■□■戦争に征かない自自公の議員ども■□■第13回■□■ 平成11年(1999)5月29日
さる5月25日(火)の日刊各紙の第一面は「ガイドライン法成立」と、大きく報じている。「日本が直接武力攻撃を受けた場合に限定されていた日米防衛協力の範囲を拡大した。…96年の日米安保共同宣言を踏まえた新指針を国内法で裏付けたもので…」(日経紙)とあるように、“戦争法”と呼ばれる所以のものである。
問題は、引用した日経紙の次ぎの見出し「自治体・民間に協力依頼」である。自衛隊が米軍の作戦の後方支援をするだけの法律ならまだしも、自治体・民間も引きずりこむ法律なのである。「後方支援」とタッタ4文字で表現されているが、実情は米軍の作戦に参加するということ。つまり、アメリカの判断でする戦争に、日本も加担することを意味する。
コソボの空爆を見れば答えはあきらかだ。空爆目標は、どんどんエスカレートして、中国大使館の誤爆(?)も含めて、発電所、橋、病院と、一般国民の生活自体を襲っているではないか。だが、米軍は地上兵力は投入しない。歩兵をブチ込めば、米軍の青年たちに死傷が出るからだ。だが、空爆を決断したクリントン大統領は、ユーゴが攻めてこられない米本土で、変わらぬ日常生活を送っているだろう。もし、地上軍投入という事態になっても、クリントンの生活は変わらず、彼の不倫相手の女性の兄弟も、コソボ出征は免れるであろう。
ガイドライン法を成立させた、自自公の議員たちも、“朝鮮半島有事”であろうが、“台湾海峡有事”であろうが、外国の攻撃には関係がない。なぜならば、自衛隊員でないからだし、後方支援の自治体や民間にも、近寄らないからだ。
そして、その証拠は、さきの戦争の跡始末を見れば明々白々である。戦争を指導し、日本の青年ばかりか、大都市の空襲で、女、子供、老人の非戦闘員に、無残な死を強いた高級将校たちの多くが、平然と生き残っているからだ。終戦50年の年に、テレビは各方面の戦線の実態ルポを数多く放映した。そして、その証言者として、中佐、大佐のうち、参謀肩章(作戦企画部門の参謀部に所属する将校は、階級章のほか、金モールの派手なアクセサリーをつけていた)を吊った連中が、ワンサカ登場してきたのに、私はアッと声をのんだまま、画面を見つめていた。
8月15日の玉音放送を聞いた時、私は旧満州の首都・新京の郊外陣地にいた。「生きていて良かった」が、放送が終わった瞬間の思いであった。ホンの数時間前まで、ソ連の戦車集団に自爆攻撃をかけよ、という命令が出ていた。命令をイヤだと拒否すれば、抗命罪ということで、前線だったから軍法会議抜きの銃殺であったろう。だが、そういう法律を作ったり、命令を出した連中が、これほど多数、ノウノウと戦後50年を、貧乏臭くもなく生きている。
東京裁判に、ソ連側証人として出廷したのは、伊藤忠商事の瀬島龍三大佐だ。彼はそのご褒美か、欧露エラブカの将校収容所でも、“陽の当たる場所”にいた。帰国してまもなく、伊藤忠商事に就職し、現在も“陽の当たる場所”に居つづけている。(注・共同通信社刊「沈黙のファイル。元大本営参謀瀬島龍三は真実を語ったか」)
帝京大教授・志方俊之は、さる4月下旬の講演会で「35年間(自衛隊に居て)自衛隊を軍隊と思わない日はなかったが、自衛隊を軍隊だといったらクビになる」という。戦争指導者だった高級将校たちと同じ発想で、自分よりエライ奴に責任を押しつける。小渕恵三首相は、自分の子供を自衛隊に入れてから(防衛大ではないゾ!)、ガイドライン法を成立させるべきであった。 平成11年(1999)5月29日