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事件記者と犯罪の間 p.158-159 松木勇造次長の教育は獅子のそれであった

事件記者と犯罪の間 p.158-159 提稿を受けた松木次長は、黙って朱筆を取ると、私の大作を読みはじめた。ついに読み終った原稿は朱も入らずに、バサリと傍らのクズ籠に投げすてられてしまった。
事件記者と犯罪の間 p.158-159 提稿を受けた松木次長は、黙って朱筆を取ると、私の大作を読みはじめた。ついに読み終った原稿は朱も入らずに、バサリと傍らのクズ籠に投げすてられてしまった。

朝日、読売、NHKのアナウンサーと、三社を受験した。試験成績には充分な自信があったが、朝日は「残念ながら貴意に添い難く…」の返事だった。怒った私は、盛岡出身の伊東圭

一郎出版局長(先ごろ亡くなられた)に頼んで調べて頂いたところ「試験成績は合格圏内だが、出身校が日大芸術科なので……」と、いい難そうに説明されたのである。激怒した私は数寄屋橋の上から、朝日新聞社をハッタとばかりにニラミつけて、

「畜生め、あとで口惜しがるような大記者になって見せるゾ!」と、誓ったものだった。今戦い敗れた私の姿をみれば、当時の朝日は賢明だったのかも知れない。

読売とNHKからは採用通知がきた。読売は約五百名の受験者から十名を採用した。一番は慶応出身で『三田新聞』の経験があった青木照夫(現大阪読売社会部次長)で、私は二点の差で二番だった。

十月一日、朝から入社式があったが、帰省していた私は、入社第一日に遅刻して、正力社長から単独で辞令を頂いた。当時の読売は朝毎の牙城に迫ろうとして、追う者の活気にみちあふれていた。

十名の新入社員は、現在、『週刊アサヒ芸能』の社長をしている徳間康快が整理部へいったほか、すべて社会部へ配属された。入社第一日に、何も教えられずに、イキナリ亡者原稿を書かされたのには驚いた。

私たちの初年兵教官は、次長の松木勇造現労務部長であった。この新入社員担当次長の教育はわが子を千仭の谷底に落す獅子のそれであった。

入社第二日、戦争中の代用品時代のため、新宿三越で「竹製品展示会」があって、松木次長に

取材を命じられた。私は社旗ひるがえる車に、一人で乗って感激の取材を行った。帰社するや、私は書きも書いたり、ザラ原(原稿用紙)で七十枚の大作に仕上げたのだった。

提稿を受けた松木次長は、黙って朱筆を取ると、私の大作を読みはじめた。左手で原稿のページは繰られてゆくが、右手の朱筆は一向におりない。ついに読み終った原稿は朱も入らずに、バサリと傍らのクズ籠に投げすてられてしまった。

呆然と、松木次長の背後で立ちつくしている私に、彼はふりむきもせず、声一つかけずに次の原稿に眼を通しはじめた。完全な私の黙殺なのである。そこへ掃除のオバさんがきて私の労作は大きなクズ籠にあけかえられ、アッと思う間もなく、ツツーと反古として持ち去られてしまったのである。この厳しい教育が、それからの私の記者生活を決定づけたのであった。新聞の冷たさもまた、同時に思い知らされたのである。

やがて、私も青木も出征の日がきた。二人は東京駅で固い別れの握手をして、「オイ、大本営報道部で会おうナ」といった。身に軍服をまとおうとも、新聞記者でいたかったのだ。

八月十五日。私たちは意外にも北支から満州へ転進して、満ソ国境の師団主力へ追及できず、新京にいた。十五日未明、有力なるソ軍戦車集団が、新京南郊外へ来襲するというので、前夜から徹夜で陣地構築に努めていた。今度こそ最後だと思った。ソ軍戦車へは一兵が一台、五発の手榴弾を抱いて飛びこむだけの戦法だからだ。

その前夜、読売新京支局を通じて、一言別れの言葉を本社へ托そうとしたが、敗戦前夜、支局

は電話のコーリングが、空しく鳴るだけだ。タコツボの中にジッと身を沈めて、ソ軍戦車のキャタピラの響きをききとろうとするのだが、耳を打つものは、赤い社旗のハタめきばかりである。社旗と思ったのは、暗夜に小隊長の位置を示す「祝出征、正力松太郎」の墨痕も鮮やかな日章旗だったのだ。

最後の事件記者 p.070-071 「大本営報道部で会おうな」

最後の事件記者 p.070-071 今度こそ最後だと思った。ソ軍戦車へは一兵が一台。五発の集束手榴弾を抱いて飛びこみ、無理心中をはかるだけの戦法だ。
最後の事件記者 p.070-071 今度こそ最後だと思った。ソ軍戦車へは一兵が一台。五発の集束手榴弾を抱いて飛びこみ、無理心中をはかるだけの戦法だ。

恵まれた再出発

ソ連軍を迎えて

八月十五日。私たちは意外にも北支から満州へ転進して、すでに満ソ国境に布陣していた師団主力へ追及できず、新京に止まっていた。すでにソ軍は満領へ侵入を開始していたので、私たちの大隊は新京防衛部隊に編入された。

八月十四日の命令で、明十五日未明、有力なるソ軍戦車集団が、新京南郊外へ来襲するというので、各隊はそれぞれ徹夜で陣地構築に努めていた。私の隊は、全満随一の文化設備を誇った錦ヶ丘高女に宿営し、日本間の作法室で、金ビョウブに抹茶茶碗でハンゴウ飯を食べたりして、最後の日本気分を味ったのち、タコツボに潜んだ。

湧き水が冷たく尻をぬらす。今度こそ最後だと思った。ソ軍戦車へは一兵が一台。五発の集束

手榴弾を抱いて飛びこみ、無理心中をはかるだけの戦法だ。ジッと前方の闇をすかしてみる。地に耳をつけて、キャタピラの轟音を聞きとろうとする。何と死への時間の空しく退屈だったことか。

読売同期の秀才、大阪読売社会部次長の青木照夫とは、東京駅で手を握り合って、「大本営報道部で会おうな」と別れた。身に軍服をまとおうとも、新聞記者でいたかったのである。私としても、再び社へ帰って、鉛筆を握れる日があろうとは、期待もしてみなかったことである。

短かいながらも、新聞記者になって、精一杯働らいたのだから、もう思い残すことはなかった。あとは、軍人として祖国のために死んでゆけることを、わずかに誇りとしなければならないことが、残されているだけだ。

ジッと回想にふける。南の空はまだ暗い。銃声一つ、しわぶき一つ聞えない静寂だ。この台地一帯に散らばった、三田小隊五十四名が、それぞれに、考えにふけっているのだろう。咋夜、錦ヶ丘高女の教員室で、電話帖をめくって、読売新京支局を探し出した。

一言、別れの言葉を本社に、そして母親に托したかった。もしかしたら、社会部の先輩が支局長でいるかも知れぬ。受話器を耳にあてて、胸をドキドキさせて待っていたが、リーン、リーン

と、空しくコーリングが鳴るだけ。時間に余裕があれば、馬を飛ばしてでも行ってみたかった。