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最後の事件記者 p.416-417 あなたの全盛時代はいつも銀座

最後の事件記者 p.416-417 「それはいいっこなしですよ。女房には逃げられるし、生きる希望も元気もなく、そうかといって死ねもせず、こうして昔のよしみで、あなたに就職を頼みにくる始末ですよ」
最後の事件記者 p.416-417 「それはいいっこなしですよ。女房には逃げられるし、生きる希望も元気もなく、そうかといって死ねもせず、こうして昔のよしみで、あなたに就職を頼みにくる始末ですよ」

にせのルンペン
ライトが消えて、暗い舞台のドン帳のかげで、ドラが鳴りひびいて、幕が静かに上る。

オバさんは、ガラリと入ってきた客の顔をみてニッコリとする。サッソウとした青年記者のうしろから、油気のない頭髪の、貧乏たらしい男がついてきた。厳寒の候だというのに、オーバーもきていないのだ。二人が台の前に腰かけると、記者は酒を注文した。

「まア、Tさん。久し振り。アンタはいつもパリッとして、元気でいいわねえ」

「イヤア、ここしばらく忙しくてね」

オバさんと彼の挨拶がすむと、酒が出される。

「うまい。やはり一級酒は違うな。もう、もっぱらショウチュウで、しかも、このごろは御無沙汰ばかりだから……」

男はいやしく笑って、ナメるように酒をのむ。オバさんはフト、この奇妙な二人の取合せに疑問を感じたようだ。Tは素早く感じとって、

「しかし、鈴木さんあなたの全盛時代はいつも銀座だからね」

男は鈴木勝五郎といった。下品な仕草で酒を味わうようにピチャピチャと舌を鳴して、

「それはいいっこなしですよ。女房には逃げられるし、生きる希望も元気もなく、そうかといって死ねもせず、こうして昔のよしみで、あなたに就職を頼みにくる始末ですよ」

終りの方は、自分にいいきかせるように、やや感慨をこめていった。鈴木という名も、間違えないよう、同僚の名前を合せたものだ。私はオバさんの視線が、チラと自分に注がれたのを感じた。

「しかしね、Tさん。近頃の読売は一体何サ。佼成会のことをあんなにヒドク書いてさ。あたしァ、アンタにとっくりいって聞かせねば、と思ってたんだよ」

「ア、そうそう。オバさんは祈り屋だったッけね。だけど、佼成会だったのかい? それじゃくるんじゃなかった。読売と佼成会とじゃ、全然マズイじゃないか」

「イエ、いいんですよ。それはそれですから、いらしてもいいんだけどサ」

オバさんは、謗法罪といって、佼成会の悪口をいうとバチがあたる罪だとか、読売の記事についての、冗談まじりの口論をはじめる。鈴木は、はじめ興味なさそうに、やがて、だんだんと聞耳を立ててくる。

「もっともアンタは、♪今日も行く行くサツ廻り、ッてンだから、あの記事には関係ないんでしょ」

「そうさ。もっとエライ記者がやってるのだよ」

「じゃあ、本当は謗法罪で大変なところなんだけど、まあ勘弁してあげる。お悟りといって、バチが当るから、決してあんな記事は書いちゃダメですよ」

酒をのむ手も止めて、二人の話を聞き入っていた鈴木が、この時フイと口を開いた。

「しかし、オバさん。その妙佼さまを拝むと、本当に救われるかい? オレのような奴でもかい?」

オバさんは確信にみちて言下に答えた。

最後の事件記者 p.418-419 計画的かつ継続的なウソの辛さ

最後の事件記者 p.418-419 こうして、鈴木勝五郎こと私の、佼成会へ入会のキッカケは作られた。成功したのであった。オバさんはコロリだまされて、不幸な私のため涙まで浮べてくれたのである。
最後の事件記者 p.418-419 こうして、鈴木勝五郎こと私の、佼成会へ入会のキッカケは作られた。成功したのであった。オバさんはコロリだまされて、不幸な私のため涙まで浮べてくれたのである。

