで当局は始めて、ソ連側では講和条約の発効によって、代表部は引揚げざるを得ないという情勢判断をしており、そのため、ソ連人に代るスパイ操縦者の日本人、いうなれば〝地下代表部員〟の設置を行っていたという、重大な事実を握ったのであった。

赤い広場ー霞ヶ関 p.106-107 高毛礼の四人の愛人

赤い広場ー霞ヶ関 p.106-107 Kayoko Sata was a dollar broker from a Japanese prestigious nobles, and Yoshiko Tomioka was a enchantingly beautiful flower of foreigner society called "Madame Black Pearl".
赤い広場ー霞ヶ関 p.106-107 Kayoko Sata was a dollar broker from a Japanese prestigious nobles, and Yoshiko Tomioka was a enchantingly beautiful flower of foreigner society called “Madame Black Pearl”.

女と酒と金、そして賭博と麻薬――ラ氏手記でいうとおり、人間の弱点につけ込む手口は、ソ連諜報機関ではキチンと整理されて一つの学問にさえなっていたという。高毛礼氏の二週間にわたる尾行の結果、登場してきた四人の女性とは、一体どんな婦人たちであったろうか。

当局では彼女たちをいずれも高毛礼氏の愛人だとみているが、本人たちはいずれも否定しており、調室で出会ってたがいに気まずい思いをしたこともあるという。当局が参考人としてとった四人の供述調書に浮彫りされた、〝マタハリ〟の妖しい姿をみてみよう。

▽佐多可世子さん(三八)の場合

彼女は斜陽夫人である。明治の元勲伊藤博文公の息伊藤文吉男爵の長女として、大正五年東京で生れた。封建制日本の最上流階級の出身である。女子学習院卒業後、大阪医大学長佐多愛彦氏の三男輝雄氏に嫁した。

試みにこの一族の経歴を興信録によって紹介しよう。伊藤文吉男爵は従三位勲三等、貴族院議員、北樺太石油取締役、大東亜建設審議会委員、長男は東大独法科卒、長女は可世子さん、次女は日経連顧間三菱重工会長で白根松介氏の義兄にあたる人の長男に嫁ぎ、三女も同じく実業家、四女は伊藤博精公爵の弟に嫁いでいる。可世子さんの嫁いだ佐多家は父親がドイツ留学の医博で従四位勲三等、夫君輝雄氏は京大経済卒、弟は阪大教授の理博という家柄である。

戦後、夫君が事業に失取し、しかも糖尿病を患うにいたって、〝華族様のお姫さま〟は生活力を失った夫君と三児を抱えて〝生活〟に直面した。こうして彼女は街に出た。

名門の看板と高貴な冷たい美貌の彼女に慕いよる男たちは、殊に貴族に好奇心をもつアメリカ人に多かった。タバコ、キャンデー、衣類など、当時貨幣同様の価値をもっていた進駐軍物資を動かすことで、金が作れるということを、彼女はこの時にはじめて知ったのだった。

そして、高毛礼氏のドル関係捜査に彼女の名が浮んできたときには、彼女はすでにヤミ物資で何回か警察の門もくぐり、数寄屋橋マツダビル付近のバイ人たちの間でも有名な、いっぱしのドル・プローカーになっていた。

彼女はいま、「ラ事件には関係なし」とされて、処分保留のままでいるが、彼女をよく知る某氏は『佐多さんが、〝関係なし〟といわれるのは、彼女の門閥によるものだ』と、この間の微妙ないきさつを語っている。

▽富岡芳子さん(三六)の場合

彼女は十余年前までは、少くとも平凡な家庭の一主婦にすぎなかった。だが、最初の結婚の失敗が高毛礼氏と結び、さらに〝マダム黒真珠〟と呼ばれる外人社交界の妖花にまで変貎させてしまった。 昭和十六年一児を抱えて夫と別れた彼女は、新宿のあるバーに勤めだした。そこに現れたのが、モスクワから帰ってきた、北樺太石油社員の高毛礼氏だったのである。

赤い広場ー霞ヶ関 p.108-109 東京租界の「租界」たる所以

赤い広場ー霞ヶ関 p.108-109 International intelligence plot warfare is by no means simple. A city that is infested with settlement's crimes such as drugs and illegally exchanged dollar is also a stage for international espionage.
赤い広場ー霞ヶ関 p.108-109 International intelligence plot warfare is by no means simple. A city that is infested with settlement’s crimes such as drugs and illegally exchanged dollar is also a stage for international espionage.

親しい交際が続いたのち、戦争が二人をへだて、また解逅させた。その時には彼女は米国人の妻として、エキゾチックな美貌にひかれる外人たちに囲まれ、佐多さんと同じグループで、ドルや自動車やヤミ物資を動かす女になっていた。

すでに米国人の夫とも別れ、ヤミドル団の主犯セッツ氏が経営する、偽装の真珠会社の輪出部員の肩書で、セールス・マンとして〝マダム黒真珠〟の名をほしいままにしていたのである。

彼女は高い石塀に囲まれた家に住み、外出のたびごとに衣裳から装身具まで変えるという、豪しゃな生活ぶりだったが、さすがに外務省の一事務官として地味に暮していた高毛礼氏と逢うときには、十余年前の姿をおもわせる平凡な三十女になっていたという。

