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正力松太郎の死の後にくるもの p.052-053 大誤報のニュース・ソースが河井検事

正力松太郎の死の後にくるもの p.052-053 現職の法務省刑事課長である河井検事を、国家公務員法違反、ひいては、名誉棄損の共犯として逮捕し、馬場派検事を一挙に潰滅させよう、という、岸本派の狙いがあったのである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.052-053 現職の法務省刑事課長である河井検事を、国家公務員法違反、ひいては、名誉棄損の共犯として逮捕し、馬場派検事を一挙に潰滅させよう、という、岸本派の狙いがあったのである。

小島のクビが危うかったことは、その前にもう一度ある。昭和三十二年秋の、例の「立松事件」の時である。売春汚職にからんで、社会部立松和博記者(故人)が、「宇都宮徳馬・福田篤

泰両代議士召喚必至」という、大誤報を放った時である。

原が、社会部長から編集局次長兼整理部長に栄転したあと、原の僚友景山与志雄が社会部長となった。古い社会部記者のタイプの、温情派であった景山は、原の後任としては、社会部長の椅子が重かったようである。おりからの売春汚職にさいして、やはり、〝ここらで一発!〟の気が動いたらしく、療養生活から出社してきたばかりの、司法記者のヴェテラン立松を起用した。

立松はいうまでもなく、昭電事件のスクープで「事件の読売」の評価を高めるに、大功のあったスター記者であった。彼は、米軍占領下で大量追放の憂き目にあった、思想検事閥に代って、GHQに迎合した経済検事閥(注。いわゆる〝馬場派〟のこと)の先達、木内曾益次長検事に可愛がられて、馬場——河井ラインに密着していたので、他社を呆然とさせる連続スクープを放つという、輝かしい経歴を作っていた。

景山には、立松のスクープ可能の〝限界〟が、十分に理解できていなかった。当時、立松のネタモトである河井信太郎検事は、現場を離れて、法務省刑事課長であったのだ。立松を部長直轄として、司法クラブのキャップであった私の、隷下には属させなかったのも、景山のアセリを示し、指揮統率上からも、誤報を生む原因となった。

なぜならば、立松は、長い療養生活から戦線復帰をしてきた直後であり、売春汚職と政界のつながりなどの、十分な基礎知識を勉強する体力も気力もなく、昭電事件当時のように、直接、逮

捕状まで見せてくれた河井検事のような、現場の検事がいなかった。(注。昭電事件における読売の派手なスクープは、事件そのものが、GHQ内部の対立からきた謀略でもあったから、逮捕状を事前に見せるだけの〝意義〟があったのである。そして、この事件に加担した経済検事閥は、この時から国家権力を私する〝よろこび〟を覚えて、検察を堕落させるのである)

立松は、私に良く、部長に対し負荷の任に耐えないことをコボしていた。もし、彼が私の指揮下にあったなら、私はあの原稿の出稿を認めなかったであろう。というのは、私の部下であった滝沢、寿里両記者とも、その内容が、当時〝怪文書〟として流れていた、マルスミ・メモ(注。代議士の氏名の上に、済の字を丸で囲った印のついた名簿)と、あまりに符合していたからである。

そして、立松記者の取材の最後のツメは、私と滝沢とが立会って、河井検事の自宅への電話取材ということになった。私が、あの大誤報のニュース・ソースが、河井検事であると公言できるのは、この事実と、立松が正式に部長、デスクに対し、「河井からの取材」と報告している事実とからである。

宇都宮、福田両代議士の、即日の告訴から、立松の現職逮捕となって、事件は大きくひろがった。検察内部の派閥対立から、告訴を受けた 岸本義広東京高検検事長の指揮の下に、「立松記者のニュース・ソースは河井検事に違いない」というので、現職の法務省刑事課長である河井検事を、国家公務員法違反、ひいては、名誉棄損の共犯として逮捕し、馬場派検事を一挙に潰滅させ

よう、という、岸本派の狙いがあったのである。

最後の事件記者 p.022-023 「我が事敗れたり」と覚った。

最後の事件記者 p.022-023 読売旭川市局発の原稿がきている。外川材木店にいた男を、安藤組の小笠原郁夫だと断定して、旭川署、道警本部が捜査しているという内容だった。
最後の事件記者 p.022-023 読売旭川市局発の原稿がきている。外川材木店にいた男を、安藤組の小笠原郁夫だと断定して、旭川署、道警本部が捜査しているという内容だった。

私は新しい入房者があると、その人に根掘り葉掘り、私の逮捕の記事と、その論調とについて質問した。やはり、判断通りに、決して香んばしい扱いではないと判った。

 横井事件に関連して、私が「犯人隠避」容疑で、逮捕されるにいたった当時の様子を、少しく説明しておかねばなるまい。

 日曜日は私の公休日だった。七月二十日の日曜日も、だから休みで、一日自宅にいた。ひるねをしたり、子供たちと遊んだりして、夜の八時ごろになった時、私のクラブの寿里記者から電話がきて、「大阪地検が明朝、通産省を手入れするが、予告原稿を書こうか」というのである。

 彼一人にまかせておいても良かったのだが、何故か私は「今すぐ社へ行くから、待っていてくれ」と答えて、出勤した。翌朝の手入れのための手配をとり終って、フト、デスク(当番次長)の机の上をみると、読売旭川市局発の原稿がきている。何気なく読んでみると、外川材木店にいた男を、安藤組の小笠原郁夫だと断定して、旭川署、道警本部が捜査しているという内容だった。

