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最後の事件記者 p.132-133 「ヤ・ニズナイユ」私は知らない

最後の事件記者 p.132-133 バターンとバラツキの二重扉のあく音がするたびに、「ミータ」という、歩哨の声がするのではないかと、それこそ胸のつぶれる思いであった。
最後の事件記者 p.132-133 バターンとバラツキの二重扉のあく音がするたびに、「ミータ」という、歩哨の声がするのではないかと、それこそ胸のつぶれる思いであった。

幻兵団物語

チャンス到米

このような過去をもつ私が、どうして、いかに新聞記者の功名心とはいえ、平気でスパイの暴露をやってのけられたのだろうか。

私に舞いこんできた幸運は、このスパイ操縦者の政治部将校、ペトロフ少佐の突然の転出であった。少佐は、約束のレポの三月八日を前にして、突然収容所から姿を消してしまったのである。

ソ連将校の誰彼にたずねてみたが、返事は異口同音の「ヤ・ニズナイユ」(私は知らない)であった。もとより、ソ連では他人の人事問題に興味を持つことは、自分の墓穴を掘ることなのである。それが当然のことであった。私は悩みつづけていた。

不安と恐怖と焦燥の三月八日の夜がきた。バターンとバラツキの二重扉のあく音がするたびに、「ミータ」という、歩哨の声がするのではないかと、それこそ胸のつぶれる思いであった。時間が刻々とすぎ、深夜三番手の集合ラッパが鳴り、それから三、四時間もすると、二番手の作業隊の帰ってきた、静かなザワメキが起り、そして、一番手の集合ラッパが鳴った。

夜があけはじめたのであった。三月八日の夜が終った。あの少尉も転出したのだろうか。重い気分の朝食と作業……九日も終った。一週間たち、一カ月がすぎた。だが、スパイの連絡者は現れなかった。

私の場合は、こうして、スパイ網のトバ口だけでレポは切れ、その年の秋には、ナホトカでダメ押しのレポも現れないまま、懐しの祖国へ帰ることができたのであった。

そうしてはじまった、このスパイ網調査であった。すると……。インターを叫ぶ隊伍の中に見える無表情な男の顔、復員列車のデッキにたたずんで考えこむ男の姿、肉親のもとに帰りついてから、ますます沈んでゆく不思議な引揚者、そして、ポツンポツンと発生する引揚者の不可解な死——或者は故国を前にして船上から海中に投じ、或者は家郷近くで復員列車から転落し、また或者は自宅にたどりついてから縊死して果てた。

最後の事件記者 p.146-147 新聞記者の功名心だって?

最後の事件記者 p.146-147 『どういう目的で書いたか? こんなことをバクロすれば、ソ側スパイに殺されると思わないか。生命が惜しくないのか? 怖くないのか』
最後の事件記者 p.146-147 『どういう目的で書いたか? こんなことをバクロすれば、ソ側スパイに殺されると思わないか。生命が惜しくないのか? 怖くないのか』

しかし、実際には私もこわかった。「スパイは殺される」という。所轄の北沢署に保護を頼んだり、一日中社へよりつかなかったりした。ある夜などは、私の帰りを待ちくたびれた妻が、深夜にフト眼覚めて、用足しに階下へおりようとして、二階の踊り場から見通しの階段へ一歩踏み出した。

アッと、もう少しで叫び出して、階段から転がり落ちそうになった。玄関のドアにはまったガラス、その上のラン間のガラスに、一条の懐中電燈の光りが走っている。

その光りは、標札の文字でも確かめているらしく、瞬時にして消えた。耳を澄ます妻には、玄関を去ってゆく足音さえ聞えない。背筋を冷たく氷が走って、片足は階段に踏みだしたまま、もう身動きができなかった。

その夜、私は帰宅しなかった。妻は今でもその時のことを想い出しては、

『あれほど恐かったことは、まずちょっとなかったわね』

という。あの懐中電燈の光の主が保護を頼んだ警官なのか、或いは郵便配達か、また〝黒い手〟の人だったのか、とうとう判らない。

『危いから、待伏せされてるかも知れないと考えて、あなたが帰ってこなければいい、と願ったわ。外泊を祈ったのは、後にも先にもこれだけね』

新聞記者の功名心

意外な反響は、米軍側のものだった。東京駅前の郵船ビルのCICが、私と私の記事とを疑ったのである。「どうしてこの事実を知ったか」「なぜ記事にしたのか——危険だと思わないのか」の二点に集中されて、私への疑惑を露骨に出した調べだった。

