小林副社長モウベン中」タグアーカイブ

正力松太郎の死の後にくるもの p.002-003 目次 1~5

正力松太郎の死の後にくるもの p.002-003 目次
正力松太郎の死の後にくるもの p.002-003 目次

正力松太郎の死の後にくるもの——目次

1 正力さんと私(はじめに……)

銀座の朝に秋雨が……/正力〝社長〟の辞令

2 死の日のコラム休載

編集手帖なしの読売/正力なればこその「社主」

3 有限会社だった読売

悲願千人記者斬り/「畜生、辞めてやる!」の伝統/慄えあがった編集局長/五人の犯人〝生け捕り計画〟/社史にはない二度のスト/強まる「広報伝達紙」化/記者のド根性/紙面にクビをかける

4 〝務台教〟の興隆

朝・毎アカ証言の周辺/記事の魅力は五パーセント/読売の〝家庭の事情〟/務台あって の〝正力の読売〟/販売の神サマ復社す/七十三歳のブンヤ〝副社長〟/〝読売精神〟地を払うか/出向社員は〝冷飯〟組/正力〝法皇〟に対する本田〝天皇〟/〝アカイ〟という神話の朝日/封建制に守られる〝大朝日〟

5 正力コンツェルンの地すべり

正力代議士ついに引退す/報知新聞のド口沼闘争/伝説断絶の日本テレビ/〝務台教〟に 支えられる読売/小林副社長〝モウベン〟中/〝社長〟のいない大会社/新聞、週刊誌に追尾す

正力松太郎の死の後にくるもの p.200-201 正力が高文合格者いずれも内務官僚

正力松太郎の死の後にくるもの p.200-201 小林与三次。大正二年七月二十三日生まれ。正力の長女梅子を夫人としている。小林は、自治省次官から住宅金融公庫総裁に転じていたのを、昭和四十年に辞して読売入りをした。
正力松太郎の死の後にくるもの p.200-201 小林与三次。大正二年七月二十三日生まれ。正力の長女梅子を夫人としている。小林は、自治省次官から住宅金融公庫総裁に転じていたのを、昭和四十年に辞して読売入りをした。

小林副社長〝モウベン〟中

正力松太郎の政界引退声明にこめられた〝声なき声〟を承けて、その女婿の小林与三次は、今や真剣に「読売新聞」に取組んで、猛ベン中である。

というのは他でもない。ここ数カ月来、小林は編集各部の中堅デスク・クラスと、〝勉強会〟を継続的にもっているからである。

小林与三次。大正二年七月二十三日生まれ。正力の長女梅子を夫人としている。正力が明治四十四年採用の高文合格者であり、長く僚友として読売をもりたてた品川主計が、同四十五年の一期後輩。また、副社長を勤めた高橋雄豺は大正四年の、田中耕太郎や唐沢俊樹(故人)らの同期生である。そして、娘のムコとした小林が、昭和十一年採用という、いずれも内務官僚である。小林の同期といえば、元警視総監の原文兵衛、陸幕長の山田正雄らがいる。そして、小林は、自治省次官から住宅金融公庫総裁に転じていたのを、昭和四十年に辞して読売入りをした。

読売に入社した小林は、衆議院議員正力松太郎の後継者と目されていた。というのは、業務に務台光雄、編集に原四郎という〝大黒柱〟があって、小林の〝戦闘正面〟に特記すべきものがな

かったからである。いわば予備隊的存在に近かったからである。

それこそ、務台は〝業務と販売の神様〟であり、原は法政を出て国民新聞に入り、昭和十一年読売に移籍。社会部長在任七年にもおよんだ、というベテランとあってみれば、小林が代議士の跡目とみられたのは、その官僚経歴からしても当然であろう。

だが、事態は変った。

前に述べたように、正力の政界引退声明には、読売だけ削除はしたものの、「郷土には人材も多く、後進に道をゆずることが、最善だと考えている」旨の正力談話があり、小林を指名していないのである。