「しかし、オバさん。その妙佼さまを拝むと、本当に救われるかい? オレのような奴でもかい?」
オバさんは確信にみちて言下に答えた。

「エエ救われますとも! 妙佼先生という尊い方がいらして、真心から拝めば、キット有難い御利益がありますよ。ただし、いい加減な気持じゃダメですよ」

「だけど、本当かなあ」

鈴木は呟くようにいって、グイと盃をあけた。そして、考えこむ。オバさんはあわれむように鈴木をみつめた。

「一体どうしたのさ、ワケを話してごらんよ。奥さんに逃げられたとかって、ウチにこうして呑みにきたのも、妙佼先生のお手配なんですよ。エ? ネエ、Tさん」

しかし、鈴木は耳に入らないかのように考えこむ。グイ、グイと盃をあけながら、「本当かなあ」「救われるかなあ」と、ひとり呟いている。ややあって、鈴木は思いきったように、顔をあげて、真剣にオバさんをみつめていった。

「オバさん。オレはやってみるよ。その有難い教えというのを、オレにも教えてくれよ。もう一度、一人前になりたいんだよ」

鈴木は声を落して、オバさんと連れの記者とに、彼の罪多い過去から、行き詰った現在までを語り出した。

遂に潜入に成功

こうして、鈴木勝五郎こと私の、佼成会へ入会のキッカケは作られた。成功したのであった。

オバさんはコロリだまされて、不幸な私のため涙まで浮べてくれたのである。

ウソも方便と、ホトケ様がいわれたそうだが、この佼成会の潜入で、計画的かつ継続的なウソの辛さ、苦しさをしみじみと味わわせられた。一時逃れの方便のためのウソとは違って、この人の良いオバさんの善意に対し、ウソをつきつづけるということは、今だに寝覚めの悪い感じだ。

オバさんを信じこませるため、途中でわざわざ便所に立った。オシリの破れをみせるためだ。すると、オバさんは「可哀想に」と呟いたという。効果的ではあったワケだ。

導いてくれる(入会紹介をしてくれる)と決れば、もう短兵急である。明朝の約束をして、それこそ明るい気持で店を出た。駅の近く、暗い横丁へ待たせてあった車にサッと飛びこんだ。

ところが、その衣裳のままで、社の旅館に入ったところが、顔見知りの政治部記者が、廊下の向うで私をみていた。その記者はあとで女中に向って、「どうしてアンナ汚いのを泊めるのだ」と怒ったという。女中たちと大笑いしたが、自信もついてきた。

翌朝早く、その呑み屋へ行って、オバさんを叩き起した。彼女は少女と一緒に、店の奥の一畳ほどのところに、センベイ布団でゴロ寝だ。モゾモゾと起き出してきて、新聞紙で粉炭を起す。洗面すると、佼成会発行の総戒名という、先祖代々の戒名に向い、タスキ、ジュズの正装で、お題目を二十回ばかり、朝のお勤めである。

それから朝食だが、これには驚いた。やっとおきた粉炭でお湯をわかし、丼に入れた洗わないウドン玉の上に、おソウザイ屋のテンプラをのせ、醤油をかける。それにお湯をそそいだ、即席

テンプラうどんだ。不潔な上にまずそうで、吐き気すら催しそうだ。

最後の事件記者 p.420-421 支部長を中心に〝法座〟を開いて

最後の事件記者 p.420-421 まず、ザンゲをしなければならない。肩を落し、低い声で、とぎれとぎれに語る私に、オカミさんたちの、好奇の視線が集まる。……とうとう女房は逃げてしまったのです。私はすてられました
最後の事件記者 p.420-421 まず、ザンゲをしなければならない。肩を落し、低い声で、とぎれとぎれに語る私に、オカミさんたちの、好奇の視線が集まる。……とうとう女房は逃げてしまったのです。私はすてられました

それから朝食だが、これには驚いた。やっとおきた粉炭でお湯をわかし、丼に入れた洗わないウドン玉の上に、おソウザイ屋のテンプラをのせ、醤油をかける。それにお湯をそそいだ、即席

テンプラうどんだ。不潔な上にまずそうで、吐き気すら催しそうだ。

だが、おばさんも外出姿になると、精一ばいのオシャレだから、電車に乗ると、私のみすぼらしさたるや、彼女が同行するのも恥ずかしかろうと思うほどだ。蓬髪、不精ヒゲ、オーバーなしの穴あきズボンに、ヒビ割れ靴というのだから……。

