新宿慕情 p.106-107 ——きたナッ!これからナニが起ころうとしているのか

新宿慕情106-107 そして、私を手招きして、ベンチのように長い、ピアノ椅子の、横に坐れ、という。私は、素直に、先生の隣に腰かけた。
新宿慕情 p.106-107 そして、私を手招きして、ベンチのように長い、ピアノ椅子の、横に坐れ、という。私は、素直に、先生の隣に腰かけた。

玄関で呼び鈴を押すと、ピアノがハタと止んだ。
——息子はいないのかな?
〝不安〟が胸をよぎった時、ドアが開いた。

「アノオ、……さんは?」

私は、息子の名前をいった。先生は、日本語はほとんどダメだったが、それでも、カタコトでいう。

「イマ、イマセン。ドウゾ」

ニコニコと親愛の情を示して先生は、私の肩を抱くようにして、招じ入れた。

玄関から、広い応接間とつづいて、ピアノは、その広い部屋の一隅に置かれていた。

年配の読者は、ディアナ・ダービン主演の、『オーケストラの少女』という、大当たりの映画を想い出していただきたい。ダービン扮する少女が、ストコフスキーに認められるシーン。少女の歌声につれて、ストコフスキーの指が、自然に、動き出して、リズムを取りはじめ、やがて、あの独特なタクトなしで腕を振り出す——あの、ストコフスキーを想起されれば、この美少年の私と、先生との出会いも、ピタリと決まる。

私を、ソファに坐らせると、先生は、なにか飲みものを用意してくれた。

そして、自分も向かい合って腰をかけ、ピアノを指差して、「弾いてみなさい」という意味のことを、英語で話しかけた。

「イェ、私は、ピアノを弾けないのです」

首を横に振りながら、日本語でそう答えた。

旧制の中学五年の英語力は、けっこう、ヒヤリングの力もあったと思う。なにしろ、府立五中

時代には、ミス・ジュネビーブ・コールフィールドという、老嬢の外人教師までいたのだったから。

すると先生は、立ち上がってピアノの前に坐った。そして、私を手招きして、ベンチのように長い、ピアノ椅子の、横に坐れ、という。

私は、素直に、先生の隣に腰かけた。

虎穴に入らずんば

先生は、ピアノを激しく鳴らし始めた。なにか、嵐のような曲であった。

その曲は、いつの間にか、嵐が止み、陽が輝き、小鳥たちが楽しくさえずる感じに変わっていった。

そして、いままで両手で弾いていた先生の片手が、私の肩にまわされ、片手で弾いているではないか。

その片手の指先からは、静かな、甘い曲が流れ出していた。

——きたナッ!

ブーちゃんの忠告があったればこそ、まだ二十歳前の私にも、これから、ナニが起ころうとしているのか、次の場面を予想するだけの余裕があった。

ピアノの椅子にかけたまま、先生は、両腕で私を抱え、唇を寄せてきた。