そして、小林の〝勉強会〟の講師は、決して部長や古参次長ではなくて、もう一クラス下の、いうなれば四、五年先の部長候補クラスなのである。これは、何を物語るのであろうか。

小林は、読売の副社長である。彼に編集各部の仕事の内容や実情について、御進講申しあげるべき人物は、部長でなければ、筆頭次長(注。新聞は朝夕刊あるので、勤務が交代制になるため次長が三~七名ほどいる)クラスであるのが、自然というべきである。

現況把握のための〝勉強会〟であるなら、部長がデスクやキャップから話をきくように、副社長は、部長クラスか、編集総務(注。編集局長の補佐役として、同様に数人いる)あたりにレクチュアさせるべきだろう。それなのに、小林は、もっと若手を講師に起用して、二次会へと流れても、

器用にその連中の気持ちをつかんでいるようである。つまり、小林は編集の現場とのコミュニケーションをもとうとしていると、解されるのである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.202-203 いわゆる〝務台文書〟配布事件

正力松太郎の死の後にくるもの p.202-203 務台が「オレは、ただの副社長ではないのだゾ。生半可なことでは、読売とオレとの仲を割くことはできないのだゾ」と、小林に対して、その〝意志〟を明らかにしたのだ、という、〝下司のカングリ〟が、流れはじめたのであった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.202-203 務台が「オレは、ただの副社長ではないのだゾ。生半可なことでは、読売とオレとの仲を割くことはできないのだゾ」と、小林に対して、その〝意志〟を明らかにしたのだ、という、〝下司のカングリ〟が、流れはじめたのであった。

現況把握のための〝勉強会〟であるなら、部長がデスクやキャップから話をきくように、副社長は、部長クラスか、編集総務(注。編集局長の補佐役として、同様に数人いる)あたりにレクチュアさせるべきだろう。それなのに、小林は、もっと若手を講師に起用して、二次会へと流れても、

器用にその連中の気持ちをつかんでいるようである。つまり、小林は編集の現場とのコミュニケーションをもとうとしていると、解されるのである。

このことは、本稿冒頭でもふれたように、小林には、務台と対立拮抗しようという意志がなく、五、六年先の政権担当を描いているということである。務台も、もうそのころには、八十歳に手がとどくころで、新社屋の建設も終って、正力に托された〝正力の夢〟を実現して、功なり名をとげての引退、という時期である。

従って、読売においては、実に、ポスト・ショーリキではなくして、ポスト・ムタイが現実の問題だということである。だが、ことさらに騒ぎを好むヤジ馬の常として、務台と小林の動きを、対立させて考える動きがあるのである。

読売の重役会の様子をきいてみると、常務会などでは、原四郎の独り舞台だそうである。他の常務たちは、そこで、何か仕事をしようという時には、どうしても、務台か小林かの、どちらかの副社長を立てて、やらざるを得ない。そのため、ともすれば、務台、小林の〝対立〟なるものが、秘やかに〝喧伝〟されるということになるらしい。

さきごろの、いわゆる〝務台文書〟配布事件というのも、〝怪文書事件〟扱いをされているが、務台が、務台の個人名で発送したことを認めているのだから、〝怪文書〟ではない。そして、務台側近のいう「意外な反応」とは、このようなことである。

コピーの配布を、〝務台の先制攻撃〟とみるのが、いわゆる〝意外な反応〟なのであった。つまり、これは、務台が「オレは、ただの副社長ではないのだゾ。オレが読売に入社し、終戦の年に正力に殉じて去り、ふたたび復社するについては、これだけの経緯があってもどったのだゾ。生半可なことでは、読売とオレとの仲を割くことはできないのだゾ」と、小林に対して、その〝意志〟を明らかにしたのだ、という、〝下司のカングリ〟が、流れはじめたのであった。

