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正力松太郎の死の後にくるもの p.156-157 数千万円のアカデンが残っていた

正力松太郎の死の後にくるもの p.156-157 「毎日が危いそうだ」「今なら一億の現金で毎日新聞が買える」「メイン・バンクの三和への、利子さえ払えないらしい」——こんな噂が、新聞界でささやかれはじめて、ついに、本田会長は退陣した。
正力松太郎の死の後にくるもの p.156-157 「毎日が危いそうだ」「今なら一億の現金で毎日新聞が買える」「メイン・バンクの三和への、利子さえ払えないらしい」——こんな噂が、新聞界でささやかれはじめて、ついに、本田会長は退陣した。

本社が、こうして新聞事業の何たるかを忘れて、派閥の対立抗争をくり返している時、出先きのクラブでは、ボス化した記者が「社外活動」に専念するとあっては、もはや、末期的現象以外の何ものでもない。

「毎日が危いそうだ」「今なら、一億の現金で毎日新聞が買える」「メイン・バンクの三和への、利子さえ払えないらしい」——こんな噂が、新聞界でささやかれはじめて、ついに、昭和三十六年一月、経営不振の責めを負うて、本田会長は退陣した。(注。昭和二十三年十二月二十二日社長就任。同三十三年一月二十二日会長就任。同三十六年一月会長辞任。その間、社長空席のまま)毎日放送会長へと引退の花道はひかれてあったが、社内での流説は、「数千万円のアカデン(注。未精算の仮払伝票)が残っていた」そうだと、まだ手厳しい。

私が冒頭に、「派閥とボスの集団」と、あえて毎日を評した所以のものはここにあったのである。国敗れて山河あり! 本田親男のあとをうけて、社長に就任した上田常隆の感慨は、そうであったに違いない。人心はもとより、機械も設備も、そして、紙面も金融面も、すべて〝荒涼〟たるものであっただろう。だが、それから五年、上田政権下における、毎日の復興は目覚ましく進んで、それこそ、毎日は奇跡的に立ち直った。と、みられていた。

皇居北の丸の緑を截ってそびえるパレスサイド・ビルの偉観、その中心に位置した毎日新聞は、最新、最鋭の機械化を完うして、立ち直ったかにみられたのではあったが、大森実外信部長の退

職事件というジャーナリスティックな話題に彩られた昭和四十年の移転を機として、いよいよ凋落の淵にのめりこんでいったのだった。

〝アカイ〟という神話の朝日

ここに一通のとう本がある。東京都中央区日本橋室町一の一、京葉土地開発株式会社。

その社名から判断して、京葉工業地帯の不動産屋とあれば、あまり御立派とはいえない会社である。何故ならば、千葉県の東京湾沿いの開発には、〝黒い手〟〝黄色い手〟しきりに入り乱れて、公明党をはじめとして、野党各党が、国会でしきりに追及しているからである。

さる四十三年六月三日付のアカハタ紙は、「利ザヤ六億七千万円、〝黒い会社〟朝日土地、国際興業」の大見出しで、「日通の脱税を調べていた東京国税局の調査で、この二社は千葉市から払い下げをうけた埋立住宅地を、めまぐるしく転売し、半年後に二倍の値段で国に売却していた」旨を報じている。日通福島社長のもとに、朝日土地丹沢善利から、六千万円の裏ガネが流れているのを、洗った結果、判明したというのである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.158-159 〝黒い霧〟スターたちの群れ

正力松太郎の死の後にくるもの p.158-159 そもそも、村山夫人と河野一郎との出会いは? と探してみると、同書一九八頁だ。大阪における新アサヒ・ビルの建設問題をめぐって、当時の経済企画庁長官だった「河野一郎との意気投合が始まる」とある。
正力松太郎の死の後にくるもの p.158-159 そもそも、村山夫人と河野一郎との出会いは? と探してみると、同書一九八頁だ。大阪における新アサヒ・ビルの建設問題をめぐって、当時の経済企画庁長官だった「河野一郎との意気投合が始まる」とある。

めまぐるしい転売といえば、すぐ思い浮ぶのは、大阪の光明池事件である。これまた、田中角栄代議士の日本電建が、東洋棉花との間でキャッチ・ボール式の転売、とどのつまり、四倍の高値で住宅公団が買いこんだという例である。これはもう一つ、広布産業事件というのがからんできて、東京相互銀行から一億円をダマシとった佐々木環(注。のちほど、板橋署六人の刑事が登場する)、吹原事件の大橋富重、さらには、児玉誉士夫までが登場する、いうなれば、『カゲの政界』オールスター・キャストの事件であった。

