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迎えにきたジープ p.062-063 早く帰って妻や母に会いたい

迎えにきたジープ p.062-063 "I will cooperate." The next day, I signed a pledge and a statement prepared by Colonel and Lieutenant, and agreed on my address after return to Japan and a secret word for contact.
迎えにきたジープ p.062-063 ”I will cooperate.” The next day, I signed a pledge and a statement prepared by Colonel and Lieutenant, and agreed on my address after return to Japan and a secret word for contact.

私は、してやられたという感じを抱いて、黙々としてバラックに帰り、寝棚の上にひっくり返って、屋根裏の斜桁を睨みながら考えた。私が許諾しさえすればまず帰国はできる。帰ればこの暗い国に囚

われている同胞をなんとか救い出すことも出来そうだ。だがそのためにはソ連の「スパイ」にならなければならない。自分だけ先に帰ってしかも「スパイ」の誓約を果さないという手もあるが、それは、なにをされるかわからないし、また私の性分としてそんな卑怯な真似はできそうもない。といって帰りたくないのか、いや帰りたい。早く帰って妻や母に会いたいし、新しい生活を築きたい。それじゃ、あっさり帰ったらいいじゃないか。

私の考えが堂々廻りしているうちに、食堂の壁に取りつけられた手廻し時計はもう三時になってしまった。よし当ってみよう、道は開けるだろう、と私は協力の腹を決めて大佐の室をノックした。

『協力します』

『そうですか、それはよかった。改めて感謝します』

これで私の運命は半分ばかり開けそうになった。大佐はあからさまに喜びの色を顔にあらわして、明朝また来るように私に告げた。

次の日、私は大佐と中尉が準備した誓約書と声明書に署名し、帰国後の予定住所、連絡上の合言葉などを協定した。いずれもきわめて形式的なものであったが、ただこの日の通訳が例の語学生の一人であったため、かれが『学』のあるところを示そうとして、

憶良らはいまはまからむ子泣くらむ
そのかの母も吾をまつらむぞ

という万葉の古歌を合言葉に選んだのには、私も苦笑せざるを得なかった。

その日の午後は、大佐から私に今後とも「民主運動」に近づかないことなどの注意があった後、私は大佐の小宴に招かれた。

大佐にすすめられるままに強烈なヴォッカやコニャックをしたたか飲んで、酔歩蹣跚の態で私がバラックに戻ったら、仲間の中隊長が不審顔で私にたずねた。

『あやしいぞ、いいことしたな』

私は、これこそ緻密なようで尻尾の出るソ連式の「間抜け」だと苦笑しながら毛布を頭からかぶって寝てしまった。

六 細菌研究所を探れ!

また、CICが舞鶴で摘発した二人の幻兵団員が当局へ提出した答申書(原文のまま)をみてみよう。

▽斎藤氏の場合

一九四五年十月三十日、私の大隊はチェレムホーボ第31の2(マカリオ)収容所に到着、爾来独逸より輸送し来れる、人造石油装置部分品の卸下作業に従事中、当年は異状なし。

一九四六年一月初め頃、或る日ソ連軍一将校(少尉)私達の部屋に来り、エンヂニャーは居ないかと聞けり。部隊長(光延克郎中佐)は一人居る、それはこの斎藤である、と答えられたり。このことありてより四、五日後、収容所付のMVD(少尉)より彼の部屋(二重扉にて錠あり)に出頭を命ぜられ、次の事項に亘り訊問調査を受けたり。

最後の事件記者 p.136-137 シベリアで魂を売った幻兵団

最後の事件記者 p.136-137 データは完全に揃った。談話も集まった。私たちは相談して、このスパイ群に「幻兵団」という呼び名をつけたのであった。
最後の事件記者 p.136-137 データは完全に揃った。談話も集まった。私たちは相談して、このスパイ群に「幻兵団」という呼び名をつけたのであった。

私の場合は、テストさえも済まなかったので、偽名も合言葉も与えられなかったが、他の多くの人は、東京での最初のレポのための、合言葉さえ授けられていた。

例えば、例の三橋事件の三橋正雄は、不忍池のそばで「この池には魚がいますか」と問われて、「戦時中はいましたが、今はいません」と答えるのが合言葉であった。

ラストヴォロフ事件の志位正二元少佐の場合は、通訳が日本語に学のあるところを示そうとして、万葉の古歌「憶良らはいまはまからむ子泣くらむ、そのかの母も吾をまつらむぞ」という、むつかしい合言葉だった。そして、自宅から駅へ向う途中の道で、ジープを修理していた男が「ギブ・ミー・ファイヤ」と、タバコの火を借りられた。その時、その白人は素早く一枚の紙片を彼のポケットにおしこんだ。

彼があとでひろげてみると、金釘流の日本文で「あなたが帰ってから三年です。子供たちもワンワン泣いています。こんどの水曜日の二十一時、テイコク劇場ウラでお待ちしています、もしだめなら、次の水曜日、同じ時間、同じ場所で」とあった。子供がワンワン泣いているというのが、さきの万葉だったのである。

また、「あなたは何時企業をやるつもりですか」「私は金がある時に」とか「私はクレムペラーを持ってくることができませんでした」と話しかける人が、何国人であっても連絡者だ、と教えられたのもある。

データは完全に揃った。談話も集まった。私たちは相談して、このスパイ群に「幻兵団」という呼び名をつけたのであった。そして二十五年一月十一日、社会面の全面を埋めて第一回分、「シベリアで魂を売った幻兵団」を発表した。それから二月十四日まで、八回にわたって、このソ連製スパイの事実を、あらゆる角度からあばいていった。

大きな反響

反響は大きかった。読者をはじめ、警視庁、国警、特審局などの治安当局でさえも、半信半疑であった。CICが確実なデータを握っている時、日本側の治安当局は全くツンボさじきにおかれて、日本側では舞鶴引揚援護局の一部の人しか知らなかった。

『デマだろう』という人に、私は笑って答える。

『大人の紙芝居さ。今に赤いマントの黄金バットが登場するよ』

紙面では、回を追って、〝幻のヴール〟をはがすように、信ぴょう性を高めていった。