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シベリヤ印象記(6) モスクワからきた中佐

シベリヤ印象記(6)『モスクワからきた中佐』 平成11年(1999)11月27日 画像は三田和夫65歳(前列中央メガネ 桐の会・伊香保温泉旅行1987.03.15)桐の会:桐部隊3年兵の会
シベリヤ印象記(6)『モスクワからきた中佐』 平成11年(1999)11月27日 画像は三田和夫65歳(前列中央メガネ 桐の会・伊香保温泉旅行1987.03.15)桐の会:桐部隊3年兵の会
シベリヤ印象記(6)『モスクワからきた中佐』 平成11年(1999)11月27日 画像は三田和夫65歳(前列中央メガネ 桐の会・伊香保温泉旅行1987.03.15)桐の会:桐部隊3年兵の会
シベリヤ印象記(6)『モスクワからきた中佐』 平成11年(1999)11月27日 画像は三田和夫65歳(前列中央メガネ 桐の会・伊香保温泉旅行1987.03.15)桐の会:桐部隊3年兵の会

シベリヤ印象記(6)『モスクワからきた中佐』 平成11年11月27日

「ミーチャ、ミーチャ」兵舎の入り口で歩哨が、声高に私を呼んでいる。それは、昭和22年2月8日の夜8時ごろのことだった。去年の12月初めに、もう零下52度という、寒暖計温度を記録したほどで、2月といえば冬のさ中だった。

北緯54度の、8月末といえばもう初雪のチラつくあたりでは、くる日もくる日も、雪曇りのようなうっとうしさの中で、刺すように痛い寒風が、地下2、3メートルも凍りついた地面の上を、雪の氷粒をサァーッ、サァーッ、と転がし廻している。

もう1週間も続いているシトーリナヤの炭坑の深夜作業に、疲れ切った私は、二段ベッドの板の上に横になったまま、寝つかれずにイライラしているところだった。

——きたな! やはり今夜もか?

いままで、もう2回もひそかに司令部に呼び出されて、思想係将校に取り調べを受けていた私は、返事をしながら上半身を起こした。

「ダー、ダー、シト?」(おーい、何だい?)

第1回は、昨年の10月末ごろのある夜であった。その日は、ペトロフ少佐という思想係将校が着任してからの第1回目、という意味であって、私自身に関する調査は、それ以前にも数回にわたって、怠りなく行われていたのである。

作業係将校のシュピツコフ少尉が、カンカンになって怒っているゾ、と、歩哨におどかされながら、収容所を出て、すぐ傍らの司令部に出頭した。ところが、行ってみると、意外にもシュピツコフ少尉ではなくて、ペトロフ少佐と並んで、恰幅の良い、見馴れぬエヌカー(秘密警察)の中佐が待っていた。その中佐の姿を見た瞬間、私は直感的に事の重大さを感じとって、緊張に身を固くしていた。

私はうながされて、その中佐の前に腰を下ろした。中佐は驚くほど正確な日本語で、私の身上調査をはじめた。本籍、職業、学歴、財産など、彼は手にした書類と照合しながら、私の答えを熱心に記入していった。腕を組み黙然と眼を閉じているペトロフ少佐が、時々私に鋭い視線をそそぐのが不気味だ。

私はスラスラと、正直に答えていった。やがて中佐は一枚の書類を取り出して質問をはじめた。フト、気がついてみると、その書類はこの春に提出した、ハバロフスクの日本新聞社の編集者募集にさいして、応募した時のものだった。

「ナゼ、日本新聞で働きたいのですか」

中佐の日本語は、丁寧な言葉遣いで、アクセントも正しい、気持ちの良い日本語だった。中佐の浅黒い皮膚と黒い瞳は、ジョルジャ人らしい。

「第一にソ連同盟の研究がしたいこと。第二に、ロシア語の勉強がしたいのです」

「よろしい。良く判りました」

中佐は満足気にうなずいて、「もう帰っても良い」といった。私が立ち上がって一礼し、ドアのところへきた時、いままで黙っていた政治部員のペトロフ少佐が、低いけれども激しい声で呼びとめた。