そのカングリは、さらに、「それでは、務台、小林間に、すでにそのような〝情勢〟がかもし出されていたのか!」と発展し、一波乱はまぬかれないものと、期待する向きも出てきたのである。そのような〝向き〟とは、必ずしも、読売社内だけとは限らない。当面の外敵、朝日もそうであるし、毎日、サンケイ、あるいは、報知、日本テレビなどの、コンツェルン系統にもあろう。

これらは、あくまで〝下司のカングリ〟にすぎないのであるが、私は、これを別な形でとらえて、「務台の政権担当の決意表明」ととる。もちろん、全社員への〝檄〟の意味もこめられていよう。

私の務台インタビューの時点で、まだ、発送こそされてはいなかったが、計画は進んでいたハズである。しかも、務台の話の中で、それらの片鱗は現れているのだった。私が、「決意表明」とみる理由はこれまで、しばしば示してきた務台のあの〝熱気〟である。だからこそ、朝日打倒と新社屋建設が、務台の〝男の花道〟というのである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.204-205 充実感のウラ側の不安と落胆

正力松太郎の死の後にくるもの p.204-205 もはや「読売信条」などというのは、古文書と化し、「読売精神」などというものは、全く失なわれてしまう——メンタルなものが一切なくなった、組織と機構と、それのオペレーターとによって、〝新聞〟がつくりだされていく
正力松太郎の死の後にくるもの p.204-205 もはや「読売信条」などというのは、古文書と化し、「読売精神」などというものは、全く失なわれてしまう——メンタルなものが一切なくなった、組織と機構と、それのオペレーターとによって、〝新聞〟がつくりだされていく

だが、一方では、全社員六千名に、〝檄〟を飛ばさざるを得ないという務台の気持を、裏返してみるならば、「読売も大きくなりすぎたなあ」という、深い充足感と、わずかながらの不安、落胆の入りまじった、ある感慨にふけっているのではなかろうか。

わずかながらの不安、落胆! この心理のカゲは、幸福すぎる時にフト心をよぎる、この幸福を失うことへのおそれ、とは、ニュアンスが少し違う。

マスコミの集中化が進んで、読売、朝日という二巨大紙が、さらに超巨大紙へと進む時、そこでは、もはや「読売信条」などというのは、古文書と化し、「読売精神」などというものは、全く失なわれてしまう——メンタルなものが一切なくなった、組織と機構と、それのオペレーターとによって、〝新聞〟がつくりだされていくに違いない。務台が、前述の復帰第一声の中で述べた、「新聞」と「読売」とへの愛情などは、もはや、誰にも理解されなくなるのである。充実感のウラ側の不安と落胆とは、その現実への〝予感〟である。

八幡製鉄の子会社、松庫商店の業務上横領事件を、取材していると、八幡幹部の経理面の不正が、いろいろと出てくる。たとえば、某社長夫人の葬式に、八幡と関係が深い人物だったので、八幡から香典が供えられた。

その中身は二十五万円也。ところが、八幡の経理からは、五十万円が出金されている。なるほど、香典などは、受取証の出ない金なのだから、担当者がフトコロに入れてしまったのだろうか。

これでは、死者への礼を欠くどころか、死んでもなお、関係者の〝汚職〟に利用されて、霊魂も浮ばれまい。

私の「読売も大きくなったなあ」という感慨とは、この八幡製鉄のケースから考えてのことである。務台が、今さら〝読売精神〟を訴えんとすれば、これは、「小林副社長との対立か?」と、カンぐられる時代になっているのである。そして、務台側近筋の〝思いもかけない反応〟という言葉が、その時代の流れを〝読みきれない〟ということを、裏書きしていよう。

現に、〝販売の神様〟であった務台にとっては、新聞業界紙が、匿名で取りあげた「某紙某局長が私財一億円を貯めこんだ」という記事を目して、〝一億円局長〟を、読売の局長になぞらえられたり、販売部門の部下が、悪徳店主と〝組んだり〟して、新聞販売店従業員を学校に入れるという読売奨学資金制度を〝食いもの〟にしているなどとして、善良店主の造反がおきたりしている、ということは、かつての読売精神からは考えられないことであろう。

