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編集長ひとり語り第12回 威張りたがり屋のオソマツ

編集長ひとり語り第12回 威張りたがり屋のオソマツ 平成11年(1999)5月22日 画像は三田和夫35歳(右側 昭和32年読売記者時代1957.05.21)
編集長ひとり語り第12回 威張りたがり屋のオソマツ 平成11年(1999)5月22日 画像は三田和夫35歳(右側 昭和32年読売記者時代1957.05.21)

■□■威張りたがり屋のオソマツ■□■第12回■□■ 平成11年(1999)5月22日

むかし“角福戦争”という言葉があったが、この稿の読者諸君にはなんのことか、お分かりにはなるまい。佐藤総理の後継をめぐって、田中角栄と福田赳夫とが相争ったことをいう。この時、福田支持のハズだった中曽根康弘派が、田中支持にまわるという裏切りによって、田中総裁が出現したのだった。

この両者とも、自民党幹事長をつとめている。宿敵の間柄になった2人を評するエピソードがある。予算100万円のプランをもって、角幹事長に申し出ると、ダメか、OKか。OKならすぐ100万円を出してくれる。福幹事長は違う。よいプランだ、と認めてくれたうえで、第1回は30万円、第2回同、第3回同、第4回にも30万円と、分割ではあるが、計120万円出してくれる。人を大切にして育てる福田と、ポンと100万円を出して、その男を利用しようと企む角栄、の違いである。その角栄に食いついた男がいた。早坂茂三だ。

「東京タイムズ記者・早坂茂三」と名乗るその男は、角さんが不快だと思っていることの取材、と称して現れた。「キミは東タイでいくら月給もらっとるンだ。そんなとこやめてオレンとこで働いたらどうだ」「ハイ」

その時、角さんが札束で男のホオを叩いたかどうかは、明らかではない。新聞記者が取材に行って、その取材対象の秘書になるとは、ジャーナリズムの本質からいって、許されることではない。「東京タイムズ」という日刊紙は歴史は古いが、現状は低迷していた。徳間書店の徳間康快が、再建を引き受けた時には、「100人体制でやる」と呼号したのだからその当時は全社員で200人ぐらいだろうか。

徳間の再建策は、新橋通りの汐留めの入り口を押さえるビルを入手しただけで、新聞そのものはジリ貧で、とうとう潰れてしまった。早坂が在籍したのは、徳間以前のことで、政治部とはいっても、10人足らずのもの。「新聞の政治部上がり」なんて、いえたものではない。しかも、東タイOBたちの話によれば「新聞記者なんていえない程度の人だった」と、いわれている。要するに、人材がいなかったから、ツブれてしまったのである。

田中角栄秘書になった早坂が、果たして秘書として重用されていたのか、どうか。残念ながら、私は十分には知らない。しかし、角さんが亡くなったら、ハイそれまでよ、だったことは、想像に難くない。ことに、眞紀子さんのような“強い娘”がいるのだから…。

そして、早坂は“政治評論家”と称して、威張り出す。実力のない奴ほど、威張りたがる。角さんの威光をかりて、すっかり威張りグセがついてしまったのである。しかも、この手合いは、弱いものに対して威張るのだから始末が悪い。

同じように、威張りたがり屋の雄は、ナベツネこと渡辺恒雄・読売社長がいる。だが彼は、頭がいいから、自分が威張ってもいいところ、TPOを心得ていて威張るのだから、早坂茂三とはダン違いである。

彼が、大下英治のドキュメンタリーで追い込まれていた当時、私のもとに電話してきたことがあった。「もしもし、三田さんですか、読売の渡辺ですが…」と、入社年月日で先輩の私には、キチンとサン付けで話す。

夕暮れの新宿。街角でバッタリ出会ったことがある。人の流れをよけて、立ち話だったが、「ごぶさたしてます。お元気ですか」と礼儀正しい。「もうそろそろ、選挙に出る準備しているの」「いや、私は読売をやめません。代議士になっても、藤山愛一郎のように所詮は陣笠ですから…。それよりも、読売の編集局長のほうがいいですよ。編集局長を目指して頑張りますヨ」

頭のいい奴だと感じた。編集局長どころか社長になってしまった。横柄だ、尊大だ、傲慢だ、と悪評は多いが、守るべき礼儀は守るところが、早坂茂三あたりと違う。

国会議員とその秘書。彼らと日常的に接触している政治部記者。こんな連中には、威張りたがり屋が多い。そのほとんどが、気の小さい奴か、実力のない者である。虚勢を張って、それを気取られまいとするので、威張るのである。

しかし、背もたれを立てるよう注意したスチュワーデスを怒鳴り散らして、飛行機を40分も遅らせた早坂茂三などは、言語道断である。自称・政治評論家の馬脚を露にしてしまった、一幕だった。 平成11年(1999)5月22日