こちらも国電に乗ると緊張した。誰か知人に出会って、「よう」などと、肩を叩かれたら大変。「何だ、読売はやめたのか?」と、きかれること間違いなしの格好だからだ。伏眼がちに、四方を警戒しながら、やっとのことで新宿へ。そしてバスで本部へ。

行ってみると、オサイ銭をあげるオバさんの気前の良さに驚いた。冬のさ中にあんな朝食をとるオバさんが、実にカルイ気持で三百円もの大マイを、妙佼先生に捧げる。イヤ、ふんだくられているのだ。

バスを降りると、参拝者の列がつづく。それが、いずれも支部と自分の名を書いたノシ袋に、オサイ銭を入れて、本部拝殿前の三宝の上に差出す。名前が明らかにされるのだから、誰でも数枚の百円札はハズまざるを得ない。しかも、信者の勤労奉仕の道路整理係がいて、信者の群れを本部拝殿前へと追いこむのだ。そこを通らぬと、直接は修養道場へ行けないように、交通制限をしている。

そして、拝殿前でこのノシ袋を市価より高く売っているのは、教祖一族のものだから、二重、三重のサク取である。

金の成る礼拝道路を経て、修養道場へ入る。道場というと立派そうだが、要するにクラブである。大広間になっていて、支部ごとに別れて、支部長を中心に〝法座〟を開いている。輪(和)になって、妙佼先生の代理ともいうべき支部長さんの前で、ザンゲしたり教えを受けたりする場所だ。

しかし、実際は、例のノシ袋で支部ごとのオサイ銭上り集計表が作られて、支部長が「もっと熱心に信心しなければ」と、金のブッタクリを訓示する場所である。〝熱心に信心する〟ということは、〝毎日本部へ来る〟ことである。本部へ来れば、あの礼拝道路を必ず歩かせられるのだから。

支部長の御託宣

オバさんの支部長への報告の済むまで、隅ッこに坐っていた私は、やがて法座へ加えられた。そこで、まず、ザンゲをしなければならないのである。

肩を落し、低い声で、とぎれとぎれに語る私のセリフに、年配のオカミさんたちの、好奇の視線が集まる。……とうとう女房は逃げてしまったのです。私はすてられました……という件りにきたとき、支部サン(支部長)の声がかかった。

「アンタ、何て名前だっけね」

「ハイ、鈴木勝五郎です」

最後の事件記者 p.422-423 またオヨメさんがもらえるなら

最後の事件記者 p.422-423 男の入会者はすべて、「色情のインネン」「親不孝」のどちらかである。女に対しては、「シュウト、シュウトメを粗末にしたからだよ。思い当ることがあるだろ?」である。
最後の事件記者 p.422-423 男の入会者はすべて、「色情のインネン」「親不孝」のどちらかである。女に対しては、「シュウト、シュウトメを粗末にしたからだよ。思い当ることがあるだろ?」である。

「アンタ、何て名前だっけね」
「ハイ、鈴木勝五郎です」

支部サンは、掌に字を描いて、その名前の画数を数えていたが、吐き出すように、自信をこめて断言した。

「色情だよ! オ前さんには、名前の示す通り、色情のインネンがあるンだよ。だから奥さんに逃げられたんだ」

「ハ、ハイ」消え入りそうな声だ。

「だけどね。熱心に信心すれば、この教えは有難いもんでね。御利益があるよ。妙佼先生の有難いお手配でね、前の奥さんが知ったら口惜しがるような、いい奥さんがまた御手配になりますよッ」

高圧的にいいきる支部長の言葉は、確かに神のお告げのように、何かいいようのない新しい力を、私の体内に湧き起らせた。

また、新しいオヨメさんがもらえる! 現実には八年の古女房が、二人の子供とともにデンと居坐っている私にさえ、この言葉は不可思議な魅力を持っていた。ただし〝熱心に信心すれば〟イコオル〝うんとおサイ銭をあげれば〟である。

社へ帰って報告したら、景山部長はじめ社会部のデスクは爆笑につつまれた。

「これァ邪教じゃないよ。ズバリ、最初に色情のインネンがあると喝破したからな」

「妙佼サマのお手配で、またオヨメさんがもらえるなら、オレも信者になるよ」

と大変な騒ぎだった。

その後の法座で見聞したところによると、男の入会者はすべて、「色情のインネン」「親不孝」のどちらかである。聖人君子はさておき、男の子でこの二つに該当する過去をもたないものはあるまい、女に対しては、「シュウト、シュウトメを粗末にしたからだよ。思い当ることがあるだろ?」である。これもまたムベなるかなである。

