新宿慕情 p.34-035 ふたりの妓は激しいいい争いをはじめた

新宿慕情 p.34-035 同一店での指名変更が許されない、という不文律を思い知らされたのが、廊下で出会った三十女の「アラ、お兄さん!」の一言だった。
新宿慕情 p.34-035 同一店での指名変更が許されない、という不文律を思い知らされたのが、廊下で出会った三十女の「アラ、お兄さん!」の一言だった。

その妓は、私の顔をジッと見つめていたが、スレ違ってから呼び止めた。
「アラ、お兄さん。以前に、私に上がったことがあるでしょ? ……ホラ、やっぱりそうだわ!」

確信にみちたその言葉に、私は、ことの成り行きを予想もできず、妓を見てみると、なんだか知っているようでもある。

「ウン、そうだったっけ?」

〝遊冶郎〟のエチケット

遊びにもしきたり

水商売の世界には、いまにいたるも、いろんな、古い習慣がその世界の秩序維持の必要から受けつがれ、引きつがれているものである。

例えば、クラブだろうが、キャバレーだろうが、同一店での指名ホステスは、「だれそれサンの客」として、厳重に守られている。その指名変更をすると「客を取った、取られた」の内ゲバ騒ぎに発展する。

しかし、赤坂のミカドのような、超大キャバレーが出現してくると、同一店でも、必ずしも客とホステスとが、〝めぐり合う〟とは限らない。キャバレーの場合は、指名料の売り上げだけがホステスの収入源、稼ぎ高の増減を意味するように、ドライなシステムになっているので、必然

的に、店以外での〝付き合い〟と、その清算勘定とで割り切られてくる。だから、指名客の厳守も崩れてきている。

この、同一店での指名変更が許されない、という〝不文律〟を思い知らされたのが、廊下で出会った、三十女の「アラ、お兄さん!」の一言だった。

「そうよ、そうよ。私のお客さんだよ、間違いないわ」

たちまち、ふたりの妓は、激しいいい争いをはじめた。だが私が不用意に洩らした「ウン、そうだったっけ?」という〝証言〟が決め手になって、私が上がった妓はいい負かされてしまう。

初心の私には、なにがなんだかわからないうちに、この論争にピリオドが打たれ、私がいま済ませたばかりの妓は、集まってきた全員に、〝反体制派〟として罵られて、スゴスゴと退散してしまった。それでも、私に対して、恨み言を投げつけるのは忘れなかった。

この騒ぎの原因は、どうやら私の不注意にあるらしいことは理解できた。

私は、この〝老醜〟に拉致されて、彼女の部屋に入れられたのである。そして、この世界では、一軒の店で、一度上がったことのある妓以外とは、遊ぶことができない、しきたりのあることを教えられた。

「知らなかったんだから、しょうがないけど、これからは、許されないことだよ。きょうは、一度だけ、サセてあげるからネ、それで、もう帰んナ……」

おなさけで、私は、〝老醜〟のご用を仰せつかった。儲けたというべきか、損したのか……。