斎藤国警長官」タグアーカイブ

迎えにきたジープ p.208-209 鹿地・三橋スパイ事件日誌

迎えにきたジープ p.208-209 Kaji / Mitsuhashi Spy Case Diary September 24th to December 29th, 1952
迎えにきたジープ p.208-209 Kaji / Mitsuhashi Spy Case Diary September 24th to December 29th, 1952

鹿地・三橋スパイ事件日誌

▽昭和二十七年

九月二十四日 米軍による鹿地氏不法監禁という、いわゆる鹿地事件英文怪文書が大阪国際新聞社に送られ、「鹿地事件」がジャーナリズムに取上げられた。

十一月九日 鹿地亘氏(48)=本名瀬口貢、東京都新宿区上落合一ノ三六〇=は、昨年十一月二十五日午後六時すぎ転地療養先の神奈川県藤沢市鵠沼で散歩に出たまま行方不明になっていたが、同氏夫人の池田幸子さん(42)が藤沢署に捜査願を提出した。

十二月六日 日中友好協会内山完造氏(68)と鹿地氏夫人池田幸子さんら近親者が『鹿地氏は米軍に

不法監禁されている。私は六月まで一緒にいた』という元駐留軍コック山田善二郎氏(24)を伴い、港区芝車町六二の左社代議士猪俣浩三氏を訪れ鹿地氏の救出措置を依頼した。

同七日 一年余にわたり失踪していた鹿地氏は同夜八時半ごろ突然新宿区上落合一ノ三六の自宅に帰ってきた。

同八日 猪俣浩三氏は衆院法務委員会で、鹿地氏からの「私は訴える」という声明書を発表した。

同九日 在日米軍スポークスマンは八日夜、鹿地氏が米軍に監禁された旨の日本の新聞報道について、『鹿地氏は二十六年末に尋問のため一時監禁されたが、その後釈放されている』と語った。

三橋正雄氏(39)=東京都北多摩郡保谷町下保谷二三八=が国警東京都本部に自首、当局では電波法違反で取調べを始めたところ『私は米軍の鹿地氏逮捕の真相を明らかにするために自首した』と、自供した。

同十日 鹿地氏は衆院法務委員会で証人に立ち、昭和十三年三月の漢口の国民政府軍事委員会顧問の反戦運動時代から咋年十一月米軍に拉致され、そして釈放されるまでの経緯を証言した。

同十一日 在日米大使館は鹿地氏失踪以来の沈黙を破って『鹿地氏の逮捕は外国スパイの容疑だった』と発表。また国会でも岡崎外相、齋藤国警長官らが衆院法務、参院外務各委員会などで『鹿地氏にはスパイの疑いがある』と言明した。

同十二日 電波管理局では三橋氏の自供により同夜十一時四十五分から三十分間にわたりソ連からの

無電連絡の呼出しのコールサインをキャッチした。その発信地はウラジオストックであることが確認された。

同十四日 国警都本部では三橋氏は昨年五月、某国人の紹介で鹿地氏と知り合い、鹿地氏が米軍に逮捕されるまで都内や江の島電鉄鵠沼駅付近などで、前後六回街頭連絡していたと自供したことを明らかにした。

同十五日 国警都本部は三橋氏が『アメリカにも通報していた』と自供したことから、二重スパイと認定した。

同二十三日 鹿地氏夫妻は衆院法務委員会で、三橋氏とのレポの模様や米軍により沖繩へ連行されたことなどを証言した。

同二十九日 東京地検は三橋氏を電波法第百十条第一号(免許をうけず無線局を開設する罰則)で起訴した。

迎えにきたジープ p.210-211 鹿地・三橋スパイ事件日誌つづき

迎えにきたジープ p.210-211 Kaji / Mitsuhashi Spy Case Diary January 26th to March 14th, 1953
迎えにきたジープ p.210-211 Kaji / Mitsuhashi Spy Case Diary January 26th to March 14th, 1953

