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p64上 わが名は「悪徳記者」 「安藤に会わせろ」も可能になる

p64上 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 ――ヨシ、やろう。 私の決心は決まった。たとえ、最悪の場合でも、四人が逮捕されても、小笠原一人が残る。そこで、小笠原を逮捕させて、事件は解決する。
p64上 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 ――ヨシ、やろう。 私の決心は決まった。たとえ、最悪の場合でも、四人が逮捕されても、小笠原一人が残る。そこで、小笠原を逮捕させて、事件は解決する。

しかし、そうではない。安藤親分のただ一言、「横井の奴、身体に痛い思いをさせてやれ」で、現実に千葉が射っているではないか。

同様に、安藤が「皆、自首しろ」と命令しさえすれば、この計画の実現性はあるのだ。花田に「安藤に会わせろ」と交渉して、果して花田は安藤のアジトを教えるだろうか。たとえ、安藤にあうことができて、「私の手で自首しろ。五人の身柄を私にまかせろ」と、説得できるだろうか。私が、ただの〝新聞記者〟にすぎないならば、安藤を説得することは難かしい。

元山の会見記のように、先方にも新聞記事を利用しようという気があればまだしもである。しかし、今度は自首である。自首すれば早くて四、五年はこの娑婆とお別れだ。共産党であれば、政治的にそのことに価値があれば、まだ説得できる。しかし相手はヤクザだ。ヤクザにはヤクザらしい説得法がある。

私は小笠原を一時的に北海道へ落してやろうと考えた。私はあくまで小笠原に頼まれただけだ。私が「犯人隠避」という刑事訴追をうける危険を冒しても、ここで一度彼らへの義理を立てるのだ。私が、職を賭して彼らへ義理立てさえすれば、「安藤にあわせろ」の要求も、安藤の説得も可能になる。〝一歩後退、五歩前進〟の戦略だ。

――ヨシ、やろう。 私の決心は決まった。たとえ、最悪の場合でも、四人が逮捕されても、小笠原一人が残る。そこで、小笠原を逮捕させて、事件は解決する。北海道に何のカンもない彼には、金もあまりないことだし、旭川に預けておけばフラフラ道内を歩くことは不可能だ。彼との固い約束で、自首の決心さえつけば上京してくる。

p65下 わが名は「悪徳記者」 メングレの刑事が駅に張り込んでいて…

p65下 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 ところが、事態は意外な進展をみせて、すっかり変ってきたのである。十五日には逗子の貸別荘で安藤、久住呂(島田)の両名が逮捕され、つづいて十七日には花田までが犯人隠避で逮捕されてしまったのである。
p65下 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 ところが、事態は意外な進展をみせて、すっかり変ってきたのである。十五日には逗子の貸別荘で安藤、久住呂(島田)の両名が逮捕され、つづいて十七日には花田までが犯人隠避で逮捕されてしまったのである。

おろしてからの一、二時間は、本当のところ恐かった。もしかするとメングレ(顔見知り)の刑事が駅に張り込んでいて、彼を逮捕するかも知れないからだ。しかし、メングレでなければ、手配写真などでは、絶対に判らないだろうと考えて、列車にさえのれば旭川着は間違いないと思った。そして、私の雄大豪壮な計画はまず、その第一歩では成功であった。

ところが、事態は意外な進展をみせて、すっかり変ってきたのである。この秋に、私たち戦前の演劇青年、少女たちが集まって、職業人劇団を結成し、その第一回公演を、やはりメンバーの一人である大川耀子バレー研究所の発表会に便乗して、砂防会館ホールで開こうという計画があった。その準備の会合で、十三、十四の両日がつぶされたが、十五日には逗子の貸別荘で安藤、久住呂(島田)の両名が逮捕され、つづいて十七日には花田までが犯人隠避で逮捕されてしまったのである。

全く、アレヨアレヨと思う間の進展ぶりで、私の計画は早くも崩れはじめた。もはや最悪の場合である。小笠原一人の逮捕協力以外に途はなくなってしまったのであった。志賀、千葉両名はまだ残っていたが、花田がいなくなっては、もはや連絡のとりようもなかった。私は最後に小笠原を出そうと決心して、彼の連絡をひたすらに待っていた。 十九日にフクから「会いたい」と電話がかかってきた。夜、渋谷であってみると、別に彼のもとにも連絡はなかったようである。私はもちろん無制限に小笠原を旭川においておくつもりはなかった。「就職させた」などと報じられているが、彼は外川材木店で働いていたわけではないし、外川方で金をもらってもいない。

p66上 わが名は「悪徳記者」 「横井事件犯人の小笠原に逢えそうです」

p66上 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 私の説明に、何故か部長はあまり気のない返事で、「フーン」といったきりだった。そして席を立ちながら『だけどあまり深入りするなよ』と注意を与えたのである。
p66上 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 私の説明に、何故か部長はあまり気のない返事で、「フーン」といったきりだった。そして席を立ちながら『だけどあまり深入りするなよ』と注意を与えたのである。

あずかってもらっただけだ。

三日にはじめてあい、四日に別れたあと、私は読売という組織の中にある新聞記者として、十分な措置をとっている。従って、七月三、四日両日の行動は、新聞記者の正当な取材活動としての埓は越えていないし、警視庁当局でもこの点は「取材活動」として認めてくれている。

というのは、四日に別れた時の小笠原との約束は、「今度連絡してくる時は、三田記者の手を通じて自首する」ことであった。そこで私は五日か六日ごろ、社会部長に対して、

『横井事件の犯人である小笠原という男に逢えそうです』と、報告した。金久保部長は、

『小笠原ッて、どんな奴か』ときいた。

『はじめは、横井を狙撃した直接下手人と思われていたけど、のちにこれは千葉という小笠原と瓜二つに顔の似た男に訂正されました。しかし、安藤組の幹部だというし、殺人未遂犯人ですから、逮捕前の会見記は書けるでしょう』

私の説明に、何故か部長はあまり気のない返事で、「フーン」といったきりだった。そして席を立ちながら、『だけどあまり深入りするなよ』と注意を与えたのである。

わが事敗れたり

二十日の日曜日は私の公休日だ。家で芝居のためのガリ版刷りなどをしていると、私のクラブの寿里記者から電話がきて、「大阪地検が月曜日の朝、通産省をガサって、課長クラスを逮捕するが、原稿を書こうか」といってきた。