さて、とう本の重役陣をみてみると、まずトップに村山藤子氏。いうまでもなく、朝日新聞の由緒ある社主夫人である。続いて、河合良成、岡部三郎の両代表取締役が並ぶのだから、村山夫人は「会長」であろうか。

それから、キラ星の如くつらなる重役陣をトクと眺めて頂きたい。丹沢善利、同利晃父子、福島敏行(もちろん日通である)、小佐野賢治、永田雅一、川崎千春(京成)、江戸英雄(アア、名門〝三井不動産〟)、河田重(日本鋼管)、佐野友二(不二サッシ)、清水富雄、功刀 和夫といったところである。菊池寛実、土屋久男は、死亡で消されている。

社名でハハン、この重役陣でハハーン、うなずかれる方が多いに違いない。だが、村山家の当主夫人が、たとえ、有名な事業家とは申しながら、アサヒ・ビルやフェスティバル・ホール、病院などの経営ならともかく、関西から千葉くんだりの田舎まで出張って、〝黒い霧〟スターたち

の群れに投じられようとは!

このナゾトキを求めて、取材してみると、ヒントがみつかった。「朝日新聞外史」(細川隆元)一九四頁である。昭和二十八年の八月、永田大映社長と村山夫人が、事業のことで会談した際、「常務の永井大三が、近ごろ事ごとに社長にタテついて困る」という話が出た。かの有名な「朝日騒動」のプロローグである。永田社長は、朝日出身の河野建設相に相談して永井常務を朝日から追い出すのなら、公団副総裁あたりのポストを用意して、引退の花道をつくってやるべきだという。そして、同書二〇〇頁には、村山夫妻と、河野、永田の四者会談が開かれるクダリがある。

そもそも、村山夫人と河野一郎との出会いは? と探してみると、同書一九八頁だ。大阪における新アサヒ・ビルの建設問題をめぐって、当時の経済企画庁長官だった「河野一郎との意気投合が始まる」とある。

京葉土地開発の発足は、昭和三十八年八月である。〝河野学校〟の優等生たちに、会長にとカツがれたのは、この「河野との意気投合」だけのエンではない。このグループの中の、巨頭に「朝日新聞に巣喰うアカたちの追出しをお手伝いしましょう」と、まンまと言い寄られたのだといわれる。

だが、この会社は、総額五百億ほどの事業計画だけは樹っているのだが、船橋付近の漁業補償がまとまらず、まだ何も仕事をはじめていなかった。事務所も、河合社長の小松製作所ビルに移

って、時到らばと、村山夫人の利用を待っている。

正力松太郎の死の後にくるもの p.160-161 管財人に朝日広告社の中島隆之

正力松太郎の死の後にくるもの p.160-161 出版界の消息通は、声をひそめていう。「ナント、取次店の廻し手形は、あらかた朝日の広告部に入金されてましたよ」出版界の〝声なき声〟は「河出書房は朝日新聞にツブされた!」と
正力松太郎の死の後にくるもの p.160-161 出版界の消息通は、声をひそめていう。「ナント、取次店の廻し手形は、あらかた朝日の広告部に入金されてましたよ」出版界の〝声なき声〟は「河出書房は朝日新聞にツブされた!」と

だが、この会社は、総額五百億ほどの事業計画だけは樹っているのだが、船橋付近の漁業補償がまとまらず、まだ何も仕事をはじめていなかった。事務所も、河合社長の小松製作所ビルに移

って、時到らばと、村山夫人の利用を待っている。

——このとう本の物語る事実。ここに朝日新聞の体質の一部がのぞかれる。ついでにいうならば、河野一郎は農林省詰めの政治記者。緒方竹虎を筆頭に、篠田弘作、橋本登美三郎、志賀健次郎と、朝日出身の政治家は、みな保守党である。

さる四十三年六月二十一日の各紙は、河出書房に対し、東京地裁が会社更生法の適用を認める決定を行ったと報じた。その中の一行、管財人に朝日広告社専務の中島隆之が選ばれた、とあるのを見落してはいけない。

それよりすこし前、五月三十日付の朝日は「河出書房、また行詰る」という、大きな記事を出しているが、それについた「解説」の中に次のような部分がある。

「本の宣伝費は、売りあげの一〇%というのが常識になっているのに、河出の場合は、月間の売り上げ八億円に対して、広告と販売促進に三億円を使った、とさえいわれている」

この記事、まことにオカシイ。広告主が広告媒体をえらぶ時、効果を考えなかったらどうかしている。河出が新聞広告をするのに、スポーツ紙やエロ夕刊紙に重点をおいたとした ら、〝汚職〟の臭いがする、とみられても仕方ないだろう。河出の〝常識を無視した〟(前出朝日記事)広告出稿は、当然、朝日新聞に集中したとみるべきだろう。縮刷版を繰って、各社への出稿比率を調べるまでもあるまい。業界内部の常識である。

