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編集長ひとり語り第21回 マスコミへの4つの疑問

編集長ひとり語り第21回 マスコミへの4つの疑問 平成11年(1999)7月24日 画像は三田和夫69歳(右端 池五の会1990.06.15)※池五=池袋第五小=西巣鴨第五尋常小学校
編集長ひとり語り第21回 マスコミへの4つの疑問 平成11年(1999)7月24日 画像は三田和夫69歳(右端 池五の会1990.06.15)※池五=池袋第五小=西巣鴨第五尋常小学校

■□■マスコミへの4つの疑問■□■第21回■□■ 平成11年(1999)7月24日

これで連続3回目の「野村沙知代問題」だが、いまのマスコミには、私に理解できない部分があるようだ。前回書いたように、私はさる7月16日(金)に、塩谷(しおのや)安男弁護士を代理人として、東京地検に公選法違反の告発を行った。選挙公報に記載されている、「1972年野村克也氏(現ヤクルト監督)と結婚」とある部分が、虚偽事実の公表罪にあたる、というものである。

私に理解できないマスコミ、というのは、第一に、公報に記載されていない学歴詐称問題ばかりに熱中していること。名古屋の新間正次とかいうタレントの場合は、公報にその詐称学歴を掲載している。同じ学歴詐称でもまったくケースが違うのである。

第二に、結婚の年が違うという話題は、関係者のコメントなどで、何回も触れられているのに、どこの局も、誰もが、その事実を確認しようとしていなかったし、確認もしなかった、ということである。すべて、コメントの垂れ流しだけだった、ということ。調べさえすれば、すぐ判明(確認)することを、やろうとしないことである。

第三に、塩谷弁護士が告発状を提出したあと、19日の月曜日に、私は司法記者クラブの幹事社である、テレビ東京のファックスにあてて、告発したことと、告発状のコピーを送信し、「加盟各社によろしくご伝達ください」と書いたのだが、どこの社からも、弁護士の許にも私にも、問い合わせがなかったことである。記者クラブには、新聞社と電波各社が加入しているのに、である。

ところが、22日の木曜日になって、この問題を取り上げたフライデー誌の記事を、各社が見て、午後からにわかに、私や弁護士のところに、取材の申しこみがきたのだ。フライデー誌は、塩谷弁護士の関係者からの情報で、17日頃から動いていたようだ。つまり、司法記者クラブに入った情報(私のファックス)は、まったく黙殺されて、フライデーの記事で、動き出したということだ。

私は、私への取材は一切固辞している。つまり、テイノー人たちの弥次馬と同一視されるのを避けるためで、その点も、塩谷弁護士と事前に話し合い、すべてを弁護士に委任したのである。野村が起訴されれば、刑事被告人である。テレビ番組は彼女を起用するのをやめるだろうし、講演依頼も終わるだろう。そうなってからなら、私は、告発の真意を語ることも意味がある。地検の出方が明らかになるまでは慎重でなければならない。

彼女が次点の地位にある限り、当選した5人の公明党系の議員のだれかが、交通事故などで死亡でもしたら、彼女は当選し、多分、解散総選挙の時まで、衆議院議員でありつづけるだろう。9兆円という巨額の税金が、銀行救済のために投入された。その上、野村沙知代のような人物に、議員歳費が何千万円も注ぎこまれることは、堪えられないことであり、かつ、日本憲政史に、衆議院議員として彼女の名前が残ることは(新間の名は削除)、日本国民に対する最大の侮辱である。

もしも、私の告発で彼女が起訴になれば、これはひきつづき、選挙公報にウソを書いたことを黙認した(黙殺しつづけた)、夫の野村克也監督の社会人としての責任、小沢一郎党首の政治責任へと発展してゆくだろう。

マスコミへの第四の疑問は、この結婚のウソを暴くことが、阪神の野村監督への波及を恐れているのではないか、ということだ。 平成11年(1999)7月24日

事件記者と犯罪の間 p.156-157 「棒に振った?グレン隊と心中した?」

事件記者と犯罪の間 p.156-157 私は捜査官にいった。「棒に振ったなんてサモシイことをいいなさんな。オレは記者としての仕事に、職どころか、生命さえ賭けているンだ。辞職で済めば安いものサ」
事件記者と犯罪の間 p.156-157 私は捜査官にいった。「棒に振ったなんてサモシイことをいいなさんな。オレは記者としての仕事に、職どころか、生命さえ賭けているンだ。辞職で済めば安いものサ」

調べの進展と同時に、私はグレン隊安藤組と過去において、何の関係もなかったことが明らかになった。事実その通りである。またどうしてもという義理ある人の依頼もないことが判ってきた。脅かされたという事実もなければ、ましてや、金で誘われたこともないと判明した。しかし、本人は勤続十五年の一流新聞を辞職している。末は部長となり、局長となると目された(?)人で、腕は立つ(?)のである。それが一ゴロンボーのために、名誉と地位と将来とを棒に振った

のである——納得がいかないのも無理もない。

私は答えた。「棒に振った? グレン隊と心中した? 飛んでもない! オレは棒に振ったり、心中したなんて思ってみたこともないよ」と。

私は自分の仕事に責任を持ったのである。私とて、大好きな読売新聞を、こんな形で去りたいと願ったことはない。もちろん、胸は張り裂けんばかりに口惜しいし、残念である。ことに、過去が輝かしいだけに、その哀別離苦の念はことさらであった。

出来ねばボロクソ商売だ

だが、私は十五年の記者生活で、この眼で見てきて知っている。落伍していった先輩、後輩たちの悲しい姿を。俗にいう通り、「新聞社は特ダネを抜いて当り前、出来なくてボロクソ」と。出来ても当り前なのである。

新聞という公器としての性格と、近代企業としての性格が重なって、新聞社はこのように冷酷非情なものなのである。〝出来なければボロクソ〟なのである。冷たい男と知りながら、血道をあげて、すべてのものを捧げつくして去っていった女、しかし、それでも女はその非情な男を慕わざるを得ない——これが新聞社と新聞記者の間柄である。

私は、自分の、新聞記者としての取材活動が失敗に終ったことを知った。〝出来なければボロクソ〟である。私は静かに辞表を書いた。逮捕され、起訴されれば、刑事被告人である。刑事被

告人の社員は、社にとってはたとえどんな大義名分があろうとも、好ましいことではない。私は去らなければならないのだ。

私は捜査官にいった。「棒に振ったなんてサモシイことをいいなさんな。ほかの奴はどうあろうと、オレは記者としての仕事に、職どころか、生命さえ賭けているンだ。辞職で済めば安いものサ」

どうも抽象論が長きに過ぎたようである。もう少し具体的に、私の〝悪徳〟ぶりを語らねばならない。

大東亜戦争がすでにたけなわとなっていて、我々は半年の繰上げ卒業だった。昭和十八年秋だった。朝日、読売、NHKのアナウンサーと、三社を受験した。試験成績には充分な自信があったが、朝日は「残念ながら貴意に添い難く…」の返事だった。怒った私は、盛岡出身の伊東圭

一郎出版局長(先ごろ亡くなられた)に頼んで調べて頂いたところ「試験成績は合格圏内だが、出身校が日大芸術科なので……」と、いい難そうに説明されたのである。激怒した私は数寄屋橋の上から、朝日新聞社をハッタとばかりにニラミつけて、「畜生め、あとで口惜しがるような大記者になって見せるゾ!」と、誓ったものだった。

(写真キャプション)まさに〝歴史的〟記念品ともいうべき辞令二葉