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迎えにきたジープ p.210-211 鹿地・三橋スパイ事件日誌つづき

迎えにきたジープ p.210-211 Kaji / Mitsuhashi Spy Case Diary January 26th to March 14th, 1953
迎えにきたジープ p.210-211 Kaji / Mitsuhashi Spy Case Diary January 26th to March 14th, 1953

同二十九日 東京地検は三橋氏を電波法第百十条第一号(免許をうけず無線局を開設する罰則)で起訴した。

▽昭和二十八年

一月二十六日 日本政府は米大使館から鹿地事件について『鹿地氏は本人の依頼により人権擁護の立場から米側が保護したものである』という覚書を受取った。また斎藤国警長官は、衆院法務委員会で、さきに米側が国警へ送った〝鹿地自供書〟を発表した。〝自供書〟は二通(縦書きと横書き)で、縦書きは二十六年十二月二十八日に提出され、ソ連人との関係から三橋氏とのレポに言及され、ソ連秘密情報部と協力、ソ連のスパイをしたことを認めている。横書きは二十七年十月十五日提出されたもので、縦書きのものと大同小異である。

二月七日 電波法違反で起訴されていた三橋氏の第一回公判が東京地裁竹内判事係で開かれた。冒頭陳述で近藤検事は、三橋氏が三人のソ連人と連絡

指示を受け、昭和二十四年一月に米軍に探知され、米軍機関の了解の下にソ連と連絡していたこと、また三橋と連絡した日本人は元陸軍大佐佐々木克己(当時すでに自殺)と鹿地亘であることを明らかにした。

同九日 衆院第一議員会館で「鹿地事件の真相発表会」が開かれ、鹿地氏を監禁したというキャノン中佐邸のコックをしていた山田善二郎氏が監禁の事実を認めると発言、鹿地氏から「なぜ自供書を書いたか」という手記が寄せられた。それによると『ソ連のスパイとして三橋とレポしたという自供書は強制されて書いたものである』ということであった。

同十日 国警都本部では三橋氏の電波法違反の共犯として鹿地氏を取調べるべく、その病状鑑定を行おうとしたが鹿地氏側より鑑定医が不適当として

拒否された。

同十一日 元ソ連代表部員十一名が近く帰国することが判明したが、その中の二名は三橋事件に関連があるのではないかと注目された。

同十二日 第二回公判。

同十三日 東京地裁では鹿地氏に対し、三橋公判の証人として十六日に出廷するよう召喚状を発した。

同十六日 第三回公判。鹿地氏は病気と称して出頭延期を申出た。

同十九日 第四回公判。三橋被告に指示を与えていた三ソ連人はクリスタレフ、リヤザノフ、ダヴィドフの三名であることが明らかにされた。

また東京地検では、さきに参考人として元ソ連代表部員リヤザノフ、ダヴィドフ両氏に召喚状を発していたが、その召喚状が外務省へ返送されていることが判明した。

同二十一日 第五回公判。

同二十三日 第六回公判。

同二十四日 衆院法務委は鹿地、三橋両氏を喚問、対決させることを決定した。

同二十六日 第七回公判。法務委では、さきに米側に対して再質問書を提出していたが、再び『鹿地氏を監禁したものではない』と回答があった旨発表した。

同二十八日 法務委では鹿地氏の病状悪化のため、三橋氏との対決をやめ、三月七日に三橋氏のみ喚問することを決定した。

三月四日 第八回公判。

同六日 第一回現場検証(ソ連人とのレポ関係)

同九日 第二回現場検証(三橋の住居関係)

同十日 第三回現場検証(鹿地関係)

同十四日 第九回公判。懲役六ヶ月の求刑。

赤い広場ー霞ヶ関 p.184-185 「自由党は割れるヨ」

赤い広場ー霞ヶ関 p.184-185 The Soviet Union thought that Japan-Soviet negotiations would never be held under the Yoshida Liberal Party administration. Therefore, they worked to create the Hatoyama administration.
赤い広場ー霞ヶ関 p.184-185 The Soviet Union thought that Japan-Soviet negotiations would never be held under the Yoshida Liberal Party administration. Therefore, they worked to create the Hatoyama administration.

そして、今にいたるも、この六十数名は明らかにされていない。そして、六十数名というの

が「山本調書」の全貌なのである。私が、今までに明らかになし得たのは、その一部にすぎないが、その重要な部分であることには間違いない。

二 怪物久原と立役者メンシコフ

昭和二十七年の秋、ある元ソ連代表部員がある人に向ってこういったことがある。

『自由党は割れるヨ。割るものは、キッと、石橋か大野だろう』

この短かい言葉が、誰と誰との間で話されたかということを、ここで伏せねばならないのは残念である。しかし、語った人が元ソ連代表部員であるということは、いろいろなことを考えさせる。

〝自由党は割れる〟という、この観測の根拠となった彼の情勢分析は、何かということである。これが、〝割れるようにしてある〟でなければ幸いである。

ソ側の判断では、吉田自由党政権のもとでは、絶対に日ソ交渉は開かれないとみていた。これは当然である。そのためには旧改進党勢力を中心とする、保守政権を期待せざるを得ないのである。

左右両派社会党が、どんなに口惜しがろうと、ソ同盟共産党小史をひもとくまでもなく、共産党の人民民主主義に対する、社会党の社会民主主義は相容れないのである。

共産党がボリシェヴィキであり、社会党はメンシェヴィキである。ボリシェヴィキは「敵」である保守党とは、戦術的に握手して、その目的を達成したのち、これを「敵」として屠るがメンシェヴィキとは握手することは許されない。

第一集「迎えにきたジープ」の「招かれざるハレモノの客」の中で、ソ連の対日工作に三段階があったことを述べた。二十六年十一月二日、ドムニッキー通商代表とマミン経済顧問とが国会を訪問したことがある。それから五日後の七日の革命記念日には、元代表部でパーティーが開かれ、改進党代議士諸公の主要な人物には、個人招待状が送られていたのである。

そして、自由党が割れ、鳩山政権が生れるや、直ちに日ソ交渉のための、鳩山・ドムニッキー会談のお膳立が進められた。そして交渉地ロンドンが正式決定して、交渉が開始されるまで僅か半年である。これはなぜか。もちろん、鳩山内閣の短命を見越しているのである。鳩山内閣時代にソ側の狙う実績だけを、稼いでおかねばならないからである。

さて、ここで問題は日ソ国交回復国民会議会長久原房之助氏と、ソ連駐印大使、エカフェ代表メンシコフ氏という、二人の大物の登場となる。 ソ連の対日工作は、まず経済工作に始まった。モスクワ国際経済会議に、シベリヤ・オルグを使って、高良とみ女史を誘いこんでからというものは、軌道に乗って順調にすべり出した。