三百円ほど支払って、タスキなどの一式を買わされ、翌日は導き親であるオバさん宅の総戒名、支部サン宅のオマンダラ(日蓮上人筆の経文のカケ軸)、本部と、三カ所へお礼詣りだ。

お礼詣りが、無事とどこおりなく済むと、翌々日は祀り込みだ。本部で頂いた鈴木家の総戒名を、支部の幹部が、私の自宅へ奉遷し参らせて、諸霊安らかに静まり給えかしと、お題目をあげる儀式である。

このことのあるのは、かねて調査で判っていたから、城西のある古アパートの一室を、知人の紹介で借りておいた。家主には事情を話し、チャブ台その他、最少限の世帯道具も借りておいたのであった。

幹部婦人の愛欲ザンゲ

その当日、幹部サンと導き親のオバさん、それにもう一人、佼成会青年部の妙齢の乙女と三人が、連れ立って本部からそのアパートへやってきた。

儀式が終ってから、幹部サンはやがて法話のひとくさりをはじめたのであった。その法話も、

いつかザンゲに変っていた。

最後の事件記者 p.424-425 幹部サンやオバさんではお断りだナ

最後の事件記者 p.424-425 その子は眼の下のホクロが色白の肌に鮮やかで魅力的だ。こんな妄想にふけっていたのも、やはり、支部サンに喝破されたように、もって生れた色情のインネンらしい。
最後の事件記者 p.424-425 その子は眼の下のホクロが色白の肌に鮮やかで魅力的だ。こんな妄想にふけっていたのも、やはり、支部サンに喝破されたように、もって生れた色情のインネンらしい。

幹部婦人の愛欲ザンゲ
その当日、幹部サンと導き親のオバさん、それにもう一人、佼成会青年部の妙齢の乙女と三人が、連れ立って本部からそのアパートへやってきた。
儀式が終ってから、幹部サンはやがて法話のひとくさりをはじめたのであった。その法話も、

いつかザンゲに変っていた。

「これでネ、私も色情のインネンがあってネ。一度では納まらなかったのですよ」

優しい調子でこんな風に話しはじめた幹部サンは、彼女の悲しい愛欲遍路の物語をはじめた。富裕な商家の一人娘に生れた彼女は、我儘で高慢に育った。年ごろになったころ、同郷の知人からあずかって、店員として働いていた青年に恋をされた。

しかし、気位が高くて、店員なんぞハナもひっかけなかった彼女の態度に、その青年は破鏡の胸を抱いて故郷へ帰っていった。

「あとでそのことを知ってネ。私の色情のインネン、そして、そのごうの深さに恐ろしくなりましたよ」

最初の夫との結婚話、それに失敗した第二の結婚、そして、いまの生活——それは、彼女の性欲史であった。彼女のその物語は、もう窓辺に宵闇をただよわせている部屋の薄暗さと相俟って私は何かナゾをかけられているのかナ、とも考えたりした。

他人に恋心をよせられるのも、再婚するのも、浮気するのも(とは彼女は口にこそしないが)、すべてこれ、色情のインネンのしからしむるところだという。そのごうから逃れるための修養だというが……。

「しかしネ。なかなか修業が足りなくて……、あなたも、熱心に修業しなくちゃあネ」

色情のインネン、妙佼先生のお手配、新しい奥さん、等々。私は正座してうつむき、抜けかけ

た膝をみつめ、ジュズをにぎってそんなことを考えていた。その視線の中に、隣にならんで坐っている、女子青年部員の、紺のスカートと、発育したモモとか入る。

美しい部類に入るその子は、眼の下のホクロが、色白の肌に鮮やかで魅力的だ。

——彼女に、色情のインネンはないのだろうか。この子が、妙佼先生のお手配で、オレのものになるのかナ。幹部サンやオバさんではお断りだナ。

こんな妄想にふけっていたのも、やはり、支部サンに喝破されたように、もって生れた色情のインネンらしい。帰社すると、夜は銀座の紳士、昼はウラぶれた失業者。こんな二重生活が一週間余りつづいて、潜入ルポができ上った。

