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迎えにきたジープ p.080-081 積極的に経済攻勢を開始

迎えにきたジープ p.080-081 The Soviet even obtained top secrets of Japanese government agencies from these spy people, including members of the Japanese Communist Party as well as members of pro-Soviet groups.
迎えにきたジープ p.080-081 The Soviet even obtained top secrets of Japanese government agencies from these spy people, including members of the Japanese Communist Party as well as members of pro-Soviet groups.

第一期の基礎工作中には目立った動きはない。ただ各国共産党をして活溌に展開させた「平和擁護世界協議会」のストックホルム・アッピールによる戦争反対署名運動で、さらにベルリ

ン・アッピールの「五大国間に平和協定を結べ」というスローガンを国民に訴えていた。

これらは所謂平和攻勢と呼ばれて、主役はあくまで合法政党の日本共産党であった。しかし、代表部では対日理事会でセンセイショナルな発言をして側面掩護することを怠らなかった。この間は日共党員のほかソ連帰還者生活擁護同盟、日ソ親善協会など数団体のメムバーを個人または団体として利用、基礎情報の収集に努めていた。

いわばスパイとなったこれらの人々の情報は日本の官庁機密まで入手しており、これに基いてデレヴィヤンコ中将が対日理事会でバクロ的発言さえ行った例もある。

やがて局面は大きく転換した。対日講和会議が問題となり、着々と進行しはじめていた。代表部は独自の立場から日本における米国市場へ対し、積極的に経済攻勢を開始したのだ。これは日本経済界に強力なソ連側の線を入れ、しかもこれが講和発効後にあらゆる点でソ連側に有利に展開せしめようとした。

まずその徴候が六月ごろから現れた。代表部の態度が極めて友好的になって、戦後最初の正式記者会見までが行われた。引揚問題で代表部への留守家族陳情がしきりに行われていた二十四年から二十五年はじめにかけて、代表部の鉄門に立つ自動小銃の歩哨は冷たい態度だった。明らかに顔に敵対感情が浮んでいた。

『ズドラースチェ・タワーリシチ・ソルダート!』(兵隊さん、今日は)と親しげに呼びかけても、彼は吐き出すように、『ヤー・ニハチュー・スカザール!』(話なんぞしたくない)とノーコメント一点張りだった。もちろん新聞記者も入れなかった。

それがガラリと変って、物好きなGIの求めに応じて、歩哨がニコニコとポーズまで作るという豹変ぶりだった。〝和やかな雰囲気〟がはっきりと現れてきた。

ドムニッツキー通商代表の動きが活溌になってきた。従来から代表部に出入していた商社(例えば藤倉系の藤興産業が大阪ビル内に出していた売店の関係で、繊維品を持って直接代表部へ部員や家族の御用伺いに出入し、たまには食堂で御相伴にあずかって親しく付合っていたように)や、関係のある貿易会社へ、ウマイ話がささやかれ始めたのだ。

樺太の粘結炭、パルプ、高い米国炭にあえぐ製鉄業界や、インチキ巻取紙詐欺にかかるほどの紙業界には大きな魅力だ。内外通商(銀座西二)安宅産業(日本橋通三)進展実業(八丁堀二)日ソ貿易などの各商社が乗気になったのは七月から八月にかけてのことだ。

バーター制でしかもバトル法が適用されているという困難な状況だったが、ソ連側の価格が米国品の半値以下というのだからたまらない。石炭でいえば米炭トン二十八弗乃至二十九弗に対し、ソ連炭は三分の一の十弗だ。

迎えにきたジープ p.090-091 街に流れ出したソ連色

迎えにきたジープ p.090-091 Prime Minister Stalin's new year's message to the Japanese people in 1952, and Ikuo Oyama's Stalin International Peace Prize, both showcase the Soviet friendship with Japan.
迎えにきたジープ p.090-091 Prime Minister Stalin’s new year’s message to the Japanese people in 1952, and Ikuo Oyama’s Stalin International Peace Prize, both showcase the Soviet friendship with Japan.

例えばソ連人が帰国するので船会社で切符を買う。その船賃とほぼ同額のドルが、口座から減っているという工合だ。しかし円関係は分らない。市中銀行に個人名儀の円預金を持っているのは事実だが、実態はつかめないでいる。

失踪したラ氏は四、五万円の金を持っていたというので、この千円札の行方を追及した。新しい千円札なら入手経路が分るからだ。失踪の日東京温泉でミストルコに二千円のチップをやったときいて色めき立ったが、誰が千円札の番号記号を覚えているだろう。話は横道へそれたが、このような話のまつわりつく林炳松氏が帰国した。しかも当局では北京から帰ってきたと信じている。果して再び、日中、日ソ貿易商社たちをあわてさせるような噂をふりまくだろうか。

四 街に流れ出したソ連色

他の政治、文化工作も、この経済工作と並行して活溌に行われていた。

シュメリヨフ文化代表の活躍もすさまじかった。第一期の時代も三菱仲二十一号館の図書館では、自由にソ連図書の閲覧を許していたが、七月ごろからは学生と勤労者に重点を置いた宣伝活動が激しくなった。

文化部内で、隔日か週二、三回の割で映画会、文化会が、日ソ親善協会を通して行われた。早大講堂ではソ連文化展や民族舞踊会が催され、専大ではロシヤ語友の会が文化部のザカローバ女史出席のもとに開かれた。朝鮮人に対しても旧朝連系学生の手で、映画、舞踊会が催された。

二十七年初頭のスターリン首相の年頭メッセーヂ、大山郁夫氏へのスターリン平和賞、いずれもソ連の日本への友好を誇示したゼスチュアだ。ソ同盟共産党小史、ハバロフスク細菌戦犯裁判の全貌など、モスクワ外国語出版所の刊行になる日本文ソ連図書のほか、ロシヤ語パンフレットやグラフが安価に街に流れ出した。ヴォルガの舟唄などソ連製のレコードも、本場もののヴォッカ、食料、調味料までが、街のロシヤ料理店に並んでいる。

政治工作の担当者は明らかではない。別表の、代表部組織をみても分る通り、明らかに政府(赤軍を含む)系統のものと党関係の系統とに分けて考えられる組織だからだ。大きくいえば、前述の経済、文化工作も政治工作に入るだろうし、現象面に現われてくる事実も何工作と分類できないものが多い。ここでは気にかかる事実を並べてみよう。

1952年1月
ソ連代表部機構

代表

陸軍武官府
海軍武官府
政治顧問室
経済顧問室

文化部
通商部
文官部
報道部
領事部
海軍部

連絡将校室
特別情報部
書記室