同二十九日 東京地検は三橋氏を電波法第百十条第一号(免許をうけず無線局を開設する罰則)で起訴した。

▽昭和二十八年

一月二十六日 日本政府は米大使館から鹿地事件について『鹿地氏は本人の依頼により人権擁護の立場から米側が保護したものである』という覚書を受取った。また斎藤国警長官は、衆院法務委員会で、さきに米側が国警へ送った〝鹿地自供書〟を発表した。〝自供書〟は二通(縦書きと横書き)で、縦書きは二十六年十二月二十八日に提出され、ソ連人との関係から三橋氏とのレポに言及され、ソ連秘密情報部と協力、ソ連のスパイをしたことを認めている。横書きは二十七年十月十五日提出されたもので、縦書きのものと大同小異である。

二月七日 電波法違反で起訴されていた三橋氏の第一回公判が東京地裁竹内判事係で開かれた。冒頭陳述で近藤検事は、三橋氏が三人のソ連人と連絡

指示を受け、昭和二十四年一月に米軍に探知され、米軍機関の了解の下にソ連と連絡していたこと、また三橋と連絡した日本人は元陸軍大佐佐々木克己(当時すでに自殺)と鹿地亘であることを明らかにした。

同九日 衆院第一議員会館で「鹿地事件の真相発表会」が開かれ、鹿地氏を監禁したというキャノン中佐邸のコックをしていた山田善二郎氏が監禁の事実を認めると発言、鹿地氏から「なぜ自供書を書いたか」という手記が寄せられた。それによると『ソ連のスパイとして三橋とレポしたという自供書は強制されて書いたものである』ということであった。

同十日 国警都本部では三橋氏の電波法違反の共犯として鹿地氏を取調べるべく、その病状鑑定を行おうとしたが鹿地氏側より鑑定医が不適当として

拒否された。

同十一日 元ソ連代表部員十一名が近く帰国することが判明したが、その中の二名は三橋事件に関連があるのではないかと注目された。

同十二日 第二回公判。

同十三日 東京地裁では鹿地氏に対し、三橋公判の証人として十六日に出廷するよう召喚状を発した。

同十六日 第三回公判。鹿地氏は病気と称して出頭延期を申出た。

同十九日 第四回公判。三橋被告に指示を与えていた三ソ連人はクリスタレフ、リヤザノフ、ダヴィドフの三名であることが明らかにされた。

また東京地検では、さきに参考人として元ソ連代表部員リヤザノフ、ダヴィドフ両氏に召喚状を発していたが、その召喚状が外務省へ返送されていることが判明した。

同二十一日 第五回公判。

同二十三日 第六回公判。

同二十四日 衆院法務委は鹿地、三橋両氏を喚問、対決させることを決定した。

同二十六日 第七回公判。法務委では、さきに米側に対して再質問書を提出していたが、再び『鹿地氏を監禁したものではない』と回答があった旨発表した。

同二十八日 法務委では鹿地氏の病状悪化のため、三橋氏との対決をやめ、三月七日に三橋氏のみ喚問することを決定した。

三月四日 第八回公判。

同六日 第一回現場検証(ソ連人とのレポ関係)

同九日 第二回現場検証(三橋の住居関係)

同十日 第三回現場検証(鹿地関係)

同十四日 第九回公判。懲役六ヶ月の求刑。

最後の事件記者 p.220-221 顔をみるなり「オイまぼろし!」

最後の事件記者 p.220-221 私が幻兵団の記事を書いた時、すでに多数の幻兵団が働らいており、この三橋もまた、上野池ノ端で、ソ連代表部員のリスタレフとレポしていたのである。
最後の事件記者 p.220-221 私が幻兵団の記事を書いた時、すでに多数の幻兵団が働らいており、この三橋もまた、上野池ノ端で、ソ連代表部員のリスタレフとレポしていたのである。

