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赤い広場ー霞ヶ関 p.110-111 日本新聞が「木村檄文」を大々的に掲載

赤い広場ー霞ヶ関 p.110-111 The first volume ended with the Rastvorov incident. And the second volume started. First, you must know about the Siberian Democratic Movement.
赤い広場ー霞ヶ関 p.110-111 The first volume ended with the Rastvorov incident. And the second volume started. First, you must know about the Siberian Democratic Movement.

夏の夜の夕闇が格子戸のある窓辺に迫ってきたこ

ろ、調べ官の木幡警視が『ぢゃどうも御苦労さん』と、タバコをすすめた。

突然の急ぎの呼出しやら、静かながら騒然としたあたりの雰囲気に、大勢を察知していたらしいこの若い参謀は、すすめられたタバコの煙を吐き出すとともに、ただ一言呟いた。

『これで――第一巻は終った……』

確かにそうであった。第一巻はラストヴォロフ事件を最後のヤマとして終った。そして第二巻が、おだやかな〝平和〟という呼びかけで始ったのである。

三十年一月二十五日の鳩山・ドムニッツキー会談から出発した日ソ国交調整の動きは、すでに交渉地がニューヨークに決定していたかの如く思われていたが、意外にも四月四日ソ連側は東京を主張してきたのであった。

この一見変幻極まりないかの如きソ連の態度も、そのそもそものはじまりから仔細に観察するならば、決して故なしとはしないであろう。冒頭以来、しばしば述べてきたようにソ連の対日政策は常に一貫して流れているのである。そして、そのことを理解するためには、まずシベリヤ民主運動の経過と、その立役者たちのその後とを知らねばならない。

在ソ同胞と一口にいってしまえば簡単であるが、その組成は実に多種多様である。①日満両国の軍人軍属 ②日満両国政府職員 ③協和会員 ④国策会社員 ⑤開拓団員 ⑥一般居留民 ⑦樺太居住民 ⑧北鮮居住民など、その社会的、階級的出身層は十種類以上にも及んでいる。

ということは、つまり、完全に日本の社会の縮図でもあったということであろう。総数は二十四年十月一日付国連軍総司令部発表の数字によると、引揚対象基本数はソ連地区で百六十二万五百十六名である。

この百数十万余名の日本人が、一般俘虜と受刑者とに分れていたのである。受刑者というのは、いわゆるソ連刑法五十八条(反逆罪)による入ソ後の犯罪によったものと戦犯とがあった。

また入ソ後の一般犯罪によるものや、樺太における一般市民の受刑者などがあった。

シベリヤ民主運動はこれらの社会各層の出身者による一般俘虜百数十万名の間で発生し、十六地区(ハバロフスク)五分所、同十一分所の特別監獄における浅原正基氏(後述)らの「党史研究グループ」の例外を除いては、囚人である受刑者の間では全く行われなかった。

運動発生の端緒は二十一年夏ごろ、ハバロフスクにいた木村大尉という人の「木村檄文」だと信じられている。これを在ソ同胞の宣伝機関紙日本新聞が利用して大々的に掲載したのであった。これは直ちに反軍闘争、対将校階級闘争としてアジられ、日本新聞の「友の会」運動として組織された。併行して各収容所の文化グループの活動が指示された。

二十一年夏から二十二年にかけて全シベリヤ収容所には、この「友の会」運動が瞭原の火の

ように拡がっていった。

赤い広場ー霞ヶ関 p.112-113 「日本しんぶん」掲載のスターリンへの誓い

赤い広場ー霞ヶ関 p.112-113 “Nihon Shimbun,” which promotes Siberian detainees, developed “Friends' Society” into “Democratic Group” and “Anti-fascist Committee” and praised Stalin.
赤い広場ー霞ヶ関 p.112-113 “Nihon Shimbun,” which promotes Siberian detainees, developed “Friends’ Society” into “Democratic Group” and “Anti-fascist Committee” and praised Stalin.

「友の会」運動が普及したとみるや、この運動の組織者である日本新聞社では、直ちにこれを「民主グループ」運動へと発展させていった。

この運動は二十三年春、さらに、「反ファシスト委員会」に昇華させられ、二十四年秋にいたる一年半の間、全シベリヤを席捲しその全盛を極めたのだった。各収容所に設けられたこの地方、地区「反ファシスト委員会」は、生活、生産、青年、文化、宣伝などの各部に分れ、ハバロフスクの最高ビューローの指揮を受けていた。殊に二十四年夏に行われた「スターリン感謝署名運動」が、その絶頂期であった。

当時の熱病的狂躁振りを、同年七月十五日付日本新聞第六〇〇号に掲載された地方反ファシスト委員会ビューローの一文にみてみよう。一読、感激するも大笑するも読者の自由である。

親愛なる日本しんぶん!

