その研究のためキリコフは、モスクワの衛生試験所からボツリヌス菌の資料や、ジェルジンスク研究所から、ドイツ人学者の完成した乾燥のデータまで取り寄せて援助した。今や本多の研究は完成した。一CCで四、五万人の人命を奪うという研究が……
勝村は懸命に本多の身許を洗った。彼と同じ収容所におったはずの本多が、復員局の引揚者名簿に記載されていないのだ。兵籍名簿には「召集解除年月日不明」となっていた。
つまり、未復員なのに届出がないというので調べたら、内地に実在しているということである。本多は、結論として密入国で帰国したことになる。
また長屋研究所ではボツリヌス菌の研究をしていたことが明らかになった。消化薬「いのもと」本舖の経営する研究所だったから、腸詰や罐詰の腐敗菌であるボツリヌス菌の研究には最適だった。警察当局が入手した、日本共産党の秘密会計簿の写しを仔細に検討してみると、一年間に百万円近い献金を行っていた。彼の研究所長としての収入から判断して、この額は不当に大きかった。
石井部隊の有能なる研究員であることは、間違いのない事実だった。そしてまた彼のもとにスラヴ系外人が出入することも確かめられた。
そのころには、東京製薬採血工場の施設は本多の指導により拡張され、新しい機械がすでに試動していたのだった。本多の研究は、この国連軍用の乾燥血漿のアンプル内に、ボツリヌス菌、破傷風菌、ガス壊疽菌の三種を封じこむことに利用された。
恐るべき〝魔のアンプル〟は包装され、国連軍に納入され、朝鮮に送られた。だが何万本と
いう〝悪魔のアンプル〟は使用直前に取押えられたらしい。
この事件は米軍の秘密軍事裁判に廻され、平壌の細菌研究所接収の時と同じように、何故か公表されなかった。
ただ、本多らの一味が逮捕されたことを知った日、USハウス九二六号ではキリコフ少佐を中心に、深夜まで会議が続けられていた。翌日のモスクワ放送は、ハバロフスク細菌戦犯の被告山桜金作元獣医中尉の陳述に基いたとして、天皇を細菌戦犯として指名する旨を放送した。さらに一味が軍事法廷へ廻された日、ソ連のマリク国連代表は、『米軍は朝鮮戦線で細菌戦を行った』と演説した。
このような宣伝戦は、先に罵り出した方が勝だった。米国側は日本の民心の動揺を恐れてか、何も公表しなかった。しかし、注意深い読者は、都内にボツリヌス菌中毒患者が発生したことを、新聞がかなり大きく報じたのを、また、朝鮮戦線に発生した奇病について、『これは風土病の一種である』という、米軍当局の発表があったのを、記憶していられるだろう。熱心な読者は、さらに三十年六月一日付毎日夕刊の「秋田にボツリヌス菌中毒」の記事をひろげてみられたい。 ——セミ・ドキュメンタリー——