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事件記者と犯罪の間 p.156-157 「棒に振った?グレン隊と心中した?」

事件記者と犯罪の間 p.156-157 私は捜査官にいった。「棒に振ったなんてサモシイことをいいなさんな。オレは記者としての仕事に、職どころか、生命さえ賭けているンだ。辞職で済めば安いものサ」
事件記者と犯罪の間 p.156-157 私は捜査官にいった。「棒に振ったなんてサモシイことをいいなさんな。オレは記者としての仕事に、職どころか、生命さえ賭けているンだ。辞職で済めば安いものサ」

調べの進展と同時に、私はグレン隊安藤組と過去において、何の関係もなかったことが明らかになった。事実その通りである。またどうしてもという義理ある人の依頼もないことが判ってきた。脅かされたという事実もなければ、ましてや、金で誘われたこともないと判明した。しかし、本人は勤続十五年の一流新聞を辞職している。末は部長となり、局長となると目された(?)人で、腕は立つ(?)のである。それが一ゴロンボーのために、名誉と地位と将来とを棒に振った

のである——納得がいかないのも無理もない。

私は答えた。「棒に振った? グレン隊と心中した? 飛んでもない! オレは棒に振ったり、心中したなんて思ってみたこともないよ」と。

私は自分の仕事に責任を持ったのである。私とて、大好きな読売新聞を、こんな形で去りたいと願ったことはない。もちろん、胸は張り裂けんばかりに口惜しいし、残念である。ことに、過去が輝かしいだけに、その哀別離苦の念はことさらであった。

出来ねばボロクソ商売だ

だが、私は十五年の記者生活で、この眼で見てきて知っている。落伍していった先輩、後輩たちの悲しい姿を。俗にいう通り、「新聞社は特ダネを抜いて当り前、出来なくてボロクソ」と。出来ても当り前なのである。

新聞という公器としての性格と、近代企業としての性格が重なって、新聞社はこのように冷酷非情なものなのである。〝出来なければボロクソ〟なのである。冷たい男と知りながら、血道をあげて、すべてのものを捧げつくして去っていった女、しかし、それでも女はその非情な男を慕わざるを得ない——これが新聞社と新聞記者の間柄である。

私は、自分の、新聞記者としての取材活動が失敗に終ったことを知った。〝出来なければボロクソ〟である。私は静かに辞表を書いた。逮捕され、起訴されれば、刑事被告人である。刑事被

告人の社員は、社にとってはたとえどんな大義名分があろうとも、好ましいことではない。私は去らなければならないのだ。

私は捜査官にいった。「棒に振ったなんてサモシイことをいいなさんな。ほかの奴はどうあろうと、オレは記者としての仕事に、職どころか、生命さえ賭けているンだ。辞職で済めば安いものサ」

どうも抽象論が長きに過ぎたようである。もう少し具体的に、私の〝悪徳〟ぶりを語らねばならない。

大東亜戦争がすでにたけなわとなっていて、我々は半年の繰上げ卒業だった。昭和十八年秋だった。朝日、読売、NHKのアナウンサーと、三社を受験した。試験成績には充分な自信があったが、朝日は「残念ながら貴意に添い難く…」の返事だった。怒った私は、盛岡出身の伊東圭

一郎出版局長(先ごろ亡くなられた)に頼んで調べて頂いたところ「試験成績は合格圏内だが、出身校が日大芸術科なので……」と、いい難そうに説明されたのである。激怒した私は数寄屋橋の上から、朝日新聞社をハッタとばかりにニラミつけて、「畜生め、あとで口惜しがるような大記者になって見せるゾ!」と、誓ったものだった。

(写真キャプション)まさに〝歴史的〟記念品ともいうべき辞令二葉

最後の事件記者 p.092-093 当時の上野は犯罪の巣窟

最後の事件記者 p.092-093 グレン隊、ズベ公、オカマ、パンパン、ヤミ屋、家出人——ありとあらゆる、社会の裏面に接するのは、この新聞記者の駈け出しともいうべき、サツ廻りの時代である。
最後の事件記者 p.092-093 グレン隊、ズベ公、オカマ、パンパン、ヤミ屋、家出人——ありとあらゆる、社会の裏面に接するのは、この新聞記者の駈け出しともいうべき、サツ廻りの時代である。

その時には、すでにサツ廻りとして、上野へ出ていたのであ

る。高木健夫さんが、シベリア印象記の結ぶ恋と聞いて、「ウン、そりゃ、書けるナ」と冷やかされた。

こんな結婚話を書きつらねるのも、それから十年間、紆余曲折喜怒哀楽のうちに、新聞記者の女房として、横井事件でアッサリと社を投げ出してしまった時までの、彼女の気持も理解して頂かねば、私の生活記録として欠けると思うからである。