われわれは厳粛な生涯にかってなかった最大の日、全世界勤労者の仰ぎみる偉大なる指導者、同志スターリンその人へ、われわれの誓いと決意をおくることができました。

この歴史的な日、われわれはわれわれの誓いにわが全生命をかけて斗うことを決意したのです。かくも栄誉あるかくも誇りある歴史的事業に、レーニン、スターリンの忠実な一兵士として署名しえたこの日こそ、じつに、きみ、日本しんぶんがあったればこそなのです。

そして日本しんぶんの生み育てあげた、幾十万のわが帰還同志たちが、勇躍、われわれの偉大な教師の教えたごとくその教えを体し、日本共産党の戦列の先頭に、米日反動と売国ファッショの狂乱をおしつぶしつつ、平和と民主々義・社会主義のために斗いつつある事実に、無限の感銘と誇りをくみとりつつ、われわれもまたかく斗うであろうことを重ねて誓い、われわれの感謝とします。

このスターリンへの誓いというのは、一九二四年スターリンがレーニンの柩前で誓った「レーニンへの誓い」をもじった日本版の誓いであるが、この一文こそシベリヤ民主運動そのものと、この一文を受けた日本新聞そのものとを、端的に現わしている。

「木村檄文」に始まり、その宣伝を「日本新聞」が行ったことから発生した民主運動は「日本新聞」グループの指導によって、ついに「反ファシスト委員会」という思想結社にまで高められ、ソ連的人間変革に大きな功績をたてたのである。 この運動の先端に立ったアクチィヴィスト(積極分子指導者)カードル(基幹要員)ヤチェーカー(細胞員)たちは、これを〝盛り上った〟運動だと信じ込み、〝かくあるべきだ〟として同胞たちを苦しめ苛んで、これを「人間変革への闘い」と称した。それは或時は最高ビューローの指令であり、或時は彼らのハネアガリであった。

赤い広場ー霞ヶ関 p.114-115 オルガナイザー、日本新聞グループ

赤い広場ー霞ヶ関 p.114-115 The former Asahi Shimbun Koriyama correspondent, Nobujiro Kobari, became the chief editor of Nihon Shimbun, deceiving President Kovalenko major.
赤い広場ー霞ヶ関 p.114-115 The former Asahi Shimbun Koriyama correspondent, Nobujiro Kobari, became the chief editor of Nihon Shimbun, deceiving President Kovalenko major.

ただでさえ苦難の多い俘虜生活である。そこへ出現したこの〝○○天皇〟と呼ばれる労働貴族たちの、同胞への苛歛誅求ぶりは、まさにシベリヤ罪悪史として、一書を編むに値するものであった。と同時に、これこそ日本人の国際的訓練の欠如を露呈した惨めな事大主義として、同じ俘虜であるドイツ人たちのびん笑を買ったものであった。

引揚列車を迎える人たちの日の丸の旗をひきちぎり、さし出す花束を踏みにぢり、ソ同盟謳歌を呼号し、〝代々木詣り〟という集団入党のため帰郷すら拒否した、いわゆる「上陸党員」たちのその後をたずねて見給え。ましてや〝赤大根〟と呼ばれた君子豹変組の在ソ行動をたずねて見給え。

だがしかし、このような狂騒民主運動に冷静な監視と、充分な計算とを怠らなかった一群の日本人たちがいた。このグループがアクチィヴィストの上位にある、オルガナイザー(組織者)である。日本新聞グループであり、最高ビューロー・グループである。そしてまた彼らのかげには、「常に一貫して流れている対日政策」に動かされるソ連政治部将校たちの指導があったのである。

今ここでこの詳細を述べることはできないが、民主運動のキッカケとなった「木村檄文」というものがあった。それと同時期に沿海州地区では、ナホトカに近いドーナイ収容所で起した佐藤治平元准尉の民主運動もあった。この分派民主運動は、後に浅原正基対佐藤治平の理論闘争となり、佐藤氏が敗れて粛清されたのであった。

このような経緯もあって、「木村檄文」は主流派となったのだが、これを取上げた当時の日本新聞は、まだ発足間もない単なる宣伝用機関紙にすぎなかったのである。

満州日々新聞の工場施設一切を持ち去り、俘虜の中から印刷工や編集者を探し出し、二十年九月十五日第一号を発行したのである。だから初期の新聞には編集員募集の広告が出ており、私もこれに応募してスパイ誓約のキッカケを作ってしまったころである。

このころ、元共産党員と称して、社長コバレンコ少佐をだまし、編集長の地位に納ったのが、元朝日新聞郡山通信員小針延二郎氏であった。当時の事情を雑誌「真相」(二十五年四月号)は、ともかく次のように書いている。

申出た彼の履歴は、元朝日新聞チャムス通信局長で、日本共産党員、内地では特高につけ廻されるから、満州に派遣してもらっていた。という堂々たるものであった。

コバレンコ少佐はすっかり信用して、いきなりセクレタリ・レダクチア(編集書記)に任命した。主として割付をする仕事で、彼が帰国後自称する「編集長」ではない。何しろ、捕虜にはめずらしい日本共産党員というので、他の日本人からも信頼されたが……