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赤い広場ー霞ヶ関 p.108-109 東京租界の「租界」たる所以

赤い広場ー霞ヶ関 p.108-109 International intelligence plot warfare is by no means simple. A city that is infested with settlement's crimes such as drugs and illegally exchanged dollar is also a stage for international espionage.
赤い広場ー霞ヶ関 p.108-109 International intelligence plot warfare is by no means simple. A city that is infested with settlement’s crimes such as drugs and illegally exchanged dollar is also a stage for international espionage.

親しい交際が続いたのち、戦争が二人をへだて、また解逅させた。その時には彼女は米国人の妻として、エキゾチックな美貌にひかれる外人たちに囲まれ、佐多さんと同じグループで、ドルや自動車やヤミ物資を動かす女になっていた。

すでに米国人の夫とも別れ、ヤミドル団の主犯セッツ氏が経営する、偽装の真珠会社の輪出部員の肩書で、セールス・マンとして〝マダム黒真珠〟の名をほしいままにしていたのである。

彼女は高い石塀に囲まれた家に住み、外出のたびごとに衣裳から装身具まで変えるという、豪しゃな生活ぶりだったが、さすがに外務省の一事務官として地味に暮していた高毛礼氏と逢うときには、十余年前の姿をおもわせる平凡な三十女になっていたという。

あとの二人は元外務事務官I・八重子さん(三五)と元GHQ勤務K・和子さん(四三)の両女であるが、高毛礼氏との関係や犯罪事実についての確証がないので、当局では内容を厳秘に付している。

だが、読者はいままで述べてきたうちで、次の部分を想い起して欲しい。即ち、本人は否定したが、村井前内閣調査室長の外遊に英国人諜報員がつきまとっていたという事実と、同様に本人は否定したが、志位氏に自殺せよとささやいた東洋人とは、まぎれもなく印度人であったという事実とである。再び強調するが、国際諜報謀略戦とは、決して単純なものではないということであり、眼前の現象(事件)に左右されて、透徹した冷静な判断を誤まり、真相を見失い勝ちだということである。

そしてまた、麻薬とかヤミドルといったような〝租界犯罪〟がはびこる都市こそ、国際スパイの檜舞台でもあるのだ。〝東京租界〟と米ソスパイ戦の因縁もここにある。

国際ヤミ屋を装った怪外人たちの惹き起す群小事件も、彼らが意識するとせざるとに拘りなく持つ、その政治的、思想的背景に着眼すれば、今更のように〝東京租界〟の〝租界〟たる所以がうなずけるであろう。(「羽田25時」参照)

シベリヤ・オルグの操り人形たち

一 除名された〝上陸党員〟

二十九年八月十三日の夜、山本課長の帰国後のラ事件最後の裏付け捜査が終った。明十四日早朝、係官たちは手分けして、家宅捜索やら容疑者の逮捕やらに出動する。その年の二月三日警視庁に自首してきた志位氏は、舞鶴から呼ばれてここ警視庁の別館調べ室で最後の取調べを受けていた。夏の夜の夕闇が格子戸のある窓辺に迫ってきたこ ろ、調べ官の木幡警視が『ぢゃどうも御苦労さん』と、タバコをすすめた。

赤い広場ー霞ヶ関 p.114-115 オルガナイザー、日本新聞グループ

赤い広場ー霞ヶ関 p.114-115 The former Asahi Shimbun Koriyama correspondent, Nobujiro Kobari, became the chief editor of Nihon Shimbun, deceiving President Kovalenko major.
赤い広場ー霞ヶ関 p.114-115 The former Asahi Shimbun Koriyama correspondent, Nobujiro Kobari, became the chief editor of Nihon Shimbun, deceiving President Kovalenko major.

ただでさえ苦難の多い俘虜生活である。そこへ出現したこの〝○○天皇〟と呼ばれる労働貴族たちの、同胞への苛歛誅求ぶりは、まさにシベリヤ罪悪史として、一書を編むに値するものであった。と同時に、これこそ日本人の国際的訓練の欠如を露呈した惨めな事大主義として、同じ俘虜であるドイツ人たちのびん笑を買ったものであった。

引揚列車を迎える人たちの日の丸の旗をひきちぎり、さし出す花束を踏みにぢり、ソ同盟謳歌を呼号し、〝代々木詣り〟という集団入党のため帰郷すら拒否した、いわゆる「上陸党員」たちのその後をたずねて見給え。ましてや〝赤大根〟と呼ばれた君子豹変組の在ソ行動をたずねて見給え。

だがしかし、このような狂騒民主運動に冷静な監視と、充分な計算とを怠らなかった一群の日本人たちがいた。このグループがアクチィヴィストの上位にある、オルガナイザー(組織者)である。日本新聞グループであり、最高ビューロー・グループである。そしてまた彼らのかげには、「常に一貫して流れている対日政策」に動かされるソ連政治部将校たちの指導があったのである。