今でも、新宿から中野あたりを通ると、私の二人の相手役女優——オバさんとホクロの乙女を想い出す。

教祖の身元アライ

この立正佼成会キャンペーンは、正直のところいって、邪教という結論も出せなければ、叩きつぶして解散させるということも出来なかった。佼成会側の読売不買運動も、地域的には成功したが、「読売を見ると眼がつぶれる」という宣伝も逆効果となって、信者の中に〝憎読者〟もでき、読売はかえって部数がふえるという結果だったから、いうなれば読売の判定勝ちというところであった。

最後の事件記者 p.426-427 マサの奴に〝生き仏さま〟なンて

最後の事件記者 p.426-427 当時の銘酒屋の建物をはじめ、談話者の写真をも撮っておいた。意外だったのは、マサさんを苦界から身請けした第一の夫、大熊房吉さんに、口止め策がとられていなかったことだ。
最後の事件記者 p.426-427 当時の銘酒屋の建物をはじめ、談話者の写真をも撮っておいた。意外だったのは、マサさんを苦界から身請けした第一の夫、大熊房吉さんに、口止め策がとられていなかったことだ。

教祖の身元アライ
この立正佼成会キャンペーンは、正直のところいって、邪教という結論も出せなければ、叩きつぶして解散させるということも出来なかった。佼成会側の読売不買運動も、地域的には成功したが、「読売を見ると眼がつぶれる」という宣伝も逆効果となって、信者の中に〝憎読者〟もでき、読売はかえって部数がふえるという結果だったから、いうなれば読売の判定勝ちというところであった。

この時に一番面白かったのは、生き仏様の妙佼教祖の、過去の色情のインネンを正確に取材して、バクロしたことであった。佼成会にとっても、教祖の過去が売春婦であったということは、信仰者としての適格性に影響してくるので、一番痛いことではなかっただろうか。

噂として、彼女がオ女郎サン上りだということは、あちこちでしばしば聞かされた。だが、確実なデータは誰も知らない。紙面で書くのは、少しエゲツないので、書かなくとも〝伝家の宝刀〟として正確な事実だけは調べておこう、というので、その取材を私が買って出た。

大正十年前後、約四十年も前の事実を、正確に調べようというのだから、困難な取材であることは覚悟したが、何かマリー・ベルの名画「舞踏会の手帖」を思わせる、たのしみがあった。

佼成会の機関誌によると、御先祖は石田三成を散々に悩ませた、北条側の大将成田下総守の家臣、長沼助太郎という武士で、成田家の滅亡により、自領の志多見村に落ちのび、土着して半農の大工になったという。

戸籍によれば、妙佼こと長沼マサ女は、明治二十二年十二月二十六日、埼玉県人長沼浅次郎の長女として、同県北埼玉郡志多見村に生れた。結婚は戸籍上二回である。

これだけの資料をもって、自動車一台とともに、埼玉、茨城両県下を、一週間にわたって走り廻った。古老たちを土地土地でたずね歩き、彼女が醜業に従事した証拠を探し出したのである。

困ったのは、彼女の同僚だったオ女郎サンを、その家庭にたずねた時である。すでに孫までいる人、しかも耳でも遠くなっていようものなら、怒鳴るような大声で、四十年前のことを、しか

も他聞をはばかる遊廓のことを聞くものだから、あるところでは、息子に怒られて追出されてしまった。

もちろん、当時の銘酒屋の建物をはじめ、談話者の写真をも撮っておいたのである。意外だったのは、マサさんを苦界から身請けした第一の夫、大熊房吉さんに、口止め策がとられていなかったことだ。或いは、口止めが行われていたのを、私が話させてしまったのかもしれない。大熊さんは、はじめはなかなか話そうとせず、「昔は昔だけど、今はあんなにエラクなったのだから、身分にさわる」といって、話すのをイヤがったほどだ。

それが、終いには、

「会からも、いい役につけるから、来いといわれたんですが、会に行けば、マサに頭を下げなければならない。誰が、マサの奴に〝生き仏さま〟なンて、頭が下げられますか。奴は昔はオレの女房だったし、女郎だったンだ。そりゃ、有難やと手をもめば、金になることは判っているンだけど、とても男にゃア出来ねえことだ」

