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迎えにきたジープ p.092-093 日本経済界の地ならし工作

迎えにきたジープ p.092-093 The Kobe Soviet Committee, which was a substantive Kansai branch of the Soviet representative, took steps to capture the Kansai business world in Japan. According to the 1954 Kobe Police Survey, Chairman Poroshin and the members were Yushkov and others.
迎えにきたジープ p.092-093 The Kobe Soviet Committee, which was a substantive Kansai branch of the Soviet representative, took steps to capture the Kansai business world in Japan. According to the 1954 Kobe Police Survey, Chairman Poroshin and the members were Yushkov and others.

大きくいえば、前述の経済、文化工作も政治工作に入るだろうし、現象面に現われてくる事実も何工作と分類できないものが多い。ここでは気にかかる事実を並べてみよう。

1 代表部では二十一年三月に鎌倉市材木座一二四高島直一郎氏所有の洋風平屋建一戸をアジェフ・ニコエフ名儀で買収、さらに二十三年に同町一二七八徳川義親氏邸を買収しようとして、総司令部に止められていたものを、二十一号館を返還した昨夏再び同家に働きかけ、日本人名儀で買取り同人を留守番として住まわせている。

2 この時期に通商代表部は多額の金を某銀行から引出している。

3 メーデー騒じょう事件で、俄然注目を集めた二名の怪外人(藤川アンナ女史でない)のうち一名は、青島より戦後入国した白系露人、他の一名はシベリヤで捕虜に日本語新聞を発行していたコバレンコ中佐で、タス通信記者を装って入国したとみられている。しかも両名は日共関係集会に常に姿をみせている。

4 図書、酒、食料品などの秘密移動市場が都内の空倉庫で開かれ、党員など関係者が只同様に買取って解散する。彼らはそれを高く転売して活動資金としている。

5 食料品、酒はソ連帰還者や第三国人の経営するレストラン、バー、ナイトクラブに送られる。白系露人の多く出入するクラブや喫茶店が増えてきている。渋谷のR、銀座のH、新橋のT、上野のLなど

6 国際ヤミ商人で有名な米人の経営するR店にはこの時期に代表部職員だった白系露人が入社している。

7 代表部の乗用車が都内および三鷹、立川、青梅などの近郊五コースを無停車で走り廻り、しかも一

定地点で必らず超短波無線連絡をとっている。

第一期工作の平静さに比べて、この第二期工作は、眼まぐるしいほどの事件が起きている。しかもその前期は隠密工作で、後期は前期の反動心理を利用した煽動工作である。第二期はこのモスクワ会議で終了し、その目的を達して成功したとソ連側ではいっている。

この間にソ連側が得た最大のものは、各種財界人の色分けが明らかとなり、日本の各個人、各商社の情報資料を入手して全く確認し得たことだ。これは次期(第三期)工作の重要な基礎資料であって、これをすべて握ったことはソ連側として最大の収獲であり、また同時に日本経済界の地ならし工作の成功といえる。

この方面の情報によるとソ連側が最も興味を持っているのは、さきにも述べたように関西財界である。関西財界を思うツボに引ずり込んだ功績は、神戸市生田区山手通二のコウべ・ソヴェト・コミッティだ。ここは元来、経済、文化関係のクラブで、委員長グロレフスキー(二十六年十一月死亡)委員ジム・グロレフスキー(代表部書記、父委員長の死後その跡を継いだ)同キシコフらが仕事を担当、実質的には代表部の関西支部となっている。

二十九年秋の神戸市警の調査によれば、このメムバーも変り、会長はポロシン(洋服地行商)委員としてフェチソフ(洋裁店主)、ベルモント(会社支配人)、ゴロアノフ(拳闘家)、ユシコ フ(無職)らが幹部になっている。

赤い広場ー霞ヶ関 p.102-103 高毛礼は二百三十五万円を受領した

赤い広場ー霞ヶ関 p.102-103 Developed from the Rastvorov incident to a more extensive the Soviet Union's investigation of the red spy network in Japan.
赤い広場ー霞ヶ関 p.102-103 Developed from the Rastvorov incident to a more extensive the Soviet Union’s investigation of the red spy network in Japan.

車内での私の取材が始まった。取材の大半が終わったとき、私は名刺を出して記者であることを告げたのだった。

当局では彼女を高毛礼氏関係のドルの裏付捜査の参考人として、任意出頭を求めて取調べていたのであった。私はこうして、はしなくも彼女によって、もはやラストヴォロフ事件と呼ぶのには相応しくない、大規模な在日赤色スパイ網の捜査に手をつけている、当局の姿をチラリと覗いたのである。

つまりラ事件捜査の経過から、在日赤色諜報謀略網の徹底的摘発を決意した当局では、これらぼう大な組織のうち、ラストヴォロフ政治部中佐担当のスパイ線は、おおむね捜査を終り第二段階へ移った。すなわち、ラ氏自供にもとづいて検挙した高毛礼氏の背後関係から、他のソ連代表部員担当の、各スパイ線捜査へと進行していたのである。

三十年二月十一日に東京地裁で開かれた、同氏の第三回公判における、検事の冒頭陳述をみてみよう。(同日付読売、毎日新聞)

一、高毛礼被告がソ連に接近した事実=二十四年新潟市内新潟鉄工で、ソ連向け貨車数十輛の検収が行われた際、ソ連通商代表部員シュチュルバコフと知り、ソ連に親近感を抱いていた被告は、自分の退官の際ソ連人から便宜を受けようと、ソ連通商代表部に自らすすんで二十五年三、四月ごろ訪ね、ソ連在日代表部員の一員であるコチエリニコフと知り、ひそかに同人を介し、麻布狸穴のソ連在日代表部を訪ねた。

二、スパイ活動=①対ソ協力者としての誓約――二十五年十二月ころ旧在日ソ連代表部に行き、ソ連に忠実に協力して特務情報活動を行うむね誓約、特務情報活動に関する被告の番号名がエコノミストとされた。②その内容――外務省事務官として職務上入手可能な日本政府の秘密資料の内容を、ソ連のため在日特務情報機関に知らせること。③報酬と資金――二十六年一月から二十八年七月までの間、スパイ活動の報酬として、月五千円から二万五千円の定期的給与計五十八万円を受けたほか、特務情報活動用のカメラ、ラジオ受信機などの購入設備資金として数回にわたり、二十二万円、さらに二十七年二月四千ドル(百四十四万円)など総計二百三十五万円を受領した。

④スパイ活動の一般的経過――指示された方法で、毎月一、二回東京都港区芝御成門都電停留所付近、千代田区大手町常盤橋公園ほか数ヶ所の街頭を連絡場所として、二十六年一月から二十七年夏まではポポフ、二十八年末まではクリニッチンと連絡をとり、外務省資料を手渡したが、現在では特定しがたいほどの多数に及んでいる。⑤対日平和条約直前、同被告がスパイ活動のため特別な任務と訓練を受けた事実――二十七年一月から九月まで三回にわたり、コチエリニコフから代表部に呼ばれ、対日講和条約の発効に伴い、特務情報機関が日本を引揚げる場合、同被告がソ連のためスパイ活動を引続き行う任務を受け、暗号表とその解読方法、ソ連放送の聴取方法、マイクロ写真技術などスパイ活動に必要な訓練を受けた。