「パタジジー!(待て) 今夜、お前は、シュピツコフ少尉のもとに呼ばれたのだぞ。炭坑の作業について質問されたのだ。いいか、判ったな!」

見知らぬ中佐が、説明するように語をついだ。

「今夜、ここに呼ばれたことを、もし誰かに聞かれたならば、シュピツコフ少尉のもとに行ったと答え、私のもとにきたことは、決して話してはいけない」と、教えてくれた。

こんなふうに言い含められたことは、いままでの呼び出しや調査のうちでも、はじめてのことであり、二人の将校からうける感じで、私にはただ事ではないぞ、という予感が的中した思いだった。

見知らぬ中佐のことを、その後、それとなく聞いてみると、歩哨たちは“モスクワからきた中佐”といっていたが、私は心密かに、ハバロフスクの極東軍情報部員に違いないと考えていた。 平成11年11月27日

週刊読売(発行年月日不明)48~49ページ ソビエト領内の主要ラーゲリ収容部隊
週刊読売(発行年月日不明)48~49ページ ソビエト領内の主要ラーゲリ収容部隊
週刊読売(発行年月日不明)48~49ページ ソビエト領内の主要ラーゲリ収容部隊
週刊読売(発行年月日不明)48~49ページ ソビエト領内の主要ラーゲリ収容部隊
週刊読売(発行年月日不明)48~49ページ ソビエト領内の主要ラーゲリ収容部隊
週刊読売(発行年月日不明)48~49ページ ソビエト領内の主要ラーゲリ収容部隊 「チュレンホーボ」117師団
週刊読売(発行年月日不明)48~49ページ ソビエト領内の主要ラーゲリ収容部隊
週刊読売(発行年月日不明)48~49ページ ソビエト領内の主要ラーゲリ収容部隊
週刊読売(発行年月日不明)48~49ページ ソビエト領内の主要ラーゲリ収容部隊
週刊読売(発行年月日不明)48~49ページ ソビエト領内の主要ラーゲリ収容部隊

シベリア印象記(11) チャンス到来

シベリヤ印象記(11)『チャンス到来』 平成12年(2000)9月25日 画像は三田和夫66歳(最前列右から4人目 桐の会戦友会・伊香保観光ホテル1988.03.12)
シベリヤ印象記(11)『チャンス到来』 平成12年(2000)9月25日 画像は三田和夫66歳(最前列右から4人目 桐の会戦友会・伊香保観光ホテル1988.03.12)
画像は三田和夫66歳(最前列右から4人目 桐の会戦友会・伊香保観光ホテル1988.03.12)
画像は三田和夫66歳(最前列右から4人目 桐の会戦友会・伊香保観光ホテル1988.03.12)
画像は三田和夫66歳(中央 桐の会・伊香保温泉旅行1988.03.12)
画像は三田和夫66歳(中央 桐の会・伊香保温泉旅行1988.03.12)

シベリヤ印象記(11)『チャンス到来』 平成12年9月25日

私に舞い込んできた幸運は、このスパイ操縦者の政治部将校、ペトロフ少佐の突然の転出であった。少佐は約束のレポの3月8日を前にして、突然収容所から姿を消してしまったのである。

ソ連将校の誰彼に訪ねてみたが、返事は異口同音の「ヤ・ニズナイユ」(私は知らない)であった。もとより、ソ連では他人の人事問題に興味を持つことは、自分の墓穴を掘ることになるのである。それが当然のことであった。私は悩みつづけていた。

不安と恐怖と焦燥の3月8日の夜がきた。バターンと、バラッキの二重扉のあく音がするたびに、「ミータ」という、歩哨の声がするのではないかと、それこそ胸のつぶれる思いであった。時間が刻々とすぎ、深夜三番手の集合ラッパが鳴り、それから3、4時間もすると、二番手の作業隊が帰ってきた。静かなザワメキが起り、そして、一番手の集合ラッパが鳴った。

夜が明け始めたのだった。3月8日の夜が終わった。あの少尉も転出したのだろうか。重い気分の朝食と作業……9日も終わった。1週間たち、1カ月がすぎた。だが、スパイの連絡者は現れなかった。(つづく) 平成12年9月25日