と、気焔をあげる始末だった。

新興宗教の現世利益

マサさんの第一の婚姻の前には、小峰某という情夫がいて、その男のためかどうか、大正十年ごろ、彼女は茨城県境町のアイマイ屋、箱屋の酌婦となった。

最後の事件記者 p.428-429 スクラップの一頁ごとが思い出にみちた仕事

最後の事件記者 p.428-429 私は自分の書いた記事のスクラップを丹念につくり、関係した事件の他社の記事から参考資料まで、細大もらさず記録を作ってきたので、私の財産の一番大きなものは、この〝資料部〟である。
最後の事件記者 p.428-429 私は自分の書いた記事のスクラップを丹念につくり、関係した事件の他社の記事から参考資料まで、細大もらさず記録を作ってきたので、私の財産の一番大きなものは、この〝資料部〟である。

新興宗教の現世利益
マサさんの第一の婚姻の前には、小峰某という情夫がいて、その男のためかどうか、大正十年ごろ、彼女は茨城県境町のアイマイ屋、箱屋の酌婦となった。

境町というのは、利根川をはさんで、埼玉県関宿町に相対する宿場で、箱屋の酌婦というのはいわば宿場女郎だ。この箱屋も主人が死んで代変りとなり、その建物は伊勢屋という小間物玩具店になっている。箱屋の娘二人は、それぞれ老齢ながら生存しており、当時の酌婦二人も生きていた。

やがて彼女は、利根川を渡って、郷里の埼玉県南埼玉郡清久村に帰ってきた。といっても廃業したのではなく、同村北中曾根の銘酒屋斎藤楼に住みかえたのである。この店は同郡久喜町北中曾根三番地となって、草ぶきの飲み屋の部分だけ残っており、酌婦たちが春をひさいでいた寝室の部分は、取壊されてしまってすでにない。

この斎藤楼で、彼女は第一の夫大熊さんに出会った。大熊さんは、東京京橋の床屋に徒弟奉公中の職人。清久村の出だが江戸ッ子気質だ。彼は床つけの良いマサさんが気に入って身請けの決心を固めた。

借金を聞くと、金十円だという。大正十一年ごろの十円だから大金である。大熊さんは自分の貯金の五円だけでは足りないので、来年年季があけたら店を持つという名目で、アチコチ借金して、さらに五円を工面した。そして気前よくポンと十円を投げ出して、マサさんを身請けし、東京で同棲した。二人が正式に結婚したのは、年季があけてからの大正十二年十二月五日のことであった。

ところが、だんだん祈り屋的性格が出てきたので、二人の仲はうまくゆかず、性格の相違を理

由に、昭和四年二月九日、ついに協議離婚した。マサさんは霊友会へ進み、大熊さんは今でも清久村で床屋をしている。

どうやら、新興宗教の〝現世利益〟というのは、色情のインネン——性のよろこびにあるらしい。事実、「恋」は人に希望を与え、明るくさせ、よろこびを与える。打ちひしがれた人を、ふるい立たせる〝現世利益〟である。

新聞記者というピエロ

我が名は悪徳記者

ここまで、すでに三百二十枚もの原稿を書きつづりながら、私は自分の新聞記者の足跡をふり返ってみてきた。私は自分の書いた記事のスクラップを丹念につくり、関係した事件の他社の記事から、参考資料まで、細大もらさず、記録を作ってきたので、私の財産の一番大きなものは、この〝資料部〟である。

スクラップの一頁ごとが、どれもこれも書きたい思い出にみちた仕事ばかりである。それを読み返し、関連していろいろな思いにかられるうちに、心の中でハッキリしてきたことは、「新聞」

に対する、内部の人間、取材記者としての反省であった。私の立場からいえば、とてもおこがましくて、「新聞批判」などといえないのだ。あくまで「自己反省」である。

最後の事件記者 p.430-431 「事件記者と犯罪の間」という手記

最後の事件記者 p.430-431 新聞雑誌にとりあげられた私の報道をみて、私が「グレン隊の一味」に成り果ててしまったことを知って、いささか過去十五年の新聞記者生活に懐疑を抱きはじめたのであった。
最後の事件記者 p.430-431 新聞雑誌にとりあげられた私の報道をみて、私が「グレン隊の一味」に成り果ててしまったことを知って、いささか過去十五年の新聞記者生活に懐疑を抱きはじめたのであった。

