一枚ペラの新聞」タグアーカイブ

事件記者と犯罪の間 p.162-163 私を「反動読売の反動記者」と攻撃

事件記者と犯罪の間 p.162-163 警視庁公安部の一、二、三課担当ということになる。一課の左翼、二課の右翼、三課の外人である。私は公安記者のヴェテランとなり、読売のスター記者の一人に数えられるようになっていた。
事件記者と犯罪の間 p.162-163 警視庁公安部の一、二、三課担当ということになる。一課の左翼、二課の右翼、三課の外人である。私は公安記者のヴェテランとなり、読売のスター記者の一人に数えられるようになっていた。

「キミ、そんなバカな。この忙しい世の中に、軍隊友達というだけで、そんなことを引受けるものがいるかネ。ヤクザじゃあるまいし」
新井さんには私は面識がなかった。しかし、彼の部下で新井さんを尊敬している警察官が、私

と親しかったので、噂はよく聞いて知っていた。会ったところも、品の良い立派な紳士である。だが、残念なことには、新井さんには、こんな深い相互信頼で結ばれた友人を持った経験がないのではなかろうか。ヤクザの「ウム」とは全く異質の、最高のヒューマニズムからくる相互信頼である。私は出所後に風間弁護士のところで塚原さんに会った。私はペコリと頭を下げて、どうも御迷惑をかけて済みませんでしたと、謝ってニヤリと笑った。彼もまたニヤリと笑って、イヤアといった。そんな仲なのである。

話が横にそれてしまったが、こうして、私は人間としての成長と、不屈の記者魂とを土産に持って社に帰ってきた。

私の仕えた初代社会部長小川清はすでに社を去り、宮本太郎次長はアカハタに転じ、入社当時の竹内四郎筆頭次長(現報知社長)が社会部長に、森村正平新品次長(現報知編集局長)が筆頭次長になっていた。昭和二十二年秋ごろのことだった。

過去のない男・王長徳

帰り新参の私を、この両氏ともよく覚えていて下さって、「シベリア印象記」という、生れてはじめての署名原稿を、一枚ペラの新聞の社会面の三分の二を埋めて書かせて下さった。この記事はいわゆる抑留記ではなく、新聞記者のみたシベリア紀行だった。その日の記事審査委員会日報は、私の処女作品をほめてくれたのである。

この記事に対して、当時のソ連代表部キスレンコ少将は、アカハタはじめ左翼系新聞記者を招いて、「悪質な反ソ宣伝だ」と、声明するほどの反響だったが、やがて、サツ(警察)廻りで上野署、浅草署方面を担当した私は、シベリア復員者の日共党本部訪問のトラブルを、〝代々木詣り〟としてスクープして、「反動読売の反動記者」という烙印を押されてしまった。

私は日共がニュースの中心であったころは、日共担当の記者であり、旧軍人を含んだ右翼も手がけていた。それが、日本の独立する昭和二十七年ごろからは、外国人関係をも持つようになってきた。つまり警視庁公安部の一、二、三課担当ということになる。一課の左翼、二課の右翼、三課の外人である。私は公安記者のヴェテランとなり、調査記事の専門家であり、読売のスター記者の一人に数えられるようになっていた。

左翼ジャーナリズムは、私を「反動読売の反動記者」と攻撃したが、これは必ずしも当っていない。私は〝ニュースの鬼〟だっただけである。

私はニュースの焦点に向って、体当りで突込んでいった。私の取材態度は常にそうである。ある場合は深入りして記事が書けなくなることもあった。しかし、この〝カミカゼ取材〟も、過去のすべてのケースが、ニュースを爆撃し終って生還していたのである。今度のは、たまたま武運拙なく自爆したにすぎない。

そろそろ、手前味噌はやめにして、私の〝悪徳〟を説明しなければなるまい。

まずそのためには、王長徳という中国籍人と、小林初三という元警視庁捜査二課の主任を紹介

しよう。この二人も、小笠原の犯人隠避で、八月十三日に逮捕されている。

最後の事件記者 p.076-077 『ウン、つまらんね』

最後の事件記者 p.076-077 一枚ペラ(新聞一頁)の新聞だというのに、裏の社会面の三分の二を埋めて、私のはじめての、署名原稿が、デカデカと出ているではないか。
最後の事件記者 p.076-077 一枚ペラ(新聞一頁)の新聞だというのに、裏の社会面の三分の二を埋めて、私のはじめての、署名原稿が、デカデカと出ているではないか。

東京に帰りついた翌日、私は出社した。二年間の捕虜生活も、新聞記者にもどったよろこびで、身体は元気一ぱい、何の疲れもなかった。竹内部長はきさくに片手をあげて、編集の入口でマゴついている私を呼んだ。森村次長が早速いった。

『何か書くかい? 書けるかい?』

『エー、もちろん、書かせて下さい』

森村次長は、捕虜から帰ったばかりの私が、使いものになるかどうかみようと思ったらしい。私はその日帰宅すると、徹夜でシベリヤ抑留記を書いて持っていった。

『ウン、つまらんね』

軽くイナされてしまった。私は実のところ、何を書いていいか判らなかったのだ。森村次長は、ただ「書くかい?」といっただけ、私は心中腹を立てて、その原稿を取りもどすと、またその夜も徹夜した。今度は、新聞記者のみた、シベリヤ印象記を書いた。

『ウン、これなら使える。御苦労さん。しばらく、挨拶廻りもあるだろう。休んでいいよ』 やっと、ネギライの言葉がもらえた。

数日後、私は郷里の盛岡で、驚きと感激に胸をつまらせながら、読売新聞をみつめていた。一

枚ペラ(新聞一頁)の新聞だというのに、裏の社会面の三分の二を埋めて、私のはじめての、署名原稿が、デカデカと出ているではないか。その記事を読みながら、私は涙をポトポトと、紙面に落した。

——生きていてよかった。兵隊も捕虜も、この日のための苦労だったのだ。

しみじみとした実感だった。あの玉音放送の時の、躍り上らんばかりのよろこび、「またペンが握れる」が、咋日のように、胸に迫ってきた。

署名入り処女作

昭和二十二年十一月二十四日(月)

抑留二年、シベリア印象記

本社記者 三田和夫

ナゾの国ソ連と呼ばれた通り、この国で見たもの聞いたものには、ついにナゾのままで終ったことが多かったが、うかがい得た限りでは、いろいろと興味あることばかりであった。入ソした われわれは、いたるところで大歓迎をうけた。というのは、列車が停るたびごとに、食料品や煙草を抱えた人々が押しよせてきて、物交をせがんだのだった。