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新宿慕情 p.104-105 父親は高名なピアニスト、ユダヤ系のドイツ人

新宿慕情 p.104-105 市村ブーちゃんは、私が先生の息子と親しい、と知って、こうささやいた。「大丈夫かい? キミ。あの先生は、オカマ趣味なんだぜ」
新宿慕情 p.104-105 市村ブーちゃんは、私が先生の息子と親しい、と知って、こうささやいた。「大丈夫かい? キミ。あの先生は、オカマ趣味なんだぜ」

中学を卒業して、一浪、二浪とつづけていたころ、私は、ある日、友人の家を訪ねた。

少年の日の〝体験〟

友人、といっても、彼は外国人である。父親は、高名なピアニストであり、かつ、オーケストラのコンダクターであり、上野の音楽学校の教授という経歴さえ持っていた。ユダヤ系のドイツ人だったのである。

その先生の芸術的資質については、一族に、これまた高名な文豪がいるほどなのだから、推して知るべし、であろう。

城南にある先生の家に近づいた時、家の中からは、しきりとピアノの音が響いていた。

それを聞いて、私は、「ア、オヤジがいるな」と、思わず、足を止めてしまった。

というのは、先生がオカマ趣味であることを、かねてから聞き知っていたからである。中学の一年先輩に、ジャズピアノをやる市村俊幸氏がいて、彼は、音楽学校(こう書くからには、もちろん戦前のことである。いまならば、芸大だから……)の入試に失敗して、日劇ダンシングチームでピアノを弾いていた。

そのブーちゃんが、私に教えてくれていた、のだからだ。

大音楽家の〝交〟響曲

ピアニストの指が

市村ブーちゃんは、私が先生の息子と親しい、と知って、こうささやいた。

「大丈夫かい? キミ。あの先生は、オカマ趣味なんだゼ」

そのころには、まだ、ホモだとか、ゲイといった言葉はなく、オカマ一本だった。印刷物も、高橋鉄氏の主宰する、ナントカ研究会の機関誌(会名も誌名も、正確な記憶がないから、こうした表現になったが、決してインチキ団体の意味ではないので、念のため)ぐらいしかなかった。

先生は、日劇の楽屋に出入りする時、エレベーターボーイにキスしたなど、当時としては、まさに、〝秘められたビッグニュース〟の主であった。

ピアノの音を聞いて、私は、ブーちゃんの〝大丈夫かい?〟を思い出したのだった。

玄関で呼び鈴を押すと、ピアノがハタと止んだ。

——息子はいないのかな?

〝不安〟が胸をよぎった時、ドアが開いた。

新宿慕情 p.106-107 ——きたナッ!これからナニが起ころうとしているのか

新宿慕情106-107 そして、私を手招きして、ベンチのように長い、ピアノ椅子の、横に坐れ、という。私は、素直に、先生の隣に腰かけた。
新宿慕情 p.106-107 そして、私を手招きして、ベンチのように長い、ピアノ椅子の、横に坐れ、という。私は、素直に、先生の隣に腰かけた。

玄関で呼び鈴を押すと、ピアノがハタと止んだ。
——息子はいないのかな?
〝不安〟が胸をよぎった時、ドアが開いた。

「アノオ、……さんは?」

私は、息子の名前をいった。先生は、日本語はほとんどダメだったが、それでも、カタコトでいう。

「イマ、イマセン。ドウゾ」

ニコニコと親愛の情を示して先生は、私の肩を抱くようにして、招じ入れた。

玄関から、広い応接間とつづいて、ピアノは、その広い部屋の一隅に置かれていた。

年配の読者は、ディアナ・ダービン主演の、『オーケストラの少女』という、大当たりの映画を想い出していただきたい。ダービン扮する少女が、ストコフスキーに認められるシーン。少女の歌声につれて、ストコフスキーの指が、自然に、動き出して、リズムを取りはじめ、やがて、あの独特なタクトなしで腕を振り出す——あの、ストコフスキーを想起されれば、この美少年の私と、先生との出会いも、ピタリと決まる。

私を、ソファに坐らせると、先生は、なにか飲みものを用意してくれた。

そして、自分も向かい合って腰をかけ、ピアノを指差して、「弾いてみなさい」という意味のことを、英語で話しかけた。

「イェ、私は、ピアノを弾けないのです」

首を横に振りながら、日本語でそう答えた。

旧制の中学五年の英語力は、けっこう、ヒヤリングの力もあったと思う。なにしろ、府立五中

時代には、ミス・ジュネビーブ・コールフィールドという、老嬢の外人教師までいたのだったから。

すると先生は、立ち上がってピアノの前に坐った。そして、私を手招きして、ベンチのように長い、ピアノ椅子の、横に坐れ、という。

私は、素直に、先生の隣に腰かけた。

虎穴に入らずんば

先生は、ピアノを激しく鳴らし始めた。なにか、嵐のような曲であった。

その曲は、いつの間にか、嵐が止み、陽が輝き、小鳥たちが楽しくさえずる感じに変わっていった。

そして、いままで両手で弾いていた先生の片手が、私の肩にまわされ、片手で弾いているではないか。

その片手の指先からは、静かな、甘い曲が流れ出していた。

——きたナッ!

ブーちゃんの忠告があったればこそ、まだ二十歳前の私にも、これから、ナニが起ころうとしているのか、次の場面を予想するだけの余裕があった。

ピアノの椅子にかけたまま、先生は、両腕で私を抱え、唇を寄せてきた。