その後勃発した独ソ戦! 戦乱の渦中から逃れて帰国した佐々木中佐は大佐に進級して、大本営報道部付となった。
岳父谷中将は予備役となっていたが、太平洋戦争と同時に出征、佐々木大佐が大本営にきたころは、西部防衛司令官として大阪に勤務していたのだった。
思いもかけぬ敗戦、親友親泊朝省中佐(37期)一家三人が覚悟の自殺を遂げた時、佐々木大佐(38期)は第一番にかけつけた。その見事な最後に感激した大佐は、その日谷中将邸の一隅にある自宅にもどるなり、清子夫人に向ってこういった。
『立派な死に方だったよ。敗戦将校は生き永らえるべきではないな。……どうだ、清子、お前も一緒に死んでくれるか』
大佐は心中秘かに一家自決を決意して、軍務の整理など後始末に忙殺されていた。その佐々木家へ、ある日突如として悲報が舞いこんできたのであった。
谷中将が第六師団長として大陸へ遠征した故を以て、南京事件の責任者として逮捕され、戦犯として南京法廷へ送られるという知らせだった。大佐は愕然とした。
時を同じくして、東京に設けられた対日理事会のソ連代表部にキスレンコ少将(後に中将)が赴任してきた。まさに〝因果はめぐる小車〟である。
中野の佐々木家には、幾度かソ連人が大佐に面会を求めて現れた。そのソ連人がキスレンコ少将その人であったか? どうかは分らない。
逮捕、南京護送の岳父谷中将の助命嘆願は、大佐によって八方へ行われた。
それは溺れる者が、藁をもつかむ焦躁ぶりだった。嘆願の範囲が凡ゆる方面へのばされたであろうことは、容易に推測される。ここで筆者の推理が許されるならば、連合国として一方の有力者ソ連、それを代表する旧知のキスレンコ少将に、何らかの働きかけが行われた、と解することは誤りであろうか? もし、その嘆願が寄せられたとすれば、ソ連がその代償を大佐に求めることは極めて常識的な話である。しかし、その甲斐もなく、谷中将は恨みを呑んで絞首台上に散ったのであった。
ソ連の代償とは何を意味するか。佐々木一家にとって、恐るべき運命が待ち構えていようとは、神ならぬ身の知る由もなかった。
三 還らざる父
二十五年八月三十日、釣好きの佐々木元大佐は、いつものように魚籠を下げて釣に出かけていった。釣天狗の父が、また今日も夕餉の膳を賑わしてくれることを期待して、佐々木家の家族は、夕食もとらずに待っていた。
その夜に限って、佐々木元大佐はなかなか戻らなかった。待ちくたびれた一家が、心配し乍らも諦めて寝床に入った十一時ごろ、ドンドンと烈しく表戸を叩く音にまどろみを覚されたのである。声高な呼び声は、何か不吉な予感にみちていた。