スパイは殺される

三橋事件の発生

鹿地不法監禁事件がもり上ってきた。二十七年十二月十一日、斉藤国警長官は、参院外務委でこう答弁した。

「鹿地氏は現に取調べ中の事件と、直接関係を持っている疑いが濃厚である。被疑者は日本人で、終戦後ソ連に抑留され、同地において、高度の諜報訓練と、無電技術とを会得した。内地に帰ってから、ある諜報網と連絡して、海外に向って無電を打っていたという疑いが強い。氏名を述べることはできないが、東京の郊外に居住していた人間である」

その日の夕方、私は何も知らないで、警視庁記者クラブから社に帰ってきた。ちょうどそのニュースが、社に入ったところだった。私の顔をみるなり、

『オイ、まぼろし! 長い間の日陰者だったが、やっと認知されて入籍されたゾ』と。

原部長の御機嫌は極めてうるわしく、私は何のことやら判らず、戸まどったような、オリエンタル・スマイルを浮べた。やっと、そのニュースを聞いた時には、「何だ、そんなこと当り前じゃないか」と、極めて平静を装おうとしながらも、やはり目頭がジーンとしてくるほどの感激だった。

ちょうど三年前のスクープ、大人の紙芝居と笑われた「幻兵団」が、今やっと、ナマの事件として脚光をあびてきたのだった。これが記者の味わい得る、本当の生き甲斐というものでなくて、何であろう。

私が幻兵団の記事を書いた時、すでに多数の幻兵団が働らいており、この三橋もまた、上野池ノ端で、ソ連代表部員のリスタレフとレポしていたのである。そればかりではなくて、すでにCICに摘発されるや、三橋をはじめとして、多数のソ連スパイが、アメリカ側に寝返っていた時代だったのである。

従って、アメリカ側は幻兵団の記事で、自分たちの知らない幻を、さらに摘発しようと考えていたのに対し、全く何も知らない日本治安当局は、何の関心も示さなかった。日本側で知ってい

たのは、舞鶴CICにつながる顧問団の旧軍人グループと、援護局の関係職員ぐらいのもので、治安当局などは「あり得ることだ」程度だから、真剣に勉強しようという熱意なぞなかった。

最後の事件記者 p.226-227 記者の平常の勉強が問題

最後の事件記者 p.226-227 こうして基礎取材競争が終ってからというものは「幻兵団」のデータが揃っているだけに、もう全く私の独走だった。
最後の事件記者 p.226-227 こうして基礎取材競争が終ってからというものは「幻兵団」のデータが揃っているだけに、もう全く私の独走だった。

三橋事件の取材競争

三橋事件の取材競争は、斉藤国警長官の発言から、各社同時にはじまった。氏名を伏せて、東京郊外に住んでいるというだけだから、いわば、雲をつかむような話だが、どうにか、保谷の三橋正雄とだけは判った。この名前割り出しは、三橋某で朝日、読売、毎日の順序。フルネームが判ったのが、朝日がトップで、読売と毎日が同時であった。

次は保谷の住所である。これは日経、読売、毎日の順、ともかく十三日付朝刊の都内版には、各紙いずれも同じ歩調で出揃ったのである。十二日夜の保谷、田無一帯は、一社二、三台の車、合計二、三十台の車が、三橋の家を探しもとめて、東弃西走。そのヘッド・ライトが交錯して、大変美しい夜景だったというから、如何に凄まじい競争だったか判るだろう。

その後は、原稿を送る電話の争奪戦、さらに今度は留置されている警察の探しッくら。毛布を冠せて横顔すら見せない、三橋の写真の撮り競べと、オモチャ箱を引繰り返したような騒ぎだった。

だが、こうして基礎取材競争が終ってからというものは「幻兵団」のデータが揃っているだけに、もう全く私の独走だった。十三日の夕刊で早くも自供内容を全部スクープしてしまった。それは五年間も調べつづけて、ほとんど完全にデータを持っているものと、そうでないものとの違いである。