河出書房、三十二億円の負債で倒産となれば、その影響するところは大きい。六月一日、中小企業庁が、河出の下請け業者たちの連鎖倒産の防止措置として、百十社に対して「倒産関連保証適用企業」指定の決定を行なったことでも判る。これらの下請けの零細業者たちは、今まで河出の勘定をもらうのに、多くが河出自振りの手形で受取っているからだ。

振出人が河出書房の手形など、もはや反古同然である。どこで割引いてくれるだろう。だが、河出だって商売をしていたのだから、東販、日販などの大手取次店からの集金があるハズだ。取次店振出しの手形が、河出に入れば、河出が裏書きをして、また支払いに使う。このような「廻し手形」なら安全だから、業者たちは、河出の売り掛け金はどうなっている、と騒ぎ出した。

と、そこで、出版界の消息通は、声をひそめていう。

「ナント、取次店の廻し手形は、あらかた朝日の広告部に入金されてましたよ」

こうして、今や、出版界の〝声なき声〟は「河出書房は朝日新聞にツブされた!」と、エンサの叫びを放っている。常識を無視して誇大に新聞広告をやる、それで売る、また、広告する、そして売る——この悪循環の揚句の果ての倒産である。いみじくも、前出の朝日記事はいう。

「河出が全集物を昨年たてつづけに出しはじめたとき、業界ではこれを自転車操業のはしりとみて、すでに今日の危機を予想していたといわれる」

業界で予想していたのなら、広告代理店も、新聞社側も知らぬハズはあるまい。広告を掲載

し、料金はガッチリ取り立てる——商売は、トランプのババヌキみたいなもの、とはいいな がら、このトッポさ。朝日新聞広告部は、中身にヤカマしいだけではなかった。

正力松太郎の死の後にくるもの p.162-163 朝日新聞社の本質をかい間みる

正力松太郎の死の後にくるもの p.162-163 読みくらべなくとも、朝日記事の中には、「朝日新聞篠原宏記者」の項がない。朝日記事のスタイルは、続報記事の書き方で、結果を報ずる時の記事である。これについて、論評を加える必要はあるまい。
正力松太郎の死の後にくるもの p.162-163 読みくらべなくとも、朝日記事の中には、「朝日新聞篠原宏記者」の項がない。朝日記事のスタイルは、続報記事の書き方で、結果を報ずる時の記事である。これについて、論評を加える必要はあるまい。

業界で予想していたのなら、広告代理店も、新聞社側も知らぬハズはあるまい。広告を掲載

し、料金はガッチリ取り立てる——商売は、トランプのババヌキみたいなもの、とはいいな がら、このトッポさ。朝日新聞広告部は、中身にヤカマしいだけではなかった。

これには、後日譚がある。読売、毎日両社は、その扱い代理店ともども、朝日より深手を負ったことは確かである。そして、会社更生法適用の記事が、読売、毎日共に四段抜きのトップなのに、朝日は二段二十五行。さすがに気がさしたのであろうか。この〝商売〟、新聞社のやることだけに果して、釈然たり得るであろうか。

——ここにもまた、われわれは朝日新聞社の本質を、かい間みることができる。倫理綱領さえ設けて、広告内容の審査を行ない、公然と不掲載を断行する、朝日広告部の姿勢を通して……。

防衛庁と伊藤忠商事をめぐり、自殺者まで出した、いわゆる「機密ろうえい事件」に関して、防衛庁の防衛研修所長が不起訴処分となったことがある。

さる四十三年五月十二日、朝日と読売の記事をみくらべてみよう。

朝日記事。「防衛研修所長は不起訴、機密ろうえい=一段六行=防衛庁機密ろうえい事件を調べていた、東京地検公安部は、十一日、防衛庁防衛研修所長 有吉久雄氏(四十八)の自衛隊法五十九条(秘密を守る義務)違反容疑について、容疑不十分で不起訴処分とした」

読売記事。「防衛研所長は不起訴、機密ろうえい事件=一段十八行=東京地検は、前航空自衛

隊第二技術学校 副校長川崎健吉一等空佐(四十八)の、防衛庁機密ろうえい事件に関連して、防衛庁防衛研究所所長 有吉久雄氏(四十八)(東京都目黒区中央町二の六の六)を、自衛隊法五十九条(秘密ろうえい)違反の疑いで調べていたが、十一日朝、容疑不十分で不起訴処分にした。

