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編集長ひとり語り第3回 「箸の文化」が衰えはじめて…

編集長ひとり語り第3回 「箸の文化」が衰えはじめて… 平成11年(1999)3月27日 画像は三田和夫38歳(ミタコン時代 銀座か赤坂か不明)
編集長ひとり語り第3回 「箸の文化」が衰えはじめて… 平成11年(1999)3月27日 画像は三田和夫38歳(ミタコン時代 銀座か赤坂か不明)

■□■「箸の文化」が衰えはじめて… ■□■第3回■□■ 平成11年(1999)3月27日

中国、朝鮮、日本をつないでいた「箸の文化」がアメリカ外食産業の進出で(ハンバーガー等)で、衰えはじめている。適量の食物を箸でつまんで口へと運ぶ——これは、いろんな効果をもたらしていたものだ。第一に礼儀であろう。最近のテレビCMで、お茶漬け屋で下品な男がドンブリ飯を掻きこむ下品さが、それを象徴している。CMでは箸は使っているが、スプーンで十分だ。

第二に咀嚼、即健康である。日本での戦後五十年。学校給食がスプーンを普及させたところで、ハンバーガーに食らいつきフライドチキンを放りこむ。だから、日本には、オチョボ口の女がいなくなった。噛まないから、アゴが小さくなり、乱杭歯ばかりになった。中国での美人の条件は「明眸皓歯」だが、そんな女は日本では数えるほどになり、同じ化粧の、同じ髪形の、同じ顔の女ばかりが街を横行している。もう、オチョボ口の女は、中国か韓国にしかいない。日本は乱杭歯の大口女ばかりのようだ。

先ごろ、新聞のコラムに、日本での洋食のマナーで、フォークの背(丸くなってる部分)に米飯を乗せて食べるのはオカシイとあったが、明治、大正期に、箸の文化に心を使う人たちが、少量しか米飯をのせられない、あのスタイルを“洋食のマナー”としたのだろう。ライスを添えるのは日本だけだから…。

白人女の口はバカでかい。だから、クリントンのオーラルセックスも可能だ。日本の春画には、そんな図柄を見たことがない。オチョボ口の時代だったからだ。上海でのアメリカ外食産業の繁盛を見ると、やがて中国でも「箸の文化」が衰えるかも…。韓国では若い世代は箸も使えない、と新聞にあった。 平成11年(1999)3月27日

編集長ひとり語り第26回 アメパンという言葉について

編集長ひとり語り第26回 アメパンという言葉について 平成11年(1999)8月25日 画像は三田和夫38歳(ミタコン時代 1959)
編集長ひとり語り第26回 アメパンという言葉について 平成11年(1999)8月25日 画像は三田和夫38歳(ミタコン時代 1959)

■□■アメパンという言葉について■□■第26回■□■ 平成11年(1999)8月25日

フト、50年も前のことを思い出した。いまの読者には、想像もつかない時代と現象は、やはり、興味のあることではないだろうか。

50年前といえば、昭和24年——昭和22年10月に、2年にわたるシベリア捕虜から生還、その年の11月には、読売新聞社社会部記者に、復職していた。23年早春には、サツ廻り(警察署担当)として、上野署、浅草署を受け持っていた。上野署が中心だった。

というのも、そのころは上野駅とその地下道の時代だったからである。家出少年と家なき児たち。子供ばかりか、女も、大人の男も、上野を目差して集まってくる。上野に行けば、なんとか食べ物にありつけるのだ。そして同時に犯罪の温床でもあった。

まだ“女郎屋”とも呼ばれた売春業者の「遊廓」が、公然と営業していた。日本で売春防止法が成立して、施行されたのは、昭和33年からである。それまでは、売春は公然たる女性の職業だったのだ。警察が地図に赤線で囲ったのが「赤線」で、ここでは週1回“検梅(けんばい)”という、性病検査があった。伝統的な遊廓地帯を赤線と呼んでいた。それに対して青線で示したのが「青線」で、ここは非公然売春地帯だったから、検梅はなかった。

赤線、青線ともに業者がいて、前貸金で女性を束縛していたから、当然の結果として、自主売春の女性たちも現れた。これらを総称して「パンパン」といった。この語源には諸説があるが、占領軍である米兵たちが、性行為の音声的表現として、両手でパンパンと音を発して、セックスを求めたからというのが妥当であろう。

このパンパンたちも3種に分類されていた。日本人専門と米兵専門、さらにどちらでもOKというもの。米兵専門では、白人専門と黒人専門、さらにどちらでも、というものがあった。上野駅周辺は、このパンパンたちのメッカであったから、サツ廻り記者としてはそれらのボス(もちろん女性)たちとは、毎日顔を合わせて、情報源とするのだった。上野駅からスタートしたパンパンたちは、やがて有楽町駅のガード下から新橋へと、ひろがっていった。ことにアメパン(米兵専門パンパン)は、そちらへ移っていったが、発祥地は上野である。オカマ(ゲイを含む)も上野だ。

