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迎えにきたジープ p.090-091 街に流れ出したソ連色

迎えにきたジープ p.090-091 Prime Minister Stalin's new year's message to the Japanese people in 1952, and Ikuo Oyama's Stalin International Peace Prize, both showcase the Soviet friendship with Japan.
迎えにきたジープ p.090-091 Prime Minister Stalin’s new year’s message to the Japanese people in 1952, and Ikuo Oyama’s Stalin International Peace Prize, both showcase the Soviet friendship with Japan.

例えばソ連人が帰国するので船会社で切符を買う。その船賃とほぼ同額のドルが、口座から減っているという工合だ。しかし円関係は分らない。市中銀行に個人名儀の円預金を持っているのは事実だが、実態はつかめないでいる。

失踪したラ氏は四、五万円の金を持っていたというので、この千円札の行方を追及した。新しい千円札なら入手経路が分るからだ。失踪の日東京温泉でミストルコに二千円のチップをやったときいて色めき立ったが、誰が千円札の番号記号を覚えているだろう。話は横道へそれたが、このような話のまつわりつく林炳松氏が帰国した。しかも当局では北京から帰ってきたと信じている。果して再び、日中、日ソ貿易商社たちをあわてさせるような噂をふりまくだろうか。

四 街に流れ出したソ連色

他の政治、文化工作も、この経済工作と並行して活溌に行われていた。

シュメリヨフ文化代表の活躍もすさまじかった。第一期の時代も三菱仲二十一号館の図書館では、自由にソ連図書の閲覧を許していたが、七月ごろからは学生と勤労者に重点を置いた宣伝活動が激しくなった。

文化部内で、隔日か週二、三回の割で映画会、文化会が、日ソ親善協会を通して行われた。早大講堂ではソ連文化展や民族舞踊会が催され、専大ではロシヤ語友の会が文化部のザカローバ女史出席のもとに開かれた。朝鮮人に対しても旧朝連系学生の手で、映画、舞踊会が催された。

二十七年初頭のスターリン首相の年頭メッセーヂ、大山郁夫氏へのスターリン平和賞、いずれもソ連の日本への友好を誇示したゼスチュアだ。ソ同盟共産党小史、ハバロフスク細菌戦犯裁判の全貌など、モスクワ外国語出版所の刊行になる日本文ソ連図書のほか、ロシヤ語パンフレットやグラフが安価に街に流れ出した。ヴォルガの舟唄などソ連製のレコードも、本場もののヴォッカ、食料、調味料までが、街のロシヤ料理店に並んでいる。

政治工作の担当者は明らかではない。別表の、代表部組織をみても分る通り、明らかに政府(赤軍を含む)系統のものと党関係の系統とに分けて考えられる組織だからだ。大きくいえば、前述の経済、文化工作も政治工作に入るだろうし、現象面に現われてくる事実も何工作と分類できないものが多い。ここでは気にかかる事実を並べてみよう。

1952年1月
ソ連代表部機構

代表

陸軍武官府
海軍武官府
政治顧問室
経済顧問室

文化部
通商部
文官部
報道部
領事部
海軍部

連絡将校室
特別情報部
書記室

赤い広場ー霞ヶ関 p.184-185 「自由党は割れるヨ」

赤い広場ー霞ヶ関 p.184-185 The Soviet Union thought that Japan-Soviet negotiations would never be held under the Yoshida Liberal Party administration. Therefore, they worked to create the Hatoyama administration.
赤い広場ー霞ヶ関 p.184-185 The Soviet Union thought that Japan-Soviet negotiations would never be held under the Yoshida Liberal Party administration. Therefore, they worked to create the Hatoyama administration.

そして、今にいたるも、この六十数名は明らかにされていない。そして、六十数名というの

が「山本調書」の全貌なのである。私が、今までに明らかになし得たのは、その一部にすぎないが、その重要な部分であることには間違いない。

二 怪物久原と立役者メンシコフ

昭和二十七年の秋、ある元ソ連代表部員がある人に向ってこういったことがある。

『自由党は割れるヨ。割るものは、キッと、石橋か大野だろう』

この短かい言葉が、誰と誰との間で話されたかということを、ここで伏せねばならないのは残念である。しかし、語った人が元ソ連代表部員であるということは、いろいろなことを考えさせる。

〝自由党は割れる〟という、この観測の根拠となった彼の情勢分析は、何かということである。これが、〝割れるようにしてある〟でなければ幸いである。

ソ側の判断では、吉田自由党政権のもとでは、絶対に日ソ交渉は開かれないとみていた。これは当然である。そのためには旧改進党勢力を中心とする、保守政権を期待せざるを得ないのである。

左右両派社会党が、どんなに口惜しがろうと、ソ同盟共産党小史をひもとくまでもなく、共産党の人民民主主義に対する、社会党の社会民主主義は相容れないのである。

共産党がボリシェヴィキであり、社会党はメンシェヴィキである。ボリシェヴィキは「敵」である保守党とは、戦術的に握手して、その目的を達成したのち、これを「敵」として屠るがメンシェヴィキとは握手することは許されない。

第一集「迎えにきたジープ」の「招かれざるハレモノの客」の中で、ソ連の対日工作に三段階があったことを述べた。二十六年十一月二日、ドムニッキー通商代表とマミン経済顧問とが国会を訪問したことがある。それから五日後の七日の革命記念日には、元代表部でパーティーが開かれ、改進党代議士諸公の主要な人物には、個人招待状が送られていたのである。

そして、自由党が割れ、鳩山政権が生れるや、直ちに日ソ交渉のための、鳩山・ドムニッキー会談のお膳立が進められた。そして交渉地ロンドンが正式決定して、交渉が開始されるまで僅か半年である。これはなぜか。もちろん、鳩山内閣の短命を見越しているのである。鳩山内閣時代にソ側の狙う実績だけを、稼いでおかねばならないからである。

さて、ここで問題は日ソ国交回復国民会議会長久原房之助氏と、ソ連駐印大使、エカフェ代表メンシコフ氏という、二人の大物の登場となる。 ソ連の対日工作は、まず経済工作に始まった。モスクワ国際経済会議に、シベリヤ・オルグを使って、高良とみ女史を誘いこんでからというものは、軌道に乗って順調にすべり出した。