◇◆◇◆執筆者略歴◆◇◆◇
三 田 和 夫 78歳
大正10年6月11日、盛岡市に生まれる。府立五中を経て、昭和18年日大芸術科を卒業。読売新聞社入社。同年11月から昭和22年11月まで兵役のため休職。その間、2年間に及ぶシベリアでの強制労働を体験。復員後、読売社会部に復職。法務省、国会、警視庁、通産・農林省の各記者クラブ詰めを経て最高裁司法記者クラブのキャップとなる。昭和33年、横井英樹殺害未遂事件を社会部司法記者クラブ詰め主任として取材しながら、大スクープの仕掛け人として失敗。犯人隠避容疑で逮捕され退社。昭和34年、マスコミ・コンサルタント業の「ミタコン」株式会社を設立するも2年あまりで倒産。以後、フリージャーナリスト生活を送る。昭和42年、元旦号をもって正論新聞を創刊。昭和44年、株式会社「正論新聞社」を設立。田中角栄、小佐野賢治、児玉誉士夫、河井検事など一連のキャンペーンを展開。正論新聞は700号を超え、縮刷版刊行を期するも果たせず。
◇◆◇◆著書◆◇◆◇
☆「迎えにきたジープ」
☆「赤い広場―霞ヶ関」
☆「最後の事件記者」(実業之日本社)
☆「黒幕・政商たち」(日本文華社)
☆「正力松太郎の死の後に来るもの」(創魂出版)
☆「読売梁山泊の記者たち」(紀尾井書房)
など多数。

メルマガ「シベリヤ印象記」は、「~(つづく)平成12年9月25日」とあるが、この(11)が最終回となった。「編集長ひとり語り」のほうは、1年以上後の、平成13年11月22日までつづくが、その間「シベリヤ印象記」の原稿を催促すると、三田和夫は「わかったよ。いろいろ考えてるから」と笑って答えたという。なにを考えていたのかわからないが、そのまま死んでしまった。

「シベリヤ印象記」は、じつはメルマガを含めると、3回も書かれている。

第1回目の「シベリア印象記」は、三田和夫が、昭和22年11月、シベリア抑留から帰還、読売新聞に復職して最初に書いた記事だった。その状況と記事内容は、『最後の事件記者』(p.076~p.087)に書かれている。

読売新聞 昭和22年(1947年)11月24日 第2面 抑留二年 シベリア印象記 本社員 三田和夫 日本軍服引張り凧 パンに貧富の差 ソ連帰還兵は米国礼賛
読売新聞 昭和22年(1947年)11月24日 第2面 抑留二年 シベリア印象記 本社員 三田和夫 日本軍服引張り凧 パンに貧富の差 ソ連帰還兵は米国礼賛
読売新聞 昭和22年(1947年)11月24日 第2面 抑留二年 シベリア印象記 本社員 三田和夫 日本軍服引張り凧 パンに貧富の差 ソ連帰還兵は米国礼賛
読売新聞 昭和22年(1947年)11月24日 第2面 抑留二年 シベリア印象記 本社員 三田和夫 日本軍服引張り凧 パンに貧富の差 ソ連帰還兵は米国礼賛