赤線、青線は管理売春だから、店の経営者が責任を持つ。遊廓らしい伝統的なしきたりが、彼女たちを縛りつけていたから、衣類や財布の盗難紛失などの不安はなかった。だが、パンパンは街頭での出会いだけだから、旅館やホテルで泊まるとなると、心は安まらないのだ。従ってチョンノマという時間売春が中心になってくる。

ある夜、私は顔見知りのパンパンに、「お茶ッ引き(客なし)で困っている」と頼まれて、同宿するハメになった。浴衣に着替えてから、服や所持品が不安だったので、まとめて宿の帳場に預けに行った。すると裏階段から降りてきた私の相手のパン嬢も、バッグから服のすべてを預けにきて、帳場でバッタリと顔を合わせ、大笑いしてしまったこともある。寝ている間に持ち逃げされる不安が、双方にあったということだ。

アメパンのひとりと話をしていた時、彼女が「ターザン」(同名の米映画があった)という。映画の話かと思ったら、「ツー・サウザンド」(2千円)という売春代金の話だった。日本人専門のパンパンとは言葉も通じるし、日本人同士の習慣も共有できるが、アメパンとなると第一に言葉が通じないし、客の争奪戦もすさまじい。だから、アメパン同士の罵り合いの物凄さは筆舌に尽し難いほどだ。

ある女性が、少年野球の子供たちに対して浴びせかける罵声の物凄さは、その年齢の普通の女性たちが、口にできないような言葉の連発である。私は、その場面のテレビを見ていて、50年も昔の思い出を呼び醒まされたのだった。 平成11年(1999)8月25日

編集長ひとり語り第38回 新聞がそこまでやるかね?!

編集長ひとり語り第38回 新聞がそこまでやるかね?! 平成12年(2000)6月4日 画像は三田和夫38歳(ミタコン時代 1960年ごろ)
編集長ひとり語り第38回 新聞がそこまでやるかね?! 平成12年(2000)6月4日 画像は三田和夫38歳(ミタコン時代 1960年ごろ)

■□■新聞がそこまでやるかね?!■□■第38回■□■ 平成12年6月4日

自民党には、四月会と呼ばれるグループがある。そのリーダーのひとりが、新潟比例区(正確には北陸信越ブロック)の白川勝彦(当6)で、新潟県警の腐敗摘発のキッカケになった、交通違反モミ消しの標的にされた。というのも、四月会は反創価学会(同時に公明党批判)の集まりだから、白川が狙われたのだ。チックリ(密告)したのは創価学会だという“噂”が流れたほどだった。

白川と同様に、四月会で頭角をあらわしてきたのが平沢勝栄(当1)である。10チャンネルの「朝生」の常連にもなって、政教分離を唱えて注目されていた。警察官僚出身で、先輩の亀井静香の子分、亀井のパチンコのプリペイドカードの立案者ともいわれ、大先輩の後藤田正晴⇒先輩の亀井⇒平沢と、パチンコ業界献金の上納ルートだ、といわれていた。

サテ、毎日新聞は子会社で聖教新聞の印刷を請け負い、池田大作著作の特別広告をもらう、という関係だから、この四月会の記事は一行も書かないほど創価学会に気をつかっていた。

ところが、その既得権益に読売新聞が割り込んできたのである。学会にしてみれば、300万部新聞の毎日より、自称1000万部の読売のほうが、影響力があると考えた。読売に対抗できる朝日新聞には、学会がスリ寄るスキがない。そこで、読売に公明新聞だかの印刷を発注し、特別広告も出してきた。だが読売は、四月会の記事など、大きく書いたりする“作戦”で学会にブラフをかけたりしていたのだった。

お話は変わって、平沢と亀井の仲が、最近は良くなくなってきている…という話が、永田町で取り沙汰されていた。そんなことあるものか、と私はハナ先で笑っていたのだが、衆議院の解散、総選挙となった2日、なんと平沢が自民党の公認が取れず、無所属で出馬か、というニュースが流れてきた。亀井政調会長というバックを失った平沢は、野中という“公明党利用”の幹事長のもとでは公認が取れないのも当然と、不仲説にうなずけたのである。

6月3日付の読売朝刊。社会面のトップは、野中幹事長の前で平身低頭する平沢と、それを傍らで眺める森首相の写真だった。野中は「関係者にご迷惑をかけたことを、深くお詫び申し上げる、という詫び状が出されたので公認した」と、記者発表した。当選6回、73歳で幹事長なのだから、当選1回、53歳、無役の平沢が野中に礼を尽くすのは当然だ。しかし、この“平身低頭”の写真は、平沢にとって終生忘れ得ない屈辱の場面であろう。涙なくして正視でき得ない…。