その時、さる四十四年八月十日付の朝刊一面で、大手町の新社屋建設計画が公表された。地上十階、地下五階の、最新、最大の設備で、この八月から二年計画で工事を進め、昭和四十六年十月を期して、移転するというものだ。

「こうした最大、最新の新社屋建設の目的は、もとより、より充実した紙面の作成と、読者への最善のサービスのためのもの」という謳い文句。発行部数は全国で五百五十七万(八月一日現

在)、東京本社だけで、三百七十四万と呼号している。これだけの部数を印刷するためには、輪転機九十六台を収容する工場を必要とするというのである。総工費は一口に二百億。

正力松太郎の死の後にくるもの p.206-207 「ゴ、五万円出す。その男を」

正力松太郎の死の後にくるもの p.206-207 私の「正論新聞」に、かねてから、若いヤル気のある青年がほしい、と、私は考えていた。ある日、街のレストランで出会った、読売の仲間(当時は部長)に、その旨を話して、「誰かいないだろうか」と、問うたのであった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.206-207 私の「正論新聞」に、かねてから、若いヤル気のある青年がほしい、と、私は考えていた。ある日、街のレストランで出会った、読売の仲間(当時は部長)に、その旨を話して、「誰かいないだろうか」と、問うたのであった。

「こうした最大、最新の新社屋建設の目的は、もとより、より充実した紙面の作成と、読者への最善のサービスのためのもの」という謳い文句。発行部数は全国で五百五十七万(八月一日現

在)、東京本社だけで、三百七十四万と呼号している。これだけの部数を印刷するためには、輪転機九十六台を収容する工場を必要とするというのである。総工費は一口に二百億。

薄給にあまんじ、読売と共に生き、読売とともに死ぬ——この〝読売精神〟に徹するためには、読売はあまりにも、大きくなりすぎてしまった。

私の「正論新聞」に、かねてから、若いヤル気のある青年がほしい、と、私は考えていた。ある日、街のレストランで出会った、読売の仲間(当時は部長)に、その旨を話して、「誰かいないだろうか」と、問うたのであった。

「ウム。今年、大学を出て、読売を受けたが落ちた男がいる。だが彼は『どうしても新聞記者になりたい』というので、来年もまた読売を受ける、というんだ。……一体、いくら(月給)出すのだ?」

どうしても新聞記者になりたい! 何という、カッコいい言葉であろうか。私は反射的に叫んだ。

「ゴ、五万円出す。その男を、ゼヒ紹介してくれ!」

地方紙の、ある古手の記者に、こんな話をきいたことがある。社会部は事件なんだと、若い記者の何人かを、子分同様にして、育てていたんだ、という。それこそ、夏場に〝女〟を買いに行けば、若い記者が背中をウチワであおぐほどであったと。

それだけをきけば、封建的な徒弟制度、ヤクザの親分、子分の関係のようであるが、この話には、それなりに「新聞記者の基礎教育」における、先輩と後輩の関係を、象徴しているものがある。

私は本稿の中で、先輩たちに与えられた教育や言葉を例示してきた。「新聞記者は疑うことで始まる」「名誉棄損の告訴状が、何十本と舞いこんでも、ビクともしない取材」と、いったような言葉である。

そしてまた、新人の教育とは、次のようなものであった。拙著「最後の事件記者」(昭和33年実業之日本社)の抜粋だ。

イガグリ坊主頭に、国民服甲号という、この新米記者も、即日働きはじめていた。実に清新、爽快な記者生活の記憶である。確か午前九時の出勤だというのに、当時の日記をみると、午前七時四十分、同二十五分、八時五十分と、大変な精励ぶりだ。それに退社が、六、七時、ときには九時、十時となっている。タイム・レコーダーが備えられていたので、正確な記録がある。