あとの二人は元外務事務官I・八重子さん(三五)と元GHQ勤務K・和子さん(四三)の両女であるが、高毛礼氏との関係や犯罪事実についての確証がないので、当局では内容を厳秘に付している。

だが、読者はいままで述べてきたうちで、次の部分を想い起して欲しい。即ち、本人は否定したが、村井前内閣調査室長の外遊に英国人諜報員がつきまとっていたという事実と、同様に本人は否定したが、志位氏に自殺せよとささやいた東洋人とは、まぎれもなく印度人であったという事実とである。再び強調するが、国際諜報謀略戦とは、決して単純なものではないということであり、眼前の現象(事件)に左右されて、透徹した冷静な判断を誤まり、真相を見失い勝ちだということである。

そしてまた、麻薬とかヤミドルといったような〝租界犯罪〟がはびこる都市こそ、国際スパイの檜舞台でもあるのだ。〝東京租界〟と米ソスパイ戦の因縁もここにある。

国際ヤミ屋を装った怪外人たちの惹き起す群小事件も、彼らが意識するとせざるとに拘りなく持つ、その政治的、思想的背景に着眼すれば、今更のように〝東京租界〟の〝租界〟たる所以がうなずけるであろう。(「羽田25時」参照)

シベリヤ・オルグの操り人形たち

一 除名された〝上陸党員〟

二十九年八月十三日の夜、山本課長の帰国後のラ事件最後の裏付け捜査が終った。明十四日早朝、係官たちは手分けして、家宅捜索やら容疑者の逮捕やらに出動する。その年の二月三日警視庁に自首してきた志位氏は、舞鶴から呼ばれてここ警視庁の別館調べ室で最後の取調べを受けていた。夏の夜の夕闇が格子戸のある窓辺に迫ってきたこ ろ、調べ官の木幡警視が『ぢゃどうも御苦労さん』と、タバコをすすめた。

赤い広場ー霞ヶ関 p.132-133 赤軍の線はまだ潜在化している

赤い広場ー霞ヶ関 p.132-133 Investigator officials leaked, “We are no longer interested in MVD(Ministry of Internal Affairs) spies. Now we are investigating the actual situation of the 4th section of the Red Army”.
赤い広場ー霞ヶ関 p.132-133 Investigator officials leaked, “We are no longer interested in MVD(Ministry of Internal Affairs) spies. Now we are investigating the actual situation of the 4th section of the Red Army”.

代表部の組織自体がそれぞれにスパイ網を持っているが、それはそれぞれにダブっているこ

ともあり、内務省と赤軍の線とを除いてはいずれも比較的弱い。すると、何といっても中心になるのはこの二つの線であるが、ここに注目されなければならないのは、ラ事件をはじめとして幻兵団などでも、現在までに顕在化されたのはいずれも内務省系統の事件ばかりであるということである。

ラ事件捜査当局の某幹部は『われわれが問題とするのはもはや内務省系スパイではない。いまや赤軍第四課系スパイ線の実態究明にある』と、洩らしたといわれているが、まったくその通りであろう。

私がここに収録した幻兵団の実例の幾つかが、いずれも内務省系ばかりである。日本人収容所のうち、赤軍直轄の収容所があったことはすでに述べたが、これらの赤軍労働大隊でスパイ誓約をした引揚者で、当局にチェックされた人名はまだそう多くない。

NYKビルがフェーズⅡで最終的にチェックした人名は一万名といわれている。この中には私のように誓約はしたが、連絡のない半端人足は含まれているかいないかは知り得ないが、連絡のあった者だけとすれば大変な数である。

またラ氏はワシントンに於て米当局に対して、『ソ連代表部が使用していたソ連引揚者のスパイは約二百五十名である』と述べたといわれる。幻兵団や元駐ソ大使館グループ、または高

毛礼氏のように、さらにまた、東京外語大の石山正三氏のように在ソ経歴を持たなくとも、ラ氏にコネクションをつけられたものもいる。

そしてまた、コテリニコフ・ポポフ――高毛礼ラインの手先とみられる、銀座某ビヤホール経営者の白系露人のように、〝地下代表部員〟の間接的スパイもいる。

従ってソ連スパイ網に躍る人物は、本人が意識するとしないとに拘らず(例えば前記石山教授などは、志位元少佐がソ連兵学の研究のため、赤軍参謀本部関係の第二次大戦資料などを、ラ氏を通じて得ていたように、ソ連文献入手のため知らずにラ氏に利用されていたにすぎないといわれている)相当な数と種類とに上っていることは事実である。

だが、赤軍の線は捜査の手がそこまで伸びているのにまだ潜在化している。前記ビヤホールの白系露人などは、数年前から要注意人物としてマークされていながら、どの系統なのか全く分らず捜査が一頓坐していたもので、今度の高毛礼ケースから明らかになったものであった。

当局ではいまさらのように巧妙なその組織に驚いており、過去九年間における延数百名にも及ぶ在日ソ連代表部員の都内行動記録を再検討している。これは他の〝地下代表部員〟の摘発であると同時に、捜査は元在日総領事、中共軍政治顧問の経歴をもちながら「雇員」の資格だったシバエフ政治部大佐以下、「経済官」のポポフ同少佐、「運転手」のグリシーノフ同大尉

らの内務省系から、ザメンチョーフ赤軍少佐らの線へとのびていることである。