第2回目の「シベリア印象記」は、平成2年8月、ソ連旅行で45年振りにシベリアを訪れた紀行文を、『正論新聞』第587号から連載している。

正論新聞 第587号 平成2年9月1日・11日合併号 第3面 45年振りのシベリアは、明るく、活気に満ちていた! あの暗い、沈んだシベリアは、どこにいったのだ? ペレストロイカは極北の地にも… 続・シベリア印象記(1) 昭22に書いた捕虜見聞記の続編 本紙編集長・三田和夫 ハバロフスク イルクーツク ブラーツク
正論新聞 第587号 平成2年9月1日・11日合併号 第3面 45年振りのシベリアは、明るく、活気に満ちていた! あの暗い、沈んだシベリアは、どこにいったのだ? ペレストロイカは極北の地にも… 続・シベリア印象記(1) 昭22に書いた捕虜見聞記の続編 本紙編集長・三田和夫 ハバロフスク イルクーツク ブラーツク
正論新聞 第587号 平成2年9月1日・11日合併号 第3面 45年振りのシベリアは、明るく、活気に満ちていた! あの暗い、沈んだシベリアは、どこにいったのだ? ペレストロイカは極北の地にも… 続・シベリア印象記(1) 昭22に書いた捕虜見聞記の続編 本紙編集長・三田和夫 ハバロフスク イルクーツク ブラーツク
正論新聞 第587号 平成2年9月1日・11日合併号 第3面 45年振りのシベリアは、明るく、活気に満ちていた! あの暗い、沈んだシベリアは、どこにいったのだ? ペレストロイカは極北の地にも… 続・シベリア印象記(1) 昭22に書いた捕虜見聞記の続編 本紙編集長・三田和夫 ハバロフスク イルクーツク ブラーツク
正論新聞 第587号 平成2年9月1日・11日合併号 第3面 45年振りのシベリアは、明るく、活気に満ちていた! あの暗い、沈んだシベリアは、どこにいったのだ? ペレストロイカは極北の地にも… 続・シベリア印象記(1) 昭22に書いた捕虜見聞記の続編 本紙編集長・三田和夫 ハバロフスク イルクーツク ブラーツク
正論新聞 第587号 平成2年9月1日・11日合併号 第3面 45年振りのシベリアは、明るく、活気に満ちていた! あの暗い、沈んだシベリアは、どこにいったのだ? ペレストロイカは極北の地にも… 続・シベリア印象記(1) 昭22に書いた捕虜見聞記の続編 本紙編集長・三田和夫 ハバロフスク イルクーツク ブラーツク
正論新聞 第587号 平成2年9月1日・11日合併号 第3面 45年振りのシベリアは、明るく、活気に満ちていた! あの暗い、沈んだシベリアは、どこにいったのだ? ペレストロイカは極北の地にも… 続・シベリア印象記(1) 昭22に書いた捕虜見聞記の続編 本紙編集長・三田和夫 ハバロフスク イルクーツク ブラーツク
正論新聞 第587号 平成2年9月1日・11日合併号 第3面 45年振りのシベリアは、明るく、活気に満ちていた! あの暗い、沈んだシベリアは、どこにいったのだ? ペレストロイカは極北の地にも… 続・シベリア印象記(1) 昭22に書いた捕虜見聞記の続編 本紙編集長・三田和夫 ハバロフスク イルクーツク ブラーツク

つまり、読売新聞「シベリア印象記」、正論新聞「シベリア印象記」、そしてメルマガ「シベリヤ印象記」と、3回も書いているのだ。そんなこともあってか、メルマガ「シベリヤ印象記」の(6)~(11)は、『最後の事件記者』(p.116~p.133)の焼き直しになっていて新味がない。

メルマガの「シベリヤ印象記のはじめに①~⑤」は、78歳になった三田和夫の書き下ろしだが、若いころに書いた『赤い広場—霞ヶ関』『迎えにきたジープ』に比べると、論調がだいぶマイルドになっている感がある。

たとえば、「シベリア抑留60万人・死者6万人」と書いているが、それは、ソ連側・日本政府の公式発表の数字に過ぎない。また、最初の冬に推計800名(2割)が死んだと書いているが、以前はよく「零下50度、最初の冬に約半数が死んだ」と言っていた。『迎えにきたジープ』でも、「春がきて約3割、1200名減った」と数字はもっと大きい。戦後、『キング』に書いた「シベリア抑留実記」では2割だが、ソ連当局は実態を把握させないように、名簿を作らなかったり、収容所間で人員を動かしたりして、証拠湮滅を図っていたのだから真実のところはわからない。

10年前に戦後45年目の平和な時代のシベリア旅行を経験したことや、戦友会で戦友たちのいろいろな話を聞いているうちに、意見が変わった部分もあるのかもしれない。

『迎えにきたジープ』(p.096~p.110)には、証拠の有無は別として、細菌戦や収容所内部の状況、死亡者の扱いについて、三田和夫の体験・疑似体験が書かれている。

できれば、メルマガ「シベリヤ印象記」(つづく)で、『迎えにきたジープ』の続編を書いてもらいたかったものだ…。