十名の新入社員は、九名までが社会部に配属された。私たちの初年兵教官は、松木勇造現労務部長であった。その教育は文字通りのスパルタ式、わが子を千仭の谷底に落す、獅子のそれであった。

入社第一日目に亡者原稿を、何も教えられずに書かされた。この数行の処女作品は、早大教授

の山岸光宣文博の逝去であった。私のスクラップの第一頁に、この記事が、朝日毎日のそれと並べてはられている。死亡記事でさえ、朝毎の記事と、優劣を競おうという心意気だったらしい。

正力松太郎の死の後にくるもの p.208-209 「読売の方が経済的に安定していますから」

正力松太郎の死の後にくるもの p.208-209 どうしても新聞記者になりたい! という青年に、私は、昭和十八年当時の、このような私自身の姿を想起したのであった。それこそ、「読売精神」なのであった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.208-209 どうしても新聞記者になりたい! という青年に、私は、昭和十八年当時の、このような私自身の姿を想起したのであった。それこそ、「読売精神」なのであった。

入社第一日目に亡者原稿を、何も教えられずに書かされた。この数行の処女作品は、早大教授

の山岸光宣文博の逝去であった。私のスクラップの第一頁に、この記事が、朝日毎日のそれと並べてはられている。死亡記事でさえ、朝毎の記事と、優劣を競おうという心意気だったらしい。

第二日は、初の取材行だ。戦時中の代用品時代とあって、新宿三越で開かれていた、『竹製品展示会』である。今でもハッキリと覚えているが、憧れの社旗の車に、ただ一人で乗って、それこそ感激におそれおののいたものである。

車が数寄屋橋の交叉点を右折する時、社旗がはためいた。大型車にただ一人の、広い車内をみまわして、『これは本当だろうか!』とホオをつねってみたい気持だった。尾張町(銀座四丁目)からバスにのれば、十五銭ですむのになア、と、何かモッタイないような気がした。

この感激のテイタラクだから、取材も大変なものである。待っていてくれた(アア、待たせておいたのではない!)車に飛びのり、帰社するや否や、書きも書いたり、七十枚余りの大作、竹製品展ルポだった。

提稿をうけた松木次長は、黙って朱筆をとると、私の大作を読みはじめた。左手で原稿のページは繰られてゆくが、右手の朱筆は一向におりない。ついに読み終った原稿は、一字の朱も入らずに、バサリと傍らのクズ籠に投げすてられてしまった。

呆然として立ちつくす私を、彼はふりむきもせずに、次の原稿に手をのばした。私は無視され、黙殺されていた。新米も新米、二日目記者の私は、自分をどう収拾したらよいかわからない。怒

るべきなのか、憐れみを乞うべきなのか、お追従をいうべきなのか!

そこへ掃除のオバさんがきて、私の労作は大きなクズ籠にあけられ、アッと思う間もなく、反古としてもちさられてしまった。これは大変な教育であった。それからの私の記者生活を決定づけたのはこの時であり、また、新聞とは冷酷無残なりと覚えたのであった」

どうしても新聞記者になりたい! という青年に、私は、昭和十八年当時の、このような私自身の姿を想起したのであった。それこそ、「読売精神」なのであった。

だが、数日後に、私は、正論新聞のスタッフとともに、新聞論をたたかわせながら、新宿のバーで泥酔していた。その青年からの返事が、その仲介者を通じてもたらされたのであった。青年は、来年の再受験に備えて、読売の都内支局に、バイトとして働いていた。

「読売の方が、正論より、経済的に安定していますから……(正論へ入るのは見合わせたい)」と、いっているという。

私は、バーのカウンターを、手が痛くなるほど叩いた。

「バカヤロー奴が! ナニが、どうしても新聞記者になりたい、だ。奴のは、新聞記者になりたい、ではなくて、読売社員になりたいということだ。こんな、ボキャブラリイの少ない男が、記者などと口にするな!」と。