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編集長ひとり語り第10回 社会的責任とは何か…

編集長ひとり語り第10回 社会的責任とは何か… 平成11年(1999)5月6日 画像は三田和夫78歳(右側 1999.02.20)
編集長ひとり語り第10回 社会的責任とは何か… 平成11年(1999)5月6日 画像は三田和夫78歳(右側 1999.02.20)

■□■社会的責任とは何か…■□■第10回■□■ 平成11年(1999)5月6日

連休明けのニュースは、小渕首相の訪米が本人の自画自賛にもかかわらず、あまり相手にされず重要視されなかった、という各紙の現地記事である。その次は、菅民主党代表が江沢民国家主席と会談できた。小沢自由党党首が会えなかったというのに…。私の感想では、日本の政治家はどうして日本国内での政策で勝負せず、外国の権威でハク付けしようとするのか、悲しい現実である。

小渕や菅が、相手に迎合したとか、国辱的行動であったとか、批判するのは日本国民として当然のことであって、「事実」(と認められる有力新聞の報道も含めて)を、どう認識するかは、各人の自由である。そして、これは「中傷」とはいわない。それは、2人とも公人であるからだ。

先週号の『編集長ひとり語り』に、「個人に対する中傷で不愉快だ」という反応があった。私の文中で取り上げた個人名は、野村夫妻、山口元議員、松本清張の4人で、誰に対する中傷なのかは、投書は言及していないが、やはり反論しておかねばならない。

私は新聞記者である。ミニコミ紙と言われながらも、30余年『正論新聞』を発行しつづけ、紙上で主張を展開している。誰でもが、いつでも読むことができる、公(おおやけ)の文章である。つまり、社会に公開されているということは、印刷紙面であれ、このインターネット上であれ、筆者の私には、当然「社会的責任」が負わされているのである。その意味では、準・公人である。

「中傷」とは、無実のことをいい、他人の名誉を傷つけることをいう。私が個人名を明記した前記の4氏について、投書者本人にとっては、「信じられない」ことが書かれていたので、中傷という言葉を使ってしまったのであろう。だが、私が書いたことは、残念ながら「事実」なのである。その「事実」の証拠を私はきちんと保存している。

そして、この4氏は、私と同様に社会に対し発言し、行動しているのだから、準・公人なのである。社会的批判に堪えられるだけの言動が求められ、かつ、その批判に対して社会的責任を明らかにする義務がある。その義務を怠るならば、バカだ、チョンだといわれても、やむを得ないだろう。

松本清張について付言しておこう。私が彼に対してとった、著作権法違反の告発は、東京地検で不起訴処分となった。検察は、犯罪(容疑)に対して、国の代理人として起訴(裁判を請求)か不起訴を決める。不起訴には、嫌疑なしか、政策的判断(微罪、容疑者更生など)などがある。しかし、私の告発は「時効不起訴」だったのである。解説すれば、盗作の事実はあるが、時効だ、ということである。だから、彼は文化勲章も受けられなかったのである。この一事で全て、彼の人となりが理解できよう。 平成11年(1999)5月6日

編集長ひとり語り第32回 検察一体の原則

編集長ひとり語り第32回 検察一体の原則 平成11年(1999)10月23日 画像は三田和夫54歳(右側 松㐂鮨1975年)
編集長ひとり語り第32回 検察一体の原則 平成11年(1999)10月23日 画像は三田和夫54歳(右側 松㐂鮨1975年)

■□■検察一体の原則■□■第32回■□■ 平成11年(1999)10月23日

野村沙知代の不起訴が確定した。嫌疑なし不起訴ではなく、嫌疑不十分不起訴だ。一度東京地検が不起訴処分にしたのに対し、告発人・浅香光代が検察審査会に「処分不当」の申し立てをし、検審が信じられないほどのスピード審査で、「不起訴不当」の結論を出したのだが、検察は、時効ギリギリの18日に、再度不起訴の処分を決定した。さる10月1日の不起訴処分から18日目であった。

私の「結婚の虚偽事実公表罪」容疑の告発は、10月1日に不起訴になり、私は検審に申し立てはしなかった。検審があのスピードで審査するとは、信じられなかったからだ。したがって、学歴詐称の浅香告発が検審で「不起訴不当」の結論を得たのだった。

私の「検察との付き合い」は長い歴史がある。昭和24年から25年にかけての1年間、警察まわりを卒業して、法務庁(当時はまだ庁だった)司法記者クラブへ。文系で法律も知らないのだから、六法全書との戦いだ。まだ刑政長官などという役職があった。そして、“検察の派閥対立”の芽をみつめる。

約1年ののち、国会遊軍を経て警視庁記者クラブへ。そしてさらに、昭和32年司法記者クラブのキャップになってまた1年勤務する。昭和33年夏に、横井英樹殺害未遂事件(安藤組事件)に関係して退社した。昭和42年、独力で正論新聞を創刊。「検察体質改善キャンペーン」を開始したのである。

私が、読売のクラブ・キャップの時、部下の記者の一人が酒に酔った。新年の御用始めの午後、検察との懇親の席である。突如、怒声が上がったので彼の許に駆けつけた。彼は一人の検事に向かって、怒鳴りまくる。「ナンダ、お前たち検事は! この世の中で、検事だけが最高のインテリだって、ツラしやがって! そのオゴリ高ぶったツラが気に食わねえ!」と。場内が静まり、検事や他社の記者の非難の視線の中を、なお怒鳴りつづける彼を抱いて、私は彼を連れ出した。当時の記者クラブには、彼の言葉に拍手を贈るものと、検事のオヒゲのチリを払う手合いと、ふたつの流れがあった。そして彼の酔余の怒鳴り声の対象が、「検察の一般像」であった。

このS記者の“暴言”は、多くの検事の持っていた「オゴリ」に反省を求めたものだったのだが、効果はなかった。しかし、検事にとっても、このように面罵されたのは、空前絶後のことであったろう。

正論新聞の検察キャンペーンの結果、二代の検事総長が努力して、派閥対立の解消のため、足留めを食っていた“負け派閥”の幹部2人を検事長とし、その1人である大阪検事長の岡原昌男は、定年後に最高裁判事に転出し、のちに最高裁長官にまで進んだ。

だが、派閥対立がこうして解消し、「検察一体の原則(検事は上から下まで一体だ)」が確立され、緊張感がなくなったからだろうか、ヤメ検の悪徳弁護士(金儲け専門)が出るばかりか、則定東京検事長の女遊び、偽名でのホテル同伴などの不祥事が起きた。これもまた、検察一体の原則なのか、浅香告発の当初の“門前払い”などは、いささか理解に苦しむところである。事後の検察の対応をみると、告発受理、不起訴の報道、否定の記者会見、不起訴処分の発表、検審申し立てへのコメント発表、不起訴処分——この流れには納得できない部分が多すぎる。検察は、いったい、どうなってしまったのか。

また、その強権ぶりを物語るのは、オウム麻原の主任弁護人だった、安田好弘弁護士が顧問会社をめぐる強制執行妨害罪に問われて昨年12月に逮捕された件だ。3度の保釈許可が検察の抗告で却下され、4回目のさる9月27日ようやく許可になった。懲役2年の刑の容疑ですでに10カ月も拘置されているのである。

この強権ぶりと、野村沙知代不起訴決定との間に、あまりにも検察官の権力の不公平を感ずるのである。日本の各界、各層の世紀末現象の中で、私たちは、いったいナニを信用できるのか。 平成11年(1999)10月23日