新聞記者というピエロ
我が名は悪徳記者
ここまで、すでに三百二十枚もの原稿を書きつづりながら、私は自分の新聞記者の足跡をふり返ってみてきた。私は自分の書いた記事のスクラップを丹念につくり、関係した事件の他社の記事から、参考資料まで、細大もらさず、記録を作ってきたので、私の財産の一番大きなものは、この〝資料部〟である。
スクラップの一頁ごとが、どれもこれも書きたい思い出にみちた仕事ばかりである。それを読み返し、関連していろいろな思いにかられるうちに、心の中でハッキリしてきたことは、「新聞」

に対する、内部の人間、取材記者としての反省であった。私の立場からいえば、とてもおこがましくて、「新聞批判」などといえないのだ。あくまで「自己反省」である。

この本をまとめるにいたったのも、もとはといえば、文芸春秋に発表した、「事件記者と犯罪の間」という手記がキッカケである。その手記の冒頭の部分にふれたのだが、新聞を去ってみて、外部から新聞をはじめとするジャーナリズムを、みつめる機会を得たのであった。つまり、それは、こういうことだ。

新聞雑誌にとりあげられた私の報道をみて、私が「グレン隊の一味」に成り果ててしまったことを知って、いささか過去十五年の新聞記者生活に懐疑を抱きはじめたのであった。

失職した一人の男として、今、感ずることは、「オレも果してあのような記事を書いたのだろうか」という反省である。

私は確信をもってノーと答え得ない。自信を失ったのである。それゆえにこそ、私は〝悪徳〟記者と自ら称するのである。

と、いうことであった。

そして、この一文に対して、実に多くの批判を受けたのである。私の自宅に寄せられたのもあれば、文芸春秋社や読売にも送られてきた。あるものは激励でありあるものは戒しめであった。この一文が九月上旬に発売された十月号だったので、まもなく十月一日からの新聞週間がやってきた。その中でも、私の事件への批判があった。

ことに、私の妻には、彼女なりの、私の事件や、新聞やに対する批判があった。彼女には、私が退職しなければならない、退職したということが、どうしても納得できないのであった。

私は構わない。私は、自分が今まで生きてきた世界だけに、その雰囲気はよく知っている。それを私はこう書いた。「冷たい男と知りながら、血道をあげて、すべてのものを捧げつくして捨てられた女、しかし、それでも女は、その非情な男を慕わざるを得ない——これが、新聞社と、新聞記者の間柄である。私は、自分の新聞記者としての取材活動が、失敗に終ったことを知った。〝出来なければボロクソ〟である。私は静かに辞表を書いた。逮捕され、起訴されれば、刑事被告人である。刑事被告人の社員は、社にとっては、たとえどんな大義名分があろうとも、好ましいことではない。私は去らなければならないのだ」と。

文春記事の反響

「ね、パパ。暮のボーナスで、家中のフトンカバーを揃えましょうよ」

「エ? 暮のボーナスだって? どこからボーナスが出るンだい?」

「アッ、そうか!」

つい最近でも、妻は私がまだ読売にいるつもりで、こんなことをいう。彼女には、結婚以来の十年間の辛い、苦しい、そして寂しい、事件記者の女房生活から、私が社を去ったということがこのように納得できない。私が留置場にいる時、彼女は、社へ金を受取りかたがた、エライ人に

挨拶をした。

最後の事件記者 p.432-433 去るのが当然であると思う

最後の事件記者 p.432-433 警視庁へ出頭する直前、務台総務局長は、「キミ、記者として商売熱心だったんだから仕様がないよ。すっかり事件が片づいたら、また社へ帰ってきたまえ」と
最後の事件記者 p.432-433 警視庁へ出頭する直前、務台総務局長は、「キミ、記者として商売熱心だったんだから仕様がないよ。すっかり事件が片づいたら、また社へ帰ってきたまえ」と

文春記事の反響
「ね、パパ。暮のボーナスで、家中のフトンカバーを揃えましょうよ」
「エ? 暮のボーナスだって? どこからボーナスが出るンだい?」
「アッ、そうか!」
つい最近でも、妻は私がまだ読売にいるつもりで、こんなことをいう。彼女には、結婚以来の十年間の辛い、苦しい、そして寂しい、事件記者の女房生活から、私が社を去ったということがこのように納得できない。私が留置場にいる時、彼女は、社へ金を受取りかたがた、エライ人に

