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迎えにきたジープ p.084-085 モスクワ経済会議の招待状

迎えにきたジープ p.084-085 The climax of this series of maneuverings was the Japan-Soviet economic conference held at the Ginza Kojunsha from the afternoon of January 29,1952, just before the Red Army Memorial Day.
迎えにきたジープ p.084-085 The climax of this series of maneuverings was the Japan-Soviet economic conference held at the Ginza Kojunsha from the afternoon of January 29,1952, just before the Red Army Memorial Day.

続いて第二弾の国際経済会議への招請がもたらされた。十月二十八、九両日にわたってコペンハーゲンで開かれた発起人委員会に、日本側委員として中国研究所長平野義太郎氏の名が挙げられた。平野氏は直ちに日中貿易促進会を足がかりに、帆足計、大山郁夫両氏らと国際経済会議準備委員会を作って動きだした。

さらに十一月七日の革命記念日には、代表部でパーティが開かれ、首相はじめ政、官、財各界の有名人多数が招待状をうけた。石橋湛山、北村徳太郎氏ら個人の資格で招待されたものもあり、通産省官吏が多かった。前例のないパーティだった。

また、年が変った二十七年二月二十二日、赤軍三十四年記念日にも井口外務次官のほかに平野、帆足、大山氏ら国際経済会議関係者と、村田省蔵氏ら財界人多数を招いた。しかも正式の会の後に帆足氏がソ連人の前で、井口外務次官にモスクワ会議出席問題で喰ってかかるという一幕もあったほどだった。

だが、この一連の工作のヤマは赤軍記念日の直前、一月二十九日午後一時から銀座の交詢社で開かれた日ソ経済会議だった。

主催 内外情勢研究会(築地綿スフ織物ビル内)この席を準備したのは同会顧問風見章氏である。

司会 肌足計氏

通訳 岩田ミサゴ、南信四郎両氏

出席者 ドムニッツキー、アブラモフ、タス通信記者三氏、日本側からはモスクワ会議準備委員のほか、八幡製鉄、神戸製鋼、富士製鉄、同和鉱業、十条製紙、本州製紙、パルプ協会、新光レーヨン、大洋漁業、日本水産、永和商事、亀山興業、汽車製造、東京銀行など十四社代表。

会議の内容は主として日ソ貿易に関する問題で、ソ連側の資料提供と質疑応答が行われた。積極的だったのは製鉄業者と水産業者だった。経済問題が一段落すると最後は政治的集会に移り、年頭のスターリン・メッセーヂを繰り返し、さらにモスクワには共同通信特派員の設置が許可されていると強調、これによりソ連資料を集めるべきだといった。

財界はこの会議によって大きく動かされた。向米一辺倒だった財界人にも日ソ貿易への興味が湧き起ってきた。そこへモスクワ経済会議の招待状が石川一郎、北村徳太郎、大内兵衛、都留重人、稲葉秀三、名和統一、蜷川虎三、平野義太郎、帆足計、石橋湛山、平岡憲太郎の十一氏にもたらされた。

日本の各界はこの問題をめぐって、さきにケンケンガクガクの是非論を闘わしたが、結局同

会議出席のため名和、帆足、平野、平岡、宮腰喜助の五氏と組合関係から吉田産別議長、柳本総評組織部長、和田金属委員長、太田国鉄書記長、入江合成化学書記長らが渡航申請を行ったのだった。

迎えにきたジープ p.094-095 高良女史・ナゾの秘書松山繁

迎えにきたジープ p.094-095 An easily deceived old lady, Tomi Kora, attended the Moscow Economic Conference. However, behind it was Shigeru Matsuyama, an agent.
迎えにきたジープ p.094-095 An easily deceived old lady, Tomi Kora, attended the Moscow Economic Conference. However, behind it was Shigeru Matsuyama, an agent.

二十九年秋の神戸市警の調査によれば、このメムバーも変り、会長はポロシン(洋服地行商)委員としてフェチソフ(洋裁店主)、ベルモント(会社支配人)、ゴロアノフ(拳闘家)、ユシコ

フ(無職)らが幹部になっている。この中で注目されるのはユシコフであって、彼は銀座八丁目の千疋屋二階にあるナイトクラブ「ハト」の経営者であった。

クラブ「ハト」というのは代表部員たちの溜り場のような店で、客のほとんどが外人ばかりである。ラ氏の工作舞台であったろうことも当然考えられようが、何よりもユシコフはこの店で二人の白系露人をかくまい、またしばしば代表部へ出入していたのである。

この二人というのはさる二十六年七月二十九日、北海道宗谷村から漁船を利用して樺太へ密航しようとして逮捕され、二十七年七月末に札幌地裁で講和の大赦で免訴になった、ウラジミール・ボブロフとジョージ・テレンチーフの二人である。

そしてまたこのユシコフとボブロフの二人は、二十八年三月十六日、西銀座のナイトクラブ「マンダリン」で、〝モンテカルロの夜〟という偽装慈善パーティの国際バクチを開帳して検挙された主犯でもある。

講和発効となって日ソの関係はまた新しく展開した。当時の岡崎外相の国会での発言によれば、現在の日ソ関係は、『降伏関係ではなく、独立国としての日本とソ連との休戦関係』である。代表部としては前二期の工作の成果が実って、この時期に備えるのを待っていた。

第三期工作は成果の誕生とその育成が狙いだ。高良とみという、人間の善意しか理解できな

い(?)ような老婦人が、モスクワ会議へ代表となって飛入りしてきたのも幸先が良かった。チョロまかしやすいタイプの人である。まさに鴨が葱を背負ってきたという処であろう。

女史は、ハバロフスク郊外六十キロの日本人墓地に詣で、『緑の若草が萌え、やすらかな雰囲気を感じた』という。何故六十キロも離れた墓地ではなく、同地帰還者のいう同市周辺に無数にある墓地に詣でて、一掬の涙をそそがなかったのだろう。女史がどの程度シベリヤ捕虜問題に正確な知識をもち、どうしてその墓を日本人の墓と確認したのであろうか。平和で安らかな一刻であったろう。

さらにまた女史はシベリヤで将軍に会って、日本人戦犯への慰問袋、文通自由を確認したという。ああ、どうして女史は……と、女史の一挙手一投足に不安と危惧とを感じない者があるだろうか。

だが、この高良女史問題も二十七年八月九日付の読売紙に報ぜられた「ナゾの秘書、松山繁」の記事が述べているように(第二集〔赤い広場—霞ヶ関〕に詳述)それは決して偶然ではない。ソ連の対日工作はつねに一貫して流れているのである。