今ここでこの詳細を述べることはできないが、民主運動のキッカケとなった「木村檄文」というものがあった。それと同時期に沿海州地区では、ナホトカに近いドーナイ収容所で起した佐藤治平元准尉の民主運動もあった。この分派民主運動は、後に浅原正基対佐藤治平の理論闘争となり、佐藤氏が敗れて粛清されたのであった。

このような経緯もあって、「木村檄文」は主流派となったのだが、これを取上げた当時の日本新聞は、まだ発足間もない単なる宣伝用機関紙にすぎなかったのである。

満州日々新聞の工場施設一切を持ち去り、俘虜の中から印刷工や編集者を探し出し、二十年九月十五日第一号を発行したのである。だから初期の新聞には編集員募集の広告が出ており、私もこれに応募してスパイ誓約のキッカケを作ってしまったころである。

このころ、元共産党員と称して、社長コバレンコ少佐をだまし、編集長の地位に納ったのが、元朝日新聞郡山通信員小針延二郎氏であった。当時の事情を雑誌「真相」(二十五年四月号)は、ともかく次のように書いている。

申出た彼の履歴は、元朝日新聞チャムス通信局長で、日本共産党員、内地では特高につけ廻されるから、満州に派遣してもらっていた。という堂々たるものであった。

コバレンコ少佐はすっかり信用して、いきなりセクレタリ・レダクチア(編集書記)に任命した。主として割付をする仕事で、彼が帰国後自称する「編集長」ではない。何しろ、捕虜にはめずらしい日本共産党員というので、他の日本人からも信頼されたが……

赤い広場ー霞ヶ関 p.120-121 津村は「徳田要請」は事実と主張

赤い広場ー霞ヶ関 p.120-121 The Nakhodka Group was purged by the Nihon Shimbun Group.
赤い広場ー霞ヶ関 p.120-121 The Nakhodka Group was purged by the Nihon Shimbun Group.

ソ帰同は二十三年に〝ナホトカ天皇〟こと津村謙二氏らのナホトカ・グループが帰国すると同時に、組織されたもので、その名の通りソ連帰還者の生活擁護を目的としていた。ところが、二十四年十月二十八日に第二回全国大会が開かれ、中共引揚を考えて帰還者戦線の統一が叫ば

れ、「日本帰還者生活擁護同盟」(日帰同)と改称され、日共市民対策部の下部機関で、指導は同部の久留義蔵氏が当っていた。

ところが、これもあくまで一貫した政策からみれば〝前座〟であって、シベリヤ民主運動の経過を見守ってきた日本新聞グループという〝真打〟が、二十四年十一月に帰国するに及んでナホトカ・グループは御用済みになったわけである。

第二回大会で日帰同の組織改正が行われた。つまり最高機関は全国大会で、中央委員会三十名、中執委と常任委各十名によって平常活動が行われ、事務局は組織、文化、財政の三つに分れたのである。そして文化工作隊として、十六地区楽団と沿海州楽劇団を合流させて楽団カチュシャとし、高山秀夫氏をその責任者とした。これは津村一派でしめていた委員長、書記長制の改廃である。

そして二十五年一月には役員の改選が行われ、津村委員長は、①楽団カチュシャの資金は地方の帰還者中の情報担当者に渡すべきなのに本部人件費として十三万円を流用した。②下部組織に対し発展性なし。③逆スパイを党内に放っている。④婦人問題(註、須藤さんの件)を起した、などの理由からついに粛清されるにいたった。津村氏は三月になって委員長の地位から筋書き通りに追われたのであった。

ソ帰同改め日帰同がこのような経過で改組されていったことは承知していたのだが、私はその日この問題に関する、次のような情報を得ていたのであった。

津村追放の表面上の理由は、前にのべたような四点であったが、事実上の理由は、①徳田要請問題に関して否定資料を集めなかったばかりか、肯定資料はあるけど否定資料はない旨の発言を数回にわたって行った。②現在の党批判をソ連代表部員ロザノフ氏(註、二十九年のスケート団監督、ラ氏の帰国命令の監視者)を通じてソ連側へ呈出していたがそれが妥当を欠いていた。③日共幹部袴田里見氏を数々の偏向ありと指摘し、また同氏弟睦夫氏をボスとして批判した、という三点にあった。

そして、そのため袴田氏の命をうけた久留氏が、津村氏らのナホトカ・グループ六名(佐藤五郎、生某、大棚某、陣野敏郎、大石孝氏ら)を三月九日から十三日までの間、産別会館に軟禁して徹底的に吊し上げを行い、ついに党活動停止の処分に付した。

そのかげには日本新間グループの矢浪久雄、高山秀夫、小沢常次郎、山口晢男氏らが、ロザノフ氏と連絡をとっていたというような内容の情報であった。

私はこの情報を受取って驚いた。〝上陸党員〟中では大幹部ともいうべき津村氏が、徳田要請は事実なり、という資料しかないと主張して、五日間にわたる吊し上げののち、党活動停止 の処分を喰ったというのであるから、委員会の徳田証人喚問が大荒れで結論の出しようもないときては、それこそビッグ・ニュースである。