ここに、同じ〝事件〟であっても、刑事部の捜査一課事件の、殺人(コロシ)強盗(タタキ)などの、偶発的非組織的事件と、計画的、組織的事件との違いがある。同じ刑事部事件でも、捜査二課となると、やはりこのコロシ、タタキとは違って、記者の平常の勉強が問題になってくる。

この三橋事件当時の、記事審査日報、つまり社内の批評家の意見をひろってみると、「三橋の取調べの状況については、各紙マチマチで、毎日は(鹿地氏との関係はまだ取調べが進まず)とし、朝日は(当面鹿地との関連性について確証をつかむことに躍起になっている)と一段の小記事を扱っているにすぎないが、これに反し本紙は、三橋スパイを自供す、と彼が行ってきたスパイ行為の大部分の自供内容を抜き、特に問題の中心人物鹿地が藤沢で米軍に逮捕された時も、三橋とレポの鹿地が会うところを捕えられたのだと、重要な自供も入っているのは大特報だ。」

と、圧倒的なホメ方である。

赤い広場ー霞ヶ関 p.078-079 内務官僚と外務官僚の争い

赤い広場ー霞ヶ関 p.078-079 A rivalry between domestic and foreign affairs bureaucrats
赤い広場ー霞ヶ関 p.078-079 A rivalry between domestic and foreign affairs bureaucrats

今日のように国際的な連関性が強化された情勢下において、情報の大事なことは、あながち

外交ばかりではない。政治も経済も、内政すべてがそうである。もはや、「情報なくしては一国の存立はあり得ない」時代となりつつある。これを想えば、警備警察制度の提唱といい内調の創設といい、初代室長村井氏の先見の明は賞さるべきである。

この秋に内閣調査室という実績の上に地歩を占める者が、将来を制するとみた外務官僚は地歩を占めつつある内務官僚に対して、あらゆる挑戦を試みつつあるのだとみるのは、あまりにもうがちすぎた見方であろうか。

調査室もやがては、米国のCIAにも似た組織となって、情報、諜報、広報、謀略とあらゆる意味の情報活動を行う、強力な機関に変身してゆくであろう。日本が自由、共産いずれの世界にあるとを間わず、それは国際的、国家的要請なのである。

今はその前夜である。それだけに内務、外務官僚の争いは関ヶ原である。

だが、この争いが、果して日本という国家への、真の貢献を願っての争いであるか。官僚の中のセクショナリズムの、醜い争いではないか。怪文書に示唆されたものは官僚という怪物―ゴジラとアンギラスが〝党利党略〟に相搏つ姿をわれわれに想起させる。

情報機関という国家権力は、自由の弾圧を伴う危険があるという両刃の剣だけに、その主導権争いはわれわれにとってもなおざりにはできないのである。

このような内調をめぐる幾つかの事件は、村井―日暮―曾野という三角関係が中心になっていたことは争えない事実である。そして日暮氏はラ事件の容疑者の一人である。

ソ連の恐るべきスパイ網は、このようにして〝日本の機密室〟にも浸透していたのであった。怪文書にいう「ラストヴォロフは日本に居る!」の見出しも、あながちデマではなかったといえよう。

では、ヤミドル事件の結末はどうなっただろうか。ともかく帰朝後の村井氏に対する吉田首相の覚えは極めて悪く、斎藤国警長官が間に入って、村井氏を京都府警察本部長に拾ったといわれる。

一方、外務省側の異動を見ると、曾野氏はヤミドル事件直後の十月一日付でボンのドイツ大使館参事官に転出している。これは喧嘩両成敗ともいわれるが、外務省内では定期的な異動で、村井ヤミドル事件とは関係がないという意見もある。 また二十六年末の職制改革で、欧米五課長という日暮氏の上官になった新関氏は、ラ事件後の二十九年八月スエーデン公使館一等書記官に、伊関局長も同月香港総領事に転出した。これも定期的で内定していた異動であるといわれ、新関氏の場合など、まだラ事件は明らかにはなっていなかったとして、その事件と異動の無関係を主張する者もある。