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迎えにきたジープ p.148-149 何故か公表されなかった

迎えにきたジープ p.148-149 The terrifying "devil's ampoule" was packaged, delivered to the UN forces and sent to Korea. However, it seems that tens of thousands of "devil's ampoules" were seized just before use.
迎えにきたジープ p.148-149 The terrifying “devil’s ampoule” was packaged, delivered to the UN forces and sent to Korea. However, it seems that tens of thousands of “devil’s ampoules” were seized just before use.

その研究のためキリコフは、モスクワの衛生試験所からボツリヌス菌の資料や、ジェルジンスク研究所から、ドイツ人学者の完成した乾燥のデータまで取り寄せて援助した。今や本多の研究は完成した。一CCで四、五万人の人命を奪うという研究が……

勝村は懸命に本多の身許を洗った。彼と同じ収容所におったはずの本多が、復員局の引揚者名簿に記載されていないのだ。兵籍名簿には「召集解除年月日不明」となっていた。

つまり、未復員なのに届出がないというので調べたら、内地に実在しているということである。本多は、結論として密入国で帰国したことになる。

また長屋研究所ではボツリヌス菌の研究をしていたことが明らかになった。消化薬「いのもと」本舖の経営する研究所だったから、腸詰や罐詰の腐敗菌であるボツリヌス菌の研究には最適だった。警察当局が入手した、日本共産党の秘密会計簿の写しを仔細に検討してみると、一年間に百万円近い献金を行っていた。彼の研究所長としての収入から判断して、この額は不当に大きかった。

石井部隊の有能なる研究員であることは、間違いのない事実だった。そしてまた彼のもとにスラヴ系外人が出入することも確かめられた。

そのころには、東京製薬採血工場の施設は本多の指導により拡張され、新しい機械がすでに試動していたのだった。本多の研究は、この国連軍用の乾燥血漿のアンプル内に、ボツリヌス菌、破傷風菌、ガス壊疽菌の三種を封じこむことに利用された。

恐るべき〝魔のアンプル〟は包装され、国連軍に納入され、朝鮮に送られた。だが何万本と

いう〝悪魔のアンプル〟は使用直前に取押えられたらしい。

 この事件は米軍の秘密軍事裁判に廻され、平壌の細菌研究所接収の時と同じように、何故か公表されなかった。

 ただ、本多らの一味が逮捕されたことを知った日、USハウス九二六号ではキリコフ少佐を中心に、深夜まで会議が続けられていた。翌日のモスクワ放送は、ハバロフスク細菌戦犯の被告山桜金作元獣医中尉の陳述に基いたとして、天皇を細菌戦犯として指名する旨を放送した。さらに一味が軍事法廷へ廻された日、ソ連のマリク国連代表は、『米軍は朝鮮戦線で細菌戦を行った』と演説した。

 このような宣伝戦は、先に罵り出した方が勝だった。米国側は日本の民心の動揺を恐れてか、何も公表しなかった。しかし、注意深い読者は、都内にボツリヌス菌中毒患者が発生したことを、新聞がかなり大きく報じたのを、また、朝鮮戦線に発生した奇病について、『これは風土病の一種である』という、米軍当局の発表があったのを、記憶していられるだろう。熱心な読者は、さらに三十年六月一日付毎日夕刊の「秋田にボツリヌス菌中毒」の記事をひろげてみられたい。     ——セミ・ドキュメンタリー——

赤い広場ー霞ヶ関 p.110-111 日本新聞が「木村檄文」を大々的に掲載

赤い広場ー霞ヶ関 p.110-111 The first volume ended with the Rastvorov incident. And the second volume started. First, you must know about the Siberian Democratic Movement.
赤い広場ー霞ヶ関 p.110-111 The first volume ended with the Rastvorov incident. And the second volume started. First, you must know about the Siberian Democratic Movement.

夏の夜の夕闇が格子戸のある窓辺に迫ってきたこ

ろ、調べ官の木幡警視が『ぢゃどうも御苦労さん』と、タバコをすすめた。

突然の急ぎの呼出しやら、静かながら騒然としたあたりの雰囲気に、大勢を察知していたらしいこの若い参謀は、すすめられたタバコの煙を吐き出すとともに、ただ一言呟いた。

『これで――第一巻は終った……』

確かにそうであった。第一巻はラストヴォロフ事件を最後のヤマとして終った。そして第二巻が、おだやかな〝平和〟という呼びかけで始ったのである。

三十年一月二十五日の鳩山・ドムニッツキー会談から出発した日ソ国交調整の動きは、すでに交渉地がニューヨークに決定していたかの如く思われていたが、意外にも四月四日ソ連側は東京を主張してきたのであった。

この一見変幻極まりないかの如きソ連の態度も、そのそもそものはじまりから仔細に観察するならば、決して故なしとはしないであろう。冒頭以来、しばしば述べてきたようにソ連の対日政策は常に一貫して流れているのである。そして、そのことを理解するためには、まずシベリヤ民主運動の経過と、その立役者たちのその後とを知らねばならない。

在ソ同胞と一口にいってしまえば簡単であるが、その組成は実に多種多様である。①日満両国の軍人軍属 ②日満両国政府職員 ③協和会員 ④国策会社員 ⑤開拓団員 ⑥一般居留民 ⑦樺太居住民 ⑧北鮮居住民など、その社会的、階級的出身層は十種類以上にも及んでいる。

ということは、つまり、完全に日本の社会の縮図でもあったということであろう。総数は二十四年十月一日付国連軍総司令部発表の数字によると、引揚対象基本数はソ連地区で百六十二万五百十六名である。

この百数十万余名の日本人が、一般俘虜と受刑者とに分れていたのである。受刑者というのは、いわゆるソ連刑法五十八条(反逆罪)による入ソ後の犯罪によったものと戦犯とがあった。

また入ソ後の一般犯罪によるものや、樺太における一般市民の受刑者などがあった。

シベリヤ民主運動はこれらの社会各層の出身者による一般俘虜百数十万名の間で発生し、十六地区(ハバロフスク)五分所、同十一分所の特別監獄における浅原正基氏(後述)らの「党史研究グループ」の例外を除いては、囚人である受刑者の間では全く行われなかった。

運動発生の端緒は二十一年夏ごろ、ハバロフスクにいた木村大尉という人の「木村檄文」だと信じられている。これを在ソ同胞の宣伝機関紙日本新聞が利用して大々的に掲載したのであった。これは直ちに反軍闘争、対将校階級闘争としてアジられ、日本新聞の「友の会」運動として組織された。併行して各収容所の文化グループの活動が指示された。

二十一年夏から二十二年にかけて全シベリヤ収容所には、この「友の会」運動が瞭原の火の

ように拡がっていった。