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迎えにきたジープ p.214-215 雑誌「真相」のインチキ振り

迎えにきたジープ p.214-215 Afterword (continued) It takes courage to report the "truth."
迎えにきたジープ p.214-215 Afterword (continued) It takes courage to report the “truth.”

私は左翼的な立場の人々からは〝反動記者〟と罵られつづけてきた。それは、私が「真実」に対して眼をつむり、彼らの御用記者となって、そのアジに乗らなかったからである。

良い例をあげよう。私が取材し執筆したいわゆる〝反動的〟な記事の多くは、いろいろな抗議や取消要求を受けた。私はその人たちに進んで会い、その言分を聞いた。再調査もした。そ

して、抗議を蹴り、取消を拒んだ。その結果、私は〝反動記者〟〝デマ記者〟〝職業的ウソつき〟と、彼らの陣営にある新聞雑誌によって、口を極めて攻撃された。また告訴さえも受けたのであった。

だが一方、私は同様に多くの、いわゆる〝反米的〟もしくは〝反政府的〟な記事も、それが「真実」である限りは書いてきたのであった。すると彼らはこれを『…日付の読売によれば』というクレジットをつけたり、甚だしい時には自分達の取材によるかの如くクレジットもつけずに引用した。

「国際トバク団」がそうであり、菊池寛賞をもらった「東京租界」がそうであり、続き物の「生きかえる参謀本部」「朝目が覚めたらこうなっていた」などがそうである。

これは一体全体どうゆうことなのだろう。『われらは左右両翼の独裁思想に対して敢然と戦う。それは民主主義の敵であるからだ』という読売信条に従って、四百万の読売読者が、いや日本国民のすべてが、自由に考え論ずることができるようにと、そのおりおりの「真実」を伝えたにすぎない私なのである。

もう一つ例をあげよう。私が「幻兵団」のキャンペインをつづけていたころ、雑誌「真相」(二十五年四月、第四十号)は、〝幻兵団製造物語〟と題して、これがデッチあげのインチキだ

と攻撃してきたのであった。その中に私個人の経歴がでているが、その方のインチキ振りが甚だしい。引用すると、

三田和夫は東北きっての大地主で、岩手銀行、九〇銀行の取締をやっていた三田義正の孫で、読売盛岡支局から戦時中北支に派遣され、鍋山貞親の子分格でとび廻っていた。その頃、粗製ラン造で有名なサクラ兵器製造をやっていた岡元義人と知合い、いまは女房同志まで行ききするほどの親密な仲となっている。岡元らの持ち出す人民裁判事件をはじめ、反ソ引揚デマ工作にはかならず一役買っている。

と、いうものである。個人の履歴はただ一つしかない。このデタラメにいたっては、もう何もいう必要はあるまい。「真実」ほど大きな説得力をもっているものはない、などと、今更めいた言葉はやめて『御都合主義は止めなさい』と、再び私に加えられるであろうバリザンボウへの挨拶を送っておこう。

「真実」を伝えるということは、また同時に勇気がいることである。それによって不利益を受ける人たちの反撃は、実際に恐いのである。私も本音を吐くならば、この著を公けにすることはコワイのである。不安や恐怖を感ずるのである。だから、何も今更波風を立てなくとも、といった卑怯な妥協も頭に浮んでくる。

私のたった一つの記憶、数年前に父親が実の娘を犯し、そのため彼女は死を選んだという事 件があった。

迎えにきたジープ p.216-217 日本の戦後十年史の一断面

迎えにきたジープ p.216-217 Afterword (continued) That feeling of anxiety, confusion, and fear, whether the jeep is American or Soviet, is not the feeling of an individual, but the feeling of Japan as a whole sandwiched between the US and the Soviet Union.
迎えにきたジープ p.216-217 Afterword (continued) That feeling of anxiety, confusion, and fear, whether the jeep is American or Soviet, is not the feeling of an individual, but the feeling of Japan as a whole sandwiched between the US and the Soviet Union.

私のたった一つの記憶、数年前に父親が実の娘を犯し、そのため彼女は死を選んだという事

件があった。取材に当った私は、これが「真実」だと知った。しかし、罪に戦く父親と、清い心と身体で死んでゆくと遺書を残した娘の気持とを汲んで、私は妥協したことがある。「真実」を伝えなかったのである。

戦後の十年。この十年間ほど、日本が激しく大きく揺れたことはないだろう。そして、私は、その十年間に新聞記者として育ち、いろいろのことを見聞きしては、丹念にメモと資料とを貯めこんできたのだった。その意味ではこの著は、日本の戦後十年史の一断面でもある。

そして、私にとって幸いだったのは、私は一貫して公安関係(左翼、右翼、外事)の取材を担当できたことであった。そしてまた、「真実を伝える」ということのため、私は勇気を奮って、関係者の名前を、実名で登場させたのである。御迷惑をおかけした向もあることと思うが、私の微衷を汲まれ、御寬恕あらんことをお願ひする次第である。

敗戦という始めての経験に引きつづき、外国軍隊の占領、自由世界との講和と、共産世界との休戦という、事実上の「半独立」をも味わうなど、国際的な訓練の全くなかった日本民族は、この十年間に、或は本土で占領軍に阿ユ迎合したり、反抗したり、或はまた外地で捕虜となったりして、投獄され、忠誠を誓ひ、混血児を生むなど、男も女も数限りない辛惨をなめてきたのであった。そして、日本民族は成長した。国際的鍛錬を受けたのである。

民族としての優秀性を信じ、民族としての誇りを取戻したわれわれは、平和を愛する国際人として、世界に対して、新しい眼を見開きつつあるのだ。しかし、その希望に燃えあがる瞳に、まださえぎられたままでいる、〝隠された世界〟がある。

諜報と謀略の世界である。われわれが、自由と平和とを、こよなく愛する国民として、国際人として、明るく生きてゆくためには、この〝隠された世界〟までを見通す、叡智と聰明さとを必要とする。

この「迎えにきたジープ」は、いわばこのシリーズものの序章である。門口に止ったあのジープ特有の力強い爆音! ジープが迎えにきたナッ? と感じた瞬間の、あの不安と混乱と恐怖の感情とは、そのジープがアメリカのものであるかソ連のであるかを問わず、一個人の感情ではなくて、米ソの間にはさまれた日本全体の感情である。

この第一集は、第二集「赤い広場—霞ヶ関」の前篇ともいうべきもので、主として過去の事件が多い。第二集がラストヴォロフ事件から、日ソ交渉にいたるまでの、内幕ものなので、それをうけた、この十年間の、米ソの相搏つ〝声なき斗い〟の歴史である。この経過が分らないと、日ソ交渉も、ラ事件も、正しく理解することはできない。

この一集では、私は何も結論を出していない。ただ、事実と疑問とを投げかけているだけで

ある。他の三分冊と併せて読んで頂けるならば、アメリカとソ連は東京で何をしていったか、何をしているか、また何をするだろうかが、分って頂けることと信じている。