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迎えにきたジープ p.086-087 地下中共大使館の財務官

迎えにきたジープ p.086-087 Bingsong Lin (林炳松, Lin-Heisho) is called the “Treasurer of the Underground CCP Embassy”. He plot to spread the ruble instead of the dollar.
迎えにきたジープ p.086-087 Bingsong Lin (林炳松, Lin-Heisho) is called the “Treasurer of the Underground CCP Embassy”. He plot to spread the ruble instead of the dollar.

日本の各界はこの問題をめぐって、さきにケンケンガクガクの是非論を闘わしたが、結局同

会議出席のため名和、帆足、平野、平岡、宮腰喜助の五氏と組合関係から吉田産別議長、柳本総評組織部長、和田金属委員長、太田国鉄書記長、入江合成化学書記長らが渡航申請を行ったのだった。

ヤミ・ルーブル紙幣の話が流れ出したのもこのころであった。

話は前後するが、さる二十九年十月十日と十七日とに、話題の二人の人物が相次いで帰国してきた。帰国してきたといっても、彼らは日本人ではなく中国人である。二人の中国人の帰国(?)が、果して日本にどんな波紋をひき起すのだろうか。

その一人、林炳松氏は台湾出身の国際新聞社長(大阪)松永洋行社長(東京)という実業人であるばかりでなく、元日中友好協会副会長、現同理事兼財務委員という肩書の人。もう一人はさる九月はじめ北京で開かれた中共の全国人民代表大会代表として、在日華僑の中からただ一人選ばれた東京華僑総会々長の康鳴球氏である。

中国人が日本に香港から帰国するという表現はいささかオカシイのであるが、それほどこの両氏は日本に根をおろした生活であり、それゆえにこそ問題なのである。康氏の場合はさておいて、ここでは財界と関係深い林氏についてみてみよう。

林氏は〝地下中共大使館の財務官〟といわれるだけあって、日中、日ソ貿易には重要な人物

である。そしてそれだけに、いろいろと神秘的な情報につつまれた怪人物である。某治安当局の得た情報に『ルーブル謀略の林炳松』というのがある。つまりルーブル紙幣を大量に日本国内に持ちこんで、ドルと喧嘩をさせようという経済謀略である。

これは大変な話である。日本国内のドルを吸いあげて、現在のドルなみにルーブル紙幣の価値を高めようというのだから、裏付けがなければならない。これが日中、日ソ貿易である。

このような時期にヤミルーブルの話が、ひそかに業者の間に流れはじめた。果して事実かどうか、また米貨圧迫と経済攪乱のためのデマか、当局ではついに確認し得なかったが、このルーブル騷動の中心人物が林氏だと伝えられている。

二十七年の正月ごろ、北海道へ密航してきた一機帆船(ソ連の潜艦から積みかえたのだともいう)が、三十五梱の荷物をあげた。これが全部ソ連のルーブル紙幣で、一九四七年幣制改革以後のものだという。

これを知った阪神方面の第三国人(これが林氏ではないかともいう)が、大思惑を決意して大量に買占めだしてから、急激に需要が増えてきてドル五ルーブル(レートではドル四ルーブル)という相場で、日本人ヤミ屋までルーブル買をはじめるという騒ぎになった。

日ソ貿易に熱心な一流商社でも懸命に買漁ったそうで、用途は思惑買のほか、天津、大連な どに送って、中共治下では安い貴金属、宝飾品を買集めるとか、樺太炭やパルプの取引で某社などは現地へ社員を密航させたりしているので、そのさいの工作用であるとか言われている。

迎えにきたジープ p.094-095 高良女史・ナゾの秘書松山繁

迎えにきたジープ p.094-095 An easily deceived old lady, Tomi Kora, attended the Moscow Economic Conference. However, behind it was Shigeru Matsuyama, an agent.
迎えにきたジープ p.094-095 An easily deceived old lady, Tomi Kora, attended the Moscow Economic Conference. However, behind it was Shigeru Matsuyama, an agent.

二十九年秋の神戸市警の調査によれば、このメムバーも変り、会長はポロシン(洋服地行商)委員としてフェチソフ(洋裁店主)、ベルモント(会社支配人)、ゴロアノフ(拳闘家)、ユシコ

フ(無職)らが幹部になっている。この中で注目されるのはユシコフであって、彼は銀座八丁目の千疋屋二階にあるナイトクラブ「ハト」の経営者であった。

クラブ「ハト」というのは代表部員たちの溜り場のような店で、客のほとんどが外人ばかりである。ラ氏の工作舞台であったろうことも当然考えられようが、何よりもユシコフはこの店で二人の白系露人をかくまい、またしばしば代表部へ出入していたのである。

この二人というのはさる二十六年七月二十九日、北海道宗谷村から漁船を利用して樺太へ密航しようとして逮捕され、二十七年七月末に札幌地裁で講和の大赦で免訴になった、ウラジミール・ボブロフとジョージ・テレンチーフの二人である。

そしてまたこのユシコフとボブロフの二人は、二十八年三月十六日、西銀座のナイトクラブ「マンダリン」で、〝モンテカルロの夜〟という偽装慈善パーティの国際バクチを開帳して検挙された主犯でもある。

