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雑誌『キング』p.103下段 幻兵団の全貌 アカハタの反ばく

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.103 下段
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.103 下段

府特別審査局などの関係当局の政府委員を、参議院引揚特別委員会によび、説明を求めるにいたった。

これらの動きに対し、日本共産党機関紙『アカハタ』は、八回ほども連続して大きな紙面をさき、〝ブル新(ブルジョア新聞の略)の反ソデマ〟と反ばくした。こうして読売新聞がスクープした『ソ連抑留日本人のソ連スパイ組織』の問題は、国会にまで持ち込まれる重大問題化するとともに、商業新聞対機関紙の論争をまき起こしたのだった。

問題の焦点は、『ソ連に抑留された日本人が、ソ連の利益のために、在ソ間及び日本帰還後に、諜報行為を働く組織』が有るか、無いか、であって、〝幻兵団〟の有無ではない。読売新聞は、〝幻兵団〟というジャーナリスティックな呼び方をしているが、これはいわゆる〝幻兵団〟であって、〝幻兵団〟と名付けられた組織はないのである。

果たしてそれでは『ソ連スパイ網』があるかどうか。

私はここに『有り』と断言し、アカハタ紙の反ばくぶりを笑うものである。

私は読売新聞社会部記者として、二年半にわたる長期間の調査に、忍耐と努力とを傾けて、この恐るべき事実を握った。今ここに、一切の

最後の事件記者 p.450-451 同じ遊軍に辻本芳雄氏がいた

最後の事件記者 p.450-451 カストリ雑誌全盛のころ、私が「夫婦雑誌」というのに内職原稿を書いているのを知った辻本さんは「オイ。ヘンなものは書くなよ。筆が荒れるゾ。新聞記者は、後世に残るものを書くんだ」と
最後の事件記者 p.450-451 カストリ雑誌全盛のころ、私が「夫婦雑誌」というのに内職原稿を書いているのを知った辻本さんは「オイ。ヘンなものは書くなよ。筆が荒れるゾ。新聞記者は、後世に残るものを書くんだ」と

あとがき

いま、こうして、私の新聞記者としての、ひとつの区切りに立って、いったい、現在の私の人格形成に、どんな人たちが影響を与えて下さったか、について、考えてみた。

記者としては、三人の先輩が挙げられる。昭和二十二年秋、シベリアから復員して、帰り新参の私が、社会部遊軍に戻った時、同じ遊軍に辻本芳雄氏がいた。

カストリ雑誌全盛のころで、私が、「夫婦雑誌」というのに、内職原稿を書いているのを知った辻本さんは、「オイ。ヘンなものは書くなよ。筆が荒れるゾ。新聞記者というのは、後世に残るものを書くんだ。単行本としてまとめられる、〝専門分野〟を持つのだ。物書きなんだから、著書の二冊や三冊は出版できなきゃ……」と、忠告して下さった。

当時の社会部長で、報知新聞社長時代に逝去された竹内四郎氏。昭和二十三年に、「日銀現送箱」事件というのをスクープした。日銀の新潟支店から、古紙幣回収のための現送箱に、米を詰めて本店に送った事件だ。私だけが事件を知って、取材している時に、日銀の輸送課長という人物に〝誘惑〟された。そのことを、冗談まじりに報告した時だった。

事件記者と犯罪の間 p.162-163 私を「反動読売の反動記者」と攻撃

事件記者と犯罪の間 p.162-163 警視庁公安部の一、二、三課担当ということになる。一課の左翼、二課の右翼、三課の外人である。私は公安記者のヴェテランとなり、読売のスター記者の一人に数えられるようになっていた。
事件記者と犯罪の間 p.162-163 警視庁公安部の一、二、三課担当ということになる。一課の左翼、二課の右翼、三課の外人である。私は公安記者のヴェテランとなり、読売のスター記者の一人に数えられるようになっていた。

「キミ、そんなバカな。この忙しい世の中に、軍隊友達というだけで、そんなことを引受けるものがいるかネ。ヤクザじゃあるまいし」
新井さんには私は面識がなかった。しかし、彼の部下で新井さんを尊敬している警察官が、私

と親しかったので、噂はよく聞いて知っていた。会ったところも、品の良い立派な紳士である。だが、残念なことには、新井さんには、こんな深い相互信頼で結ばれた友人を持った経験がないのではなかろうか。ヤクザの「ウム」とは全く異質の、最高のヒューマニズムからくる相互信頼である。私は出所後に風間弁護士のところで塚原さんに会った。私はペコリと頭を下げて、どうも御迷惑をかけて済みませんでしたと、謝ってニヤリと笑った。彼もまたニヤリと笑って、イヤアといった。そんな仲なのである。

話が横にそれてしまったが、こうして、私は人間としての成長と、不屈の記者魂とを土産に持って社に帰ってきた。

私の仕えた初代社会部長小川清はすでに社を去り、宮本太郎次長はアカハタに転じ、入社当時の竹内四郎筆頭次長(現報知社長)が社会部長に、森村正平新品次長(現報知編集局長)が筆頭次長になっていた。昭和二十二年秋ごろのことだった。

過去のない男・王長徳

帰り新参の私を、この両氏ともよく覚えていて下さって、「シベリア印象記」という、生れてはじめての署名原稿を、一枚ペラの新聞の社会面の三分の二を埋めて書かせて下さった。この記事はいわゆる抑留記ではなく、新聞記者のみたシベリア紀行だった。その日の記事審査委員会日報は、私の処女作品をほめてくれたのである。

この記事に対して、当時のソ連代表部キスレンコ少将は、アカハタはじめ左翼系新聞記者を招いて、「悪質な反ソ宣伝だ」と、声明するほどの反響だったが、やがて、サツ(警察)廻りで上野署、浅草署方面を担当した私は、シベリア復員者の日共党本部訪問のトラブルを、〝代々木詣り〟としてスクープして、「反動読売の反動記者」という烙印を押されてしまった。

私は日共がニュースの中心であったころは、日共担当の記者であり、旧軍人を含んだ右翼も手がけていた。それが、日本の独立する昭和二十七年ごろからは、外国人関係をも持つようになってきた。つまり警視庁公安部の一、二、三課担当ということになる。一課の左翼、二課の右翼、三課の外人である。私は公安記者のヴェテランとなり、調査記事の専門家であり、読売のスター記者の一人に数えられるようになっていた。

左翼ジャーナリズムは、私を「反動読売の反動記者」と攻撃したが、これは必ずしも当っていない。私は〝ニュースの鬼〟だっただけである。

私はニュースの焦点に向って、体当りで突込んでいった。私の取材態度は常にそうである。ある場合は深入りして記事が書けなくなることもあった。しかし、この〝カミカゼ取材〟も、過去のすべてのケースが、ニュースを爆撃し終って生還していたのである。今度のは、たまたま武運拙なく自爆したにすぎない。

そろそろ、手前味噌はやめにして、私の〝悪徳〟を説明しなければなるまい。

まずそのためには、王長徳という中国籍人と、小林初三という元警視庁捜査二課の主任を紹介

しよう。この二人も、小笠原の犯人隠避で、八月十三日に逮捕されている。