裸一貫の私には、貯金も財産もなかった。あったのは、職業と健康だけである。軍隊時代の封鎖された貯金から千三百円、学生服を売って二千五百円、社の前借が二千円、それに各方面からのお祝いを九千六百円頂き、合計一万五千四百円の現金ができた。そして、九千五百七十一円の結婚式費用を投じて、二人は一緒になった。新居は依然として、兄の二階だった。新婚旅行なぞは、したくとも金がなかったので取止めた。

この結婚の当初から、私たちの新家庭は、いわゆる新婚家庭ではなかった。私が仕事に熱中していたからであった。当時の上野は、地下道時代だったから、全く犯罪の巣窟でもあり、ニュースの宝庫でもあった。

地下道時代

グレン隊、ズベ公、オカマ、パンパン、ヤミ屋、家出人——ありとあらゆる、社会の裏面に接するのは、この新聞記者の駈け出しともいうべき、サツ廻りの時代である。だから新聞記者で、サツ廻りを経験しないのは不幸なことである。

ターバンの美代ちゃん、という、ズベ公のアネゴと親しくなった。今でいうスラックスをピッとはいて、向う鉢巻のターバンをしていて、年のころ二十二、三の、意気の良いアネゴだった。

ポケットに洋モクを一個入れて、ポリにつかまると、「洋モクをバイ(売)してるンだ」と逃げるが、実はパン助の取締り——ショバ代をまきあげて生活している。女の意地がたたないとなると、子分のズベ公を連れて、朝鮮人の家にでも、ナグリ込みをかけるほどの女だ。   

彼女の家に泊めてもらったことがある。何人か各社の記者も一緒だ。そして、夜中に彼女の部屋をのぞくと、彼女のスケ(情婦)という可愛らしい十七、八の娘と抱き合ってねていた。女同志の妖し気な情事が、どんなに激しいかを知って驚いたのもそのころのことだ。

Mという、決して美人でない変り者のパン助がいた。彼女は、客を引きながらも、決してムダ に立っていない。仲間のパン助相手に、オムスビやオスシを売る行商をする。そして、七十八万円を貯金していた。

p62下 わが名は「悪徳記者」 この瞬間に大勝負へ踏み切った

p62下 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 私は決断を迫られた。私の無言に、小笠原は誠心誠意、人間の信義をかけて、再び頼みこんできた。私は彼の眼をジッとみつめて、しばらく考えこんだ。ホンの数分である。イヤ数十秒かも知れない。
p62下 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 私は決断を迫られた。私の無言に、小笠原は誠心誠意、人間の信義をかけて、再び頼みこんできた。私は彼の眼をジッとみつめて、しばらく考えこんだ。ホンの数分である。イヤ数十秒かも知れない。

そればかりではない。数字を明らかにしたくないが、私が月々得る雑誌原稿料は相当なものであった。

この私が、どうして、十万やそこらのメクサレ金で、刑事訴追を受けるような危険を冒すであろうか。もしも、誰かが一千万円も出すといって頼みにくれば、しばらくは考えこむだろうが、百万円もらってもイヤである。私の将来がなくなるからである。私の二人の可愛い子供たちが、学校へ行けなくなるし、三田姓を名乗る一族のすべてが、肩身せまくなるからである。

私の意志は、小笠原のこの突然の、虫の良すぎる申し出の前で、全く自由であった。彼の意志に反して、彼の眼前で警視庁へ電話して突き出すことにも、恐怖なぞ感じなかった。私は取材で、記事で、もっと恐いことを味わっている。

私は決断を迫られた。私の無言に、小笠原は誠心誠意、人間の信義をかけて、再び頼みこんできた。私は彼の眼をジッとみつめて、しばらく考えこんだ。ホンの数分である。イヤ数十秒かも知れない。――私は決心して、『よろしい。やってみましょう。ただ、北海道といえば、頼める人はただ一人、旭川にいた私の昔の大隊長だけです。その人がウンといったら、紹介してあげます。もし、ダメだといったら、あきらめて自首なさい。』

私はこの瞬間に、大勝負へ踏み切ったのであった。新聞記者として、一世一代の大仕事である。まさにノルカソルカであった。戦争と捕虜とで、〝人を信ずる〟という教訓を得た私は、小笠原を信じたのである。 人は笑うかも知れない、『何だ、タカがグレン隊の若僧に……』