講和発効となって日ソの関係はまた新しく展開した。当時の岡崎外相の国会での発言によれば、現在の日ソ関係は、『降伏関係ではなく、独立国としての日本とソ連との休戦関係』である。代表部としては前二期の工作の成果が実って、この時期に備えるのを待っていた。

第三期工作は成果の誕生とその育成が狙いだ。高良とみという、人間の善意しか理解できな

い(?)ような老婦人が、モスクワ会議へ代表となって飛入りしてきたのも幸先が良かった。チョロまかしやすいタイプの人である。まさに鴨が葱を背負ってきたという処であろう。

女史は、ハバロフスク郊外六十キロの日本人墓地に詣で、『緑の若草が萌え、やすらかな雰囲気を感じた』という。何故六十キロも離れた墓地ではなく、同地帰還者のいう同市周辺に無数にある墓地に詣でて、一掬の涙をそそがなかったのだろう。女史がどの程度シベリヤ捕虜問題に正確な知識をもち、どうしてその墓を日本人の墓と確認したのであろうか。平和で安らかな一刻であったろう。

さらにまた女史はシベリヤで将軍に会って、日本人戦犯への慰問袋、文通自由を確認したという。ああ、どうして女史は……と、女史の一挙手一投足に不安と危惧とを感じない者があるだろうか。

だが、この高良女史問題も二十七年八月九日付の読売紙に報ぜられた「ナゾの秘書、松山繁」の記事が述べているように(第二集〔赤い広場—霞ヶ関〕に詳述)それは決して偶然ではない。ソ連の対日工作はつねに一貫して流れているのである。

赤い広場ー霞ヶ関 p.142-143 高良とみのナゾの秘書、松山繁

赤い広場ー霞ヶ関 p.142-143 When Tomi Kora attended the Moscow Economic Conference, a mysterious secretary Shigeru Matsuyama (real name: Michitaro Murakami) accompanied her. Who is he?
赤い広場ー霞ヶ関 p.142-143 When Tomi Kora attended the Moscow Economic Conference, a mysterious secretary Shigeru Matsuyama (real name: Michitaro Murakami) accompanied her. Who is he?

戦後の国際犯罪は思想的、政治的背景をおびて、その規模もいよいよ大きくなり、密航、密

貿、脱税、ヤミドル、賭博、麻薬、売春という〝七つの大罪〟が〝東京租界〟を形造った。国際犯罪はいくら日本国内だけで捜査し検挙しても、決してその根を抜き源をふさぐことはできない。

こうして「高良資金」にはじめは異状な緊張をみせた当局も、香港、パリと舞台が移るに及んで、ついに投げださざるを得なかったようである。

だが、高良女史に関する〝資金〟の情報はまだある。二十七年春、モスクワ経済会議へ出席したときの旅行の費用についてである。時間的経過からいえば、この時の方が先なのであるが、「高良資金」の話の方が、高良女史―SCI—海外(共産圏)旅行―金―高良女史という環状の関係が明らかになるので、話を前後させたのである。

この〝環〟はグルグルと廻っている。廻っているからには中心がなければならない。では、中心とは誰であるか?

村上道太郎という青年である。第一集で述べた通り『高良とみというクエーカー教徒の、人間の善意しか理解できぬような〝善人〟がモスクワ経済会議へ乗込んできた。これはまさにソ連にとってカモネギであった』と、世の〝善人〟たちは思い込んだに違いない。だが、ソ連の時間表は正確である。

村上道太郎という青年の名を記憶している人はあまり多くない。しかし、高良とみ女史のナゾの秘書松山繁氏を覚えている人はいるだろう。松山繁は村上氏のペンネームなのである。

二十七年四月五日、ヘルシンキからモスクワ入りして、戦後訪ソ第一号となった高良女史は経済会議ののちにシベリヤ、北京などを訪問した。その間、日本人墓地の参拝、戦犯への文通送金の自由の報道、日中貿易協定の調印、婦人の反戦の放送など、数々の話題をまき起して七月十五日単身帰国、熱狂的歓迎をうけるとともにジャーナリズムの花形となった。まさに得意の絶頂であった。

ところが、その得意の絶頂の歓喜の中で、時たま女史を襲う不安、寂寥、懐疑、恐怖などといった「不愉快な感情」があり、女史はそれに悩まされなければならなかったはずである。これは私が女史に会って、その秘書村上氏のことに触れたとき、端的に表現された感情と言葉とから、私が判断したことである。それほど、村上氏について訊ねられることを嫌っていたのだが、得意の絶頂を与えたソ連旅行と村上氏とは、切っても切れない関係だから、ソ連旅行の想い出は同時に村上氏への想い出だからである。だが、その〝傷口〟にさわられる時はついに来た。意地悪な治安当局の情報分析者(アナリスト)がフト抱いた単純な疑問が端緒であった。彼は女史関係の資料の整理をしているうちに、外電の伝えた「同行の秘書松山繁」なる人物が、いつの間にか 消えてしまったことに気付いたのである。