調べ官はハワイ生れの二世で、田中耕作という中尉だった。「私の父は百姓なので、コーサクとは、耕す作ると書くんです」というほど、日本人らしい二世だったが、調べは厳しかった。

『どういう目的で書いたか? こんなことをバクロすれば、ソ側スパイに殺されると思わないか。生命が惜しくないのか? 怖くないのか』

これに対して私の答は簡単だ。

『書いたのは新聞記者の功名心からだ。生命も惜しくない。戦争と捕虜とで、二度も死んだはずの生命だ。新聞記者として仕事のために死ぬのは本望だ。自分の記事のために死ぬなんて、ステキだ』

『新聞記者の功名心だって? 生命の危険を冒した功名心? 信じられない、納得できない』

最後の事件記者 p.282-283 家へやってきたらどうしよう

最後の事件記者 p.282-283 バリバリッと、音を立てて、ひろげる。サッと眼を射る大きな横見出し。「自称右翼〝護国青年隊〟の内幕」、肩に太い二本見出し「恐かつ専門の暴力団、分け前は前科で決る」。何ともいえない芳香を放つインク
最後の事件記者 p.282-283 バリバリッと、音を立てて、ひろげる。サッと眼を射る大きな横見出し。「自称右翼〝護国青年隊〟の内幕」、肩に太い二本見出し「恐かつ専門の暴力団、分け前は前科で決る」。何ともいえない芳香を放つインク

『暴力団が子供を誘拐したらどうしようかしら』

そういって、学校へ通う長男にかんで含めるように教えた。長男もオビエた顔で、母の注意を

聞いていた。

『パパの留守に、家へやってきたらどうしよう。私はともかくとして、この子に手を出したりしたら……』

幼い次男を抱きしめて、彼女は真剣に考えた。そしていった。

『浅草あたりでは、一万五、六千円でピストルが買えるというじゃないの。社で前借して買ってきて下さいよ。家へ押し入ってきたら、撃ってやるんだ』

そして、しばらくしてまたいった。

『……ね、パパ、お願いだから死なないでよ。……もう、危険なお仕事はやめて!』

これが、〝ピエロ〟の妻である。ああ! 母は強く、女は弱い!

それなのに、ピエロは、踊るのをやめない。バリバリッと、音を立てて、ひろげる。サッと眼を射る大きな横見出し。「自称右翼〝護国青年隊〟の内幕」、肩に太い二本見出し「恐かつ専門の暴力団、分け前は前科で決る」。何ともいえない芳香を放つインク、何十万、何百万枚と刷ってゆく輪転機のごう音。

——この感覚のエクスタシーが、新聞というマンモスなのか。

※※護国青年隊関連資料/『日本を哭く』推薦の言葉・三田和夫※※

ピエロはとばされる

新聞記者の功名心という、誰にも説明できないピエロの衣裳は、麻薬のように本人だけのエクスタシーなのであろう。

何も光文社ばかりではない。新聞の世界にも、ガラ空きの客席を前に、一人踊り呆けるピエロの自覚が訪れてきている。去年の秋の売春汚職にからむ立松事件が、その最初のステップである。

立松記者は、デタラメやウソを書いたのではない。福田篤泰、宇都宮徳馬両代議士が、売春汚職にからんでいると、しかも、五人の代議士のうち、この二人だけは名前を出しても絶対大丈夫だ、と、ハッキリ聞いたのである。彼は私たちの前で、相手に電話した。立松もピエロだから、何もそんな芝居は必要としない男である。

相手は、検事の肩書を持つ課長である。立松はそれを信じて原稿を書いた。その結果が現役記者の逮捕である。

立松記者の上司もまた、その課長に会って確かめたはずである。社会部のピエロたちは、たと え立松記者を有罪としようとも、懲役に送ろうとも、ニュース・ソースは明かすまいと決心した。本人もそのつもりであったに違いない。