有吉氏は、四十年九月から四十二年六月まで、防衛庁長官官房防衛審議官だったが、四十一年末ごろ、港区赤坂の防衛庁内で、朝日新聞篠原宏記者に、職務上保管していた『秘』の表示のある、『第二次防衛力整備計画事業計画案の概要』を閲覧させた疑いで、取り調べを受けていた」

読みくらべなくとも、朝日記事の中には、「朝日新聞篠原宏記者」の項がない。朝日記事のスタイルは、続報記事の書き方で、すでに、有吉所長の取調べが報道されており、その結果を報ずる時の記事である。これについて、論評を加える必要はあるまい。

さらにまた、前述した「佐々木環一億円サギ事件」のさいの、板橋署の六人の刑事が、佐々木の愛人宅で入浴したり、ソバ代を踏み倒したという、キャンペーン記事がある。

朝日のキャンペーン記事については、糸川ロケット事件をはじめ、問題にしなければならないものが多くあるので、それは後の機会にゆずって、ここでは、その終りの部分に触れたいと思う。

四十二年八月二十七日付の、読売、毎日には、警視庁が朝日に対し、記事取り消し方を申し入れた旨が報じられているが、そのことは遂に、朝日には掲載されなかった。

読売は、「……と、朝日新聞に報道された問題について、警視庁は二十六日午後九時半から、

槇野警務部長らが、異例の記者会見をし、『一部に誤解をまねくようなことはあったが、入浴、昼寝、昼食代踏み倒しの事実は、きょうまでの調査結果で無根とわかった。このため、朝日新聞社に記事の取り消しを含めた善処方を求めた』と、発表した。……」

正力松太郎の死の後にくるもの p.164-165 朝日は訂正も取消しもしない

正力松太郎の死の後にくるもの p.164-165 朝日の紙面には、ついに訂正も取消しも載らなかった。朝日に取消し記事が出ないのは、一体どういうことなのか。「新聞不信」の念。それは、ひとり朝日新聞への不信ではなく、新聞全般への不信であることを、私は恐れる。
正力松太郎の死の後にくるもの p.164-165 朝日の紙面には、ついに訂正も取消しも載らなかった。朝日に取消し記事が出ないのは、一体どういうことなのか。「新聞不信」の念。それは、ひとり朝日新聞への不信ではなく、新聞全般への不信であることを、私は恐れる。

四十二年八月二十七日付の、読売、毎日には、警視庁が朝日に対し、記事取り消し方を申し入れた旨が報じられているが、そのことは遂に、朝日には掲載されなかった。
読売は、「……と、朝日新聞に報道された問題について、警視庁は二十六日午後九時半から、

槇野警務部長らが、異例の記者会見をし、『一部に誤解をまねくようなことはあったが、入浴、昼寝、昼食代踏み倒しの事実は、きょうまでの調査結果で無根とわかった。このため、朝日新聞社に記事の取り消しを含めた善処方を求めた』と、発表した。……」

毎日は、「……といわれた問題について、二十六日夜、槇野警務部長が、朝日新聞社に記事の取消しを含む善処方を、口頭で申し入れた。警視庁が同日まで監察した結果では、同紙に報道されたそのような事実はないという。槇野警務部長の話。調査結果と報道に違う点があったので、記事の取消しを申し入れた。こちらとしては、事実についてたしかめた結果、現段階では捜査員の規律違反はなく、処分を考えていない」

だが、この件について、朝日の紙面には、ついに訂正も取消しも載らなかった。ただ、九月一日付で、「刑事の言動に配慮、〝脱線事件〟で警視庁」という三段見出しの記事が出た。これによると、「警視庁は三十一日午後『捜査は協力者など、一般市民に細かい心づかいを払う必要があった』と反省、今後は捜査の運営方法を改善し、捜査員の教養につとめるとの方針を明らかにした」そうだが、この警視庁のアッピールは、庁内のクラブ所属のどの新聞にものっていない。

しかもこの記事は、「協力者たちの主張と警視庁調査との食違いは、主として次の三点である」として、次の一段「入浴、踏み倒しの事実はない」との見出しで、槇野談話二十行がつづく。さらにそのあと、「なぜ真実がいえないのか」の一段見出しで、朝日記事の証言者T子さんの談話

