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編集長ひとり語り第11回 若者たちの実像

編集長ひとり語り第11回 若者たちの実像 平成11年(1999)5月15日 画像は三田和夫66歳(左側 ACT会1987.08.24)
編集長ひとり語り第11回 若者たちの実像 平成11年(1999)5月15日 画像は三田和夫66歳(左側 ACT会1987.08.24)

■□■若者たちの実像■□■第11回■□■ 平成11年(1999)5月15日

女子高生の修学旅行が、札幌のホテルで火事騒ぎを起こした事件について、新聞各紙は大きく報じた。その第一印象からいえば、おりから公判が始まった、和歌山のカレー事件の第一報さながらであった。記事を読んで、私はすぐ思った。「いまどきの社会部のデスクはセンセーショナリズムに毒されているなあ」ということだった。

死亡1、重体1、とは、旅館の大広間での宿泊と違って、ホテルの一室だけが燃えたということ。すると、火事の原因は、漏電か、放火か、失火か、のいずれかである。しかも、第一報の記事は、ドア付近が一番燃えているとまで書いている。さらに、ドアをふさぐようにソファが置かれていた、とも。

案の定、14日夜のニュースでは、室内にマッチの軸木が散乱していたと伝えた。遺留品のタバコの有無も、吸いガラの有無も、書いた新聞はなかった。高校3年ともなれば、もっと自己管理が求められねばならない。新聞紙面も、そのように作られねばならない。

同じように、NATOの中国大使館誤爆の関連記事である。12日付朝日紙朝刊は、[上海11日]付けで、浙江省杭州市の浙江大学での、日本人留学生と中国人学生とのトラブルを伝えた。10日夜の事件だ。12日付夕刊で、産経紙が時事通信記事を掲載、朝日紙は「暴力行為で秩序乱した日本人留学生を除籍」と伝えたが、日中学生の乱闘騒ぎの原因については、まだ書かれていない。

13日付朝刊になると、日経紙が加わり、一段見出し30行ほどの[上海12日発]で、「原因は、中国人学生が貼った米国非難のビラにサッカーボールが当たったのがキッカケ」と報じた。朝日紙は、列車で3時間ほどの杭州市に上海特派員を出張させ、第一報と同じ三段見出しの記事を掲載しているが、「留学生寮の窓に投石、日本批判ビラ10枚以上」とあり、「とても怖い」という留学生の声、という感情的記事である。

14日付になると、東京紙が「本音コラム」で林志行(リンシコウ)・日本総研主任研究員に書かせている。「平和ボケした日本人留学生には、思想的なものなどなく、(米国非難のビラが貼られた)学生向け掲示板をサッカーゴールに見立てて、壁打ち的行為をしていた」のが原因だと明記した。東京にいる林氏が、的確な取材ができるのに、各紙の上海特派員はナニをしているのか。ただし、日経紙は別で、事件は10日夜から11日未明なのだが、「一部留学生は11日午前香港に避難、12日現在21名の留学生が寮に残っている」と伝えている。朝日紙の“感情的”紙面とは違った内容だ。

米国非難ビラが貼られている掲示板に、サッカーボールで壁打ちする日本人留学生の無神経さ。多分、詰め寄られて先に手をだしただろう忍耐の無さ。いみじくも朝日紙の記事にある「外では大きな声で日本語を使えない」とは、彼ら留学生の実態を示している。中国人学生と友達にもなれず、日本人同士だけで群れているのは、アメリカ留学で撃ち殺された連中と同じである。

林氏の期待する「日中間の将来を担う大事な民間大使のはずだ」とは、とうてい及びもつかない、日本人留学生の姿である。同時に、新聞記者たちにも、自戒の鏡であろう。 平成11年(1999)5月15日

最後の事件記者 p.268-269 外部からみつめる機会を得た

最後の事件記者 p.268-269 この本をまとめるにいたったのも、もとはといえば、文芸春秋に発表した、「事件記者と犯罪の間」という手記がキッカケである。
最後の事件記者 p.268-269 この本をまとめるにいたったのも、もとはといえば、文芸春秋に発表した、「事件記者と犯罪の間」という手記がキッカケである。

新聞記者というピエロ

我が名は悪徳記者

ここまで、すでに三百二十枚もの原稿を書きつづりながら、私は自分の新聞記者の足跡をふり返ってみてきた。私は自分の書いた記事のスクラップを丹念につくり、関係した事件の他社の記事から、参考資料まで、細大もらさず、記録を作ってきたので、私の財産の一番大きなものは、この〝資料部〟である。

スクラップの一頁ごとに、どれもこれも書きたい思い出にみちた仕事ばかりである。それを読み返し、関連していろいろな思いにかられるうちに、心の中でハッキリしてきたことは、「新聞」に対する、内部の人間、取材記者としての反省であった。私の立場からいえば、とてもおこがましくて、「新聞批判」などといいえないのだ。あくまで「自己反省」である。

この本をまとめるにいたったのも、もとはといえば、文芸春秋に発表した、「事件記者と犯罪の間」という手記がキッカケである。その手記の冒頭の部分にふれたのだが、新聞を去ってみて、外部から新聞をはじめとするジャーナリズムを、みつめる機会を得たのであった。つまり、それは、

新聞雄誌にとりあげられた私の報道をみて、私が「グレン隊の一味」に成り果ててしまったことを知って、いささか過去十五年の新聞記者生活に懐疑を抱きはじめたのであった。

失職した一人の男として、今、感ずることは、「オレも果してあのような記事を書いたのだろうか」という反省である。

私は確信をもって、ノーと答え得ない。自信を失ったのである。それゆえにこそ、私は〝悪徳〟記者と自ら称するのである。

と、いうことであった。

そして、この一文に対して、実に多くの批判を受けたのである。私の自宅に寄せられたのもあれば、文芸春秋社や読売にも送られてきた。あるものは激励であり、あるものは戒しめであった。この一文が九月上旬に発売された十月号だったので、まもなく十月一日からの新聞週間がや

ってきた。その中でも、私の事件への批判があった。