赤い広場ー霞ヶ関 p.120-121 津村は「徳田要請」は事実と主張

赤い広場ー霞ヶ関 p.120-121 The Nakhodka Group was purged by the Nihon Shimbun Group.
赤い広場ー霞ヶ関 p.120-121 The Nakhodka Group was purged by the Nihon Shimbun Group.

ソ帰同は二十三年に〝ナホトカ天皇〟こと津村謙二氏らのナホトカ・グループが帰国すると同時に、組織されたもので、その名の通りソ連帰還者の生活擁護を目的としていた。ところが、二十四年十月二十八日に第二回全国大会が開かれ、中共引揚を考えて帰還者戦線の統一が叫ば

れ、「日本帰還者生活擁護同盟」(日帰同)と改称され、日共市民対策部の下部機関で、指導は同部の久留義蔵氏が当っていた。

ところが、これもあくまで一貫した政策からみれば〝前座〟であって、シベリヤ民主運動の経過を見守ってきた日本新聞グループという〝真打〟が、二十四年十一月に帰国するに及んでナホトカ・グループは御用済みになったわけである。

第二回大会で日帰同の組織改正が行われた。つまり最高機関は全国大会で、中央委員会三十名、中執委と常任委各十名によって平常活動が行われ、事務局は組織、文化、財政の三つに分れたのである。そして文化工作隊として、十六地区楽団と沿海州楽劇団を合流させて楽団カチュシャとし、高山秀夫氏をその責任者とした。これは津村一派でしめていた委員長、書記長制の改廃である。

そして二十五年一月には役員の改選が行われ、津村委員長は、①楽団カチュシャの資金は地方の帰還者中の情報担当者に渡すべきなのに本部人件費として十三万円を流用した。②下部組織に対し発展性なし。③逆スパイを党内に放っている。④婦人問題(註、須藤さんの件)を起した、などの理由からついに粛清されるにいたった。津村氏は三月になって委員長の地位から筋書き通りに追われたのであった。

ソ帰同改め日帰同がこのような経過で改組されていったことは承知していたのだが、私はその日この問題に関する、次のような情報を得ていたのであった。

津村追放の表面上の理由は、前にのべたような四点であったが、事実上の理由は、①徳田要請問題に関して否定資料を集めなかったばかりか、肯定資料はあるけど否定資料はない旨の発言を数回にわたって行った。②現在の党批判をソ連代表部員ロザノフ氏(註、二十九年のスケート団監督、ラ氏の帰国命令の監視者)を通じてソ連側へ呈出していたがそれが妥当を欠いていた。③日共幹部袴田里見氏を数々の偏向ありと指摘し、また同氏弟睦夫氏をボスとして批判した、という三点にあった。

そして、そのため袴田氏の命をうけた久留氏が、津村氏らのナホトカ・グループ六名(佐藤五郎、生某、大棚某、陣野敏郎、大石孝氏ら)を三月九日から十三日までの間、産別会館に軟禁して徹底的に吊し上げを行い、ついに党活動停止の処分に付した。

そのかげには日本新間グループの矢浪久雄、高山秀夫、小沢常次郎、山口晢男氏らが、ロザノフ氏と連絡をとっていたというような内容の情報であった。

私はこの情報を受取って驚いた。〝上陸党員〟中では大幹部ともいうべき津村氏が、徳田要請は事実なり、という資料しかないと主張して、五日間にわたる吊し上げののち、党活動停止 の処分を喰ったというのであるから、委員会の徳田証人喚問が大荒れで結論の出しようもないときては、それこそビッグ・ニュースである。