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最後の事件記者 p.142-143 オレ。結婚一週間目なンだ。

最後の事件記者 p.142-143 女と二人だけになった時、戦後はじめての、遊廓ではない赤線という名に変ったオ女郎屋風景に、私は物珍らしくアチコチ眺めていた。
最後の事件記者 p.142-143 女と二人だけになった時、戦後はじめての、遊廓ではない赤線という名に変ったオ女郎屋風景に、私は物珍らしくアチコチ眺めていた。

残した母親のことは、他の息子にまかせればよい。何の系累もなくて、私は自分のことだけを

考えればよい、気楽な気持だった。その女性とは、せめて一日でも、結婚してから出征したいとは思ったが、戦死者の妻にするのが可哀想だったのである。

どうして、そんなに私が〝人恋し〟かったのだろうか。私の希望は、私の子供に、私が子供の時に与えられなかった父親の愛情を、それこそフンダンに、惜しみなくそそいでやりたい——そんな、平和な家庭を作りたいと、幼年のころから考えていたからだった。

それを、今やキッパリとあきらめて、兵隊になったのだった。だが、幸か不幸か、私は生きて帰ってきて、新聞記者にもどったのである。そして、第一にみたされなかった幸福の夢——家庭をもって、人の子の父となることを考えたのであった。

戦争と捕虜を通して、私は自分の生命力と生活力とに自信を抱いた。戦争で死んだ男たちをみると、運命といったようなものを信ぜざるを得なくなってくる。死ぬ奴は死ぬべくあった、と思われるフシがあるのだった。

そこで結婚して、子供を計画出産するようにしたのである。だが、そのころから、私の新聞記者としての打込み方が、少し異常になってきたのであった。〝ニュースの鬼〟になったのであった。当然、家庭の夫として、父としての理想像からは、かけ離れてくるのだった。ことに、危険

を覚悟の上で、体当りに仕事にぶつかってゆく取材態度は、私の経験則の父親の責任「人の子の父は、子供が巣立つまで健康であらねばならない」と、相反するのであった。

結婚前の私は、そんな家庭の理想を、妻に語ったりしていたのだ。だから、戦争前には放埒の限りを尽した私も、軍隊と捕虜とで、身も心も洗われた気持(実際もそうであった)で帰ってきて、同僚の誘惑にも負けず、キレイナ身体で結婚に入った。

結婚して一週間目の夜、同僚のH、S両記者と祝盃をあげた。呑むほどに酔うほどに、独身の両記者はヤリ切れなくなったらしい。ついに三人は、小岩の東京パレスという赤線に沈没してしまった。私をどうしても、二人が釈放してくれなかったのである。「オレたちの身になってみろ」というのが、その口説だった。

女と二人だけになった時、戦後はじめての、遊廓ではない赤線という名に変ったオ女郎屋風景に、私は物珍らしくアチコチ眺めていた。つい思い出して、私は女に懇願した。

『実は、オレ。結婚一週間目なンだ。だから、いいだろ?』

戦前の遊廓であったら、こんなことは女にとっての最大の侮辱で、許さるべきことではなかったのである。だが、そこは戦後派だ、いとも簡単に許してくれた。

p56下 わが名は「悪徳記者」 東京租界と王長徳

p56下 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 私の代表作品の一つに、昭和二十七年十月二十四日から十一月六日までの間、十回にわたって連載された「東京租界」の記事がある。
p56下 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 私の代表作品の一つに、昭和二十七年十月二十四日から十一月六日までの間、十回にわたって連載された「東京租界」の記事がある。

左翼ジャーナリズムは、私を「反動読売の反動記者」と攻撃したが、これは必ずしも当っていない。〝私はニュースの鬼〟だっただけである。

私はニュースの焦点に向って、体当りで突込んでいった。私の取材態度は常にそうである。ある場合は深入りして記事が書けなくなることもあった。しかし、この〝カミカゼ取材〟も、過去のすべてのケースが、ニュースを爆撃し終って生還していたのである。今度のは、たまたま武運拙なく自爆したにすぎない。

そろそろ、手前味噌はやめにして、私の〝悪徳〟を説明しなければなるまい。

まずそのためには、王長徳という中国籍人と、小林初三という元警視庁捜査二課の主任を紹介しよう。この二人も、小笠原の犯人隠避で、八月十三日逮捕されている。

私の代表作品の一つに、昭和二十七年十月二十四日から十一月六日までの間、十回にわたって連載された続きもの「東京租界」の記事がある。これは、独立直後の日本で、占領中からの特権を引き続き行使して、その植民地的支配を継続しようとした、不良外人たちに対し、敢然と打ち下ろした日本ジャーナリズムの最初の鉄槌であった。 原四郎部長の企画、辻本芳雄次長の指導で、流行語にさえなった「東京租界」というタイトルまで考え出し、取材には私と牧野拓司記者とが起用された。牧野記者は文部省留学生でオハイオ大学に留学したほどの英語達者だったので、良く私の片腕になってくれた。