いうなれば、自民党内の反学会派ツブシである。その片棒を読売新聞が担いでいるのである。創価学会に文句をいう奴は、こうなるのだゾ! と、池田大作が嘲っている——。

蛇足だが、同日付の産経と毎日にだけ、「読売社長が自宅で転んで骨折入院した」という小さな記事が出ていた。警察官僚の大々先輩の故正力松太郎(読売社主だった人)が、平沢をあわれんで、ナベツネに「ゴマスリはやめろ」と注意を与えたのかもしれない。 平成12年6月4日

編集長ひとり語り第42回 野中のボキャブラリー

編集長ひとり語り第42回 野中のボキャブラリー 平成12年(2000)6月27日 画像は三田和夫38歳(ミタコン時代 溜池のオフィスか1959)
編集長ひとり語り第42回 野中のボキャブラリー 平成12年(2000)6月27日 画像は三田和夫38歳(ミタコン時代 溜池のオフィスか1959)

■□■野中のボキャブラリー■□■第42回■□■ 平成12年6月27日

総選挙が終わった——自公保が約40議席を減らしたことは、まだ物足りないが、マアマアとしようか。ただ、残念としかいえないのが、野中幹事長の命運をかけた「自民229」のラインを、わずかだが超えたことである。

野中はいった。「自民229を割ったら、幹事長として責任を取る。退路を断ったのだ」と。投票日の25日の新聞に出ている。さらに26日の朝刊。公明、保守に対する選挙協力が機能しなかったことで、また、いった。「万死に値する」と。

退路を断った。万死に値する。この2つの言葉の使い方は、まことにオカシイ。自民が229議席を取れなかったら、「退路を断って」幹事長としての責任を取る——幹事長として責任を取ることが、どうして退路を断つことになるのか。数日前の新聞に、幹事長をやめて、行革本部長をやりたいと、“放言”したことが報じられていた。229取れなかったら政治家をやめます、というのなら、退路を断つことにもなろうが、衆院議員のままで役職を変わることは、退路を断つにはならない。

この言葉、先の都知事選で、柿沢とかいうオポチュニストが、議員をやめる時に使った言葉だ。その柿沢は、チャッカリと今回出馬して、当選してしまった。呆れた奴であるし、それに投票した奴の顔が見てみたい。

もうひとつの「万死に値する」は、岩瀬達哉の力作「ドキュメント・竹下登 われ万死に値す(政治家・竹下登の『深き闇の世界』)」が、99年9月に発刊されたのだが、さきごろ、本人が亡くなったので、新聞報道でこの本が取り上げられ、題名が記載された。

つまり、野中のボキャブラリーは、新聞の見出しを失敬する程度で、彼の知性のほどが分かろうというもの。私が開票速報をハラハラしながら見つづけて、徹夜してしまったのは、自民が229を割った時の、野中の出処進退(出=官職につくこと。処=民間にいること。)を見たかったからである。

かつて、小沢一郎を悪魔とののしりながら自自公の時には「土下座して」と、豹変する野中の政治姿勢の、新しいサンプルが見られる期待があったのだ。言葉の貧しさといえば森首相もまた、野中に負けず劣らずである。さる6月12日、森は記者クラブの会見で、「(みなさんに)お訴えして…」といった。「訴える」という動詞の趣旨からして、「お」という美称や敬称がつけられる必然は、まったくないのである。

私の中学時代、「おニュー」という言葉があった。運動靴や服、シャツなどの新品を身につけると、英語のニューに、羨望や、揶揄をこめて、美称の「お」をつけて、「おニュー」といって、はやし立てたものである。英語のニューに、日本語の“お”をつけることは、デタラメもいいところで、軽蔑感を端的に表現したものである。なにしろ、旧制高校のダンディズム「弊衣破帽」が横行していた時代だから、新品を身につけることは、「おニュー」として、揶揄されるのである。

森の一連の失言はここにあげつらうこともなかろうが、自分の存念に理解を求めることを「訴える」のに、「お」をつければ、理解してもらうのにプラスだと考えたのか? リーダーの不可欠要件である「教養」が、まったく感じられないこの2人である。

今の自民党を牛耳っているのは、鈴木宗男党総務局長⇒野中幹事長⇒亀井政調会長のラインと、古賀国対委員長、村上参院議員会長、青木官房長官らのグループである。これらの連中の顔、面構えをトクとご覧あれ! 「教養」とは無縁の顔だ。

7月上旬には、新内閣がスタートする。その時にどんな人事になるか、見ものである! 平成12年6月27日