十九行がある。いつまで待っても、朝日に取消し記事が出ないのは、一体どういうことなのか。

六人の刑事の、その妻と子供たち、身内の人々、警察官全般へと、夕立雲のようにモクモクと、黒くひろがってゆく「新聞不信」の念。それは、ひとり朝日新聞への不信ではなく、新聞全般への不信であることを、私は恐れる。

——これも、朝日新聞のもつ、体質の一部である。古くは「伊藤律架空会見記」の大虚報をはじめとして。

朝日新聞を中心に、「人」と「事件」を通して、現在の新聞が直面している諸問題を解析してゆくため、いくつかの既刊の「朝日論」にも眼を通してみた。

草柳大蔵「現代王国論」の中の「朝日論」は、〝論〟ではなくてCM、もしくは〝入社案内〟である。ことに、「……それほど朝日は、軍閥に抵抗し財閥に汚されず……」(文春刊、同書一三一頁)の一行に、それが尽きるのである。同書の表紙カバーの著者紹介を見ると、「雑誌記者、新聞記者を経て」とあるのだが、いずれも社名がない。

選挙の度に立候補する、ある特殊団体の幹部の肩書に、「元読売記者」とあるのを、私はかねて不審に思っていた。ある日、古い社員名簿を調べてみると、昭和十八年版、八王子支局の末尾に、「八丈島通信員(嘱託)」として、その人物の名前がでていたのである。まさしく、〝元読売記者〟ではあった。

正力松太郎の死の後にくるもの p.166-167 草柳大蔵と佐藤信

正力松太郎の死の後にくるもの p.166-167 群小〝新聞記者〟を常に支配する朝日コンプレックスと、元〝朝日記者〟の脱皮することのできないエリート意識——この対照の妙は、朝日新聞の現実の姿を浮彫りにしてくれる。
正力松太郎の死の後にくるもの p.166-167 群小〝新聞記者〟を常に支配する朝日コンプレックスと、元〝朝日記者〟の脱皮することのできないエリート意識——この対照の妙は、朝日新聞の現実の姿を浮彫りにしてくれる。

著者の経歴紹介は、読者にその文章に判断の根拠を与えるもの、でなければならない。フリーの新聞記者という職業がない日本のことだから、社名のない「新聞記者」という表現は、事実をまげてお提灯を書くための考慮であろうか。朝日新聞とは、このような群小〝記者〟に、朝日コンプレックスを抱かせる新聞なのである。

封建制に守られる〝大朝日〟

佐藤信「朝日新聞の内幕」「新聞を批判する」の二著は、これまた、私に非常な興味を抱かせた。社歴十八年、昭和四十年に調査部員に配転された、社会部、学芸部のベテラン記者だった著者は、これを〝侮辱〟と判断して、辞表を郵送して退社した。

だが、会ってみると、彼は依然として〝朝日人〟であり、その一流意識には、いささかの乱れもない。口を極めて、朝日新聞の先輩や同僚を罵るその著書の内容からは、想像もできないことである。朝日新聞の紙面について語る彼の印象は、私にとっては、〝現役の大朝日 記者〟であった。何故かならば、「紙面の勝負」に生きつづけてきた新聞記者であるならば、社の如何を問わ

ずに、「紙面」に対する批判は、常に徹底していたからだ。

群小〝新聞記者〟を常に支配する朝日コンプレックスと、元〝朝日記者〟の脱皮することのできないエリート意識——この対照の妙はその著書の極端に対照的な内容と相俟って、朝日新聞の現実の姿を浮彫りにしてくれる。

朝日は〝村山家の朝日〟であった。この点は、読売が〝正力の読売〟であるのと、全く同じである。これに比べて、毎日は強力な資本家を持たず、常に、サラリーマン重役によって、右往左往してきたという、体質の差があった。

戦後の朝日と読売の共通点はそればかりではないのだ。長谷部忠・馬場恒吾の代理社長の時期を持ち、それぞれにストライキを経験した。だが、毎日にはストによるお家騒動の体験がない。

けれども、朝日と読売とが、体質的に違う点は、朝日には、編集、業務を通じて、村山派と反村山派があるが、読売には、正力派直系と非直系派とはあっても、反正力派というのがないということである。

昭和三十五年以降の銀行資料によると、朝日の株主持株比率は、村山、上野両家で六割を占め、その間、全く変動がないのである。ところが、読売では、大株主の正力厚生会や、正力松太郎個人の、持株比率が毎年のように動いているのである。これは、読売社内に反正力派がいないことを物語る。正力一族の経営参加で、如何様にも持株を操作できるのだ。朝日では、「反村山派」

がいるので、そのようなサジ加減ができない。だから、村山家四名、上野家二名の持株は、微動だにしない。