「我が事敗れたり」と、私は覚った。事、志と反して、ついにここにいたったのだ。私はそれでも、当局より先に、事の敗れたのを知ることができた幸運を、「天まだ我を見捨てず」とよろこんだ。

当局の先手を打って、小笠原に会ったのだが、ここで逆転、当局に先手をとられて、その居所を割り出された。それをまた私が、今夜、先手を取りかえしたのだ。

この原稿を読んだ瞬間には、私の表情はサッと変っていたかも知れない。しかし、読み終えた時には、全く冷静だった。そして、静かに読み通してみた。

小笠原は十八日朝、「札幌へ行く」といって、外川方を立去り、外川方では二十日の午後、警察へ屈出たとある。すると、旭川署が外川さんを参考人として調べて、同氏の戦友の塚原さんの紹介であずかった男だ、といったに違いないから、警視庁では、明二十一日朝、塚原さんを呼ぶに違いない。

その口から、私の名前が出てくるのは、月躍日のひるすぎ。私は素早くそう計算して、明日の正午までの十五時間位は、自由に行動できると考えた。その間に一切を片付けねばならない。

辞職を決める

すぐに社を出ると、私は塚原さんを自宅にたずねた。この軍隊時代の大隊長だった塚原勝太郎氏は、全く何の関係もない人だったのに、私が頼んで旭川へ紹介してもらったばかりに、事件の渦中へ引ずりこんでしまったのだった。

p66上 わが名は「悪徳記者」 「横井事件犯人の小笠原に逢えそうです」

p66上 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 私の説明に、何故か部長はあまり気のない返事で、「フーン」といったきりだった。そして席を立ちながら『だけどあまり深入りするなよ』と注意を与えたのである。
p66上 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 私の説明に、何故か部長はあまり気のない返事で、「フーン」といったきりだった。そして席を立ちながら『だけどあまり深入りするなよ』と注意を与えたのである。

あずかってもらっただけだ。

三日にはじめてあい、四日に別れたあと、私は読売という組織の中にある新聞記者として、十分な措置をとっている。従って、七月三、四日両日の行動は、新聞記者の正当な取材活動としての埓は越えていないし、警視庁当局でもこの点は「取材活動」として認めてくれている。

というのは、四日に別れた時の小笠原との約束は、「今度連絡してくる時は、三田記者の手を通じて自首する」ことであった。そこで私は五日か六日ごろ、社会部長に対して、

『横井事件の犯人である小笠原という男に逢えそうです』と、報告した。金久保部長は、

『小笠原ッて、どんな奴か』ときいた。

『はじめは、横井を狙撃した直接下手人と思われていたけど、のちにこれは千葉という小笠原と瓜二つに顔の似た男に訂正されました。しかし、安藤組の幹部だというし、殺人未遂犯人ですから、逮捕前の会見記は書けるでしょう』

私の説明に、何故か部長はあまり気のない返事で、「フーン」といったきりだった。そして席を立ちながら、『だけどあまり深入りするなよ』と注意を与えたのである。

わが事敗れたり

二十日の日曜日は私の公休日だ。家で芝居のためのガリ版刷りなどをしていると、私のクラブの寿里記者から電話がきて、「大阪地検が月曜日の朝、通産省をガサって、課長クラスを逮捕するが、原稿を書こうか」といってきた。

p66下 わが名は「悪徳記者」 本社旭川支局発の原稿がきている

p66下 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 「我が事敗れたり」と私は覚った。事、志と反して、ついにここにいたったのだ。私はそれでも当局より先に、事の破れたのを知ることができた幸運に、「天まだ我を見捨てず」とよろこんだ。
p66下 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 「我が事敗れたり」と私は覚った。事、志と反して、ついにここにいたったのだ。私はそれでも当局より先に、事の破れたのを知ることができた幸運に、「天まだ我を見捨てず」とよろこんだ。

夜の八時すぎごろだ。寿里記者一人にまかせておいても良かったのだが、何故か私は「今すぐ社へ行くから待っていてくれ」と答えて、出勤した。翌朝の手入れのための手配をとり終って、フト、デスク(当番次長)の机の上をみると、本社旭川支局発の原稿がきている。何気なく読んでみると、外川材木店にいた男を小笠原と断定して捜査している、という原稿だった。

「我が事敗れたり」と私は覚った。事、志と反して、ついにここにいたったのだ。私はそれでも当局より先に、事の破れたのを知ることができた幸運に、「天まだ我を見捨てず」とよろこんだ。

私は事件記者である。警視庁にも三年いたし、警察庁も知っているし「警察」や「警察官」や「捜査」や、「その感情」にいたるまで知悉していた。現在の事態を判断すれば、当局は感情的にさえなって、私を逮捕するに違いないとみた。起訴と不起訴は五分五分、有罪無罪も五分五分だが、逮捕と目いっぱい二十日間の拘留とは、間違いのないところだ。「ヨシ、二十三日間入ってこよう」と決心した。

当局がどうして旭川を割り出したかを考えてみた。十七日の花田逮捕! もちろんフクはまだ下ッ端だから、フクには連絡をしなかったのだろうが、花田には連絡をしたのだろう。小笠原は「花田にも内緒の二人切りのお願いだ」といったクセに、その約束を破ったに違いない。花田が捕まってもすぐ小笠原の居所を自供してはいないだろうから、これはガサ(家宅捜索)で小笠原の手紙を押えられたに違いないとみた。