挨拶をした。

「これからは、お友達として付合いましょう」

その人のこの言葉を、妻は何度も持ち出して、私に聞く。

「これ、どういう意味?」

彼女をしていわしむれば、あんなに肉体をスリ減らし、家庭生活をあらゆる面で犠牲にして努めてきたのは、社のためだったのではないのか、ということらしい。しかも、今度の事件も、取材であったのだから、所詮は社のためである。それなのに、辞表を受理するとは、というのである。

だが、私はそう思わない。クビを切られずに、辞表を受取ってもらえて有難いことだと思う。その上、十四年十カ月の勤続に対して、三十万百八十四円の退職金、前借金を差引いて、三万円の保釈金を払って、なおかつ九万円もの金が受取れたことを、ほんとうに有難いことだと思う。一日五百九十円の失業保険は九カ月もつけてもらえた。

私は満足であり、爽快であり、去るのが当然であると思う。

ことに、警視庁へ出頭する直前、務台総務局長は、「キミ、記者として商売熱心だったんだから仕様がないよ。すっかり事件が片づいたら、また社へ帰ってきたまえ」と、温情あふれる言葉さえ下さった。私は、それでもう、退社して逮捕されることも気持良く、満足であった。「記者としての私」を、理解して頂けたからである。この時の気持が、満足であり、爽快であり、去る

のが当然だ、という気持なのだ。

保釈出所して、社の人のもとへ挨拶に行った。その人は、私から、記者としての〝汚職〟が出てこなかったことを、よろこんで下さった。もし、〝汚職〟が出たらその人も困るのであろう。だが、その人はいった。

「ウン、局長や副社長には、手紙で挨拶しておけばいいだろう」——もはや、会う必要はないということだった。

ある先輩は忠告してくれた。

「書きたい、いいたいと思うだろうが、裁判が済むまで、何も書くなよ。そして、また社へ帰ってくるんだ。無罪になる努力をするんだ。書くなよ」——何人もからこの有難い言葉を頂いた。だが、私はこの教えにそむいて、書いてしまった。

文春を読んだ先輩がいった。

「惜しいことをした。どうして、あれに批判を入れたのだい? あの一文で、君が筆も立つし、記者としての能力も、十分証明しているのに、社に帰るキッカケをなくしたよ」

「しかし、ボクは今でも、読売が大好きだし、大きくいって新聞に愛情を持っているんです。あれだって、愛情をこめて書いたつもりで、エゲツないバクロなんか、何もないじゃないですか。そうじゃありませんか」

友人がいった。

最後の事件記者 p.434-435 私は一人で護国青年隊事件を

最後の事件記者 p.434-435 「三光」という支那派遣軍の暴虐ぶりをバクロした本のことで、この暴力団はK氏をおどかし、絶版を約束させたばかりか、金をおどし取ったという話を聞いたのである。
最後の事件記者 p.434-435 「三光」という支那派遣軍の暴虐ぶりをバクロした本のことで、この暴力団はK氏をおどかし、絶版を約束させたばかりか、金をおどし取ったという話を聞いたのである。

ある先輩は忠告してくれた。
「書きたい、いいたいと思うだろうが、裁判が済むまで、何も書くなよ。そして、また社へ帰ってくるんだ。無罪になる努力をするんだ。書くなよ」——何人もからこの有難い言葉を頂いた。だが、私はこの教えにそむいて、書いてしまった。
文春を読んだ先輩がいった。
「惜しいことをした。どうして、あれに批判を入れたのだい? あの一文で、君が筆も立つし、記者としての能力も、十分証明しているのに、社に帰るキッカケをなくしたよ」
「しかし、ボクは今でも、読売が大好きだし、大きくいって新聞に愛情を持っているんです。あれだって、愛情をこめて書いたつもりで、エゲツないバクロなんか、何もないじゃないですか。そうじゃありませんか」
友人がいった。

「オイ、新聞を敵にするなよ。新聞というのは、お前なんか一ヒネリにしてしまうほど強大なんだ。何を書いても勝手だけど、決して、新聞を敵にまわすなよ」

私は無罪をかち取りたかった。私の「犯人隠避」の構成要件の第一である「拳銃不法所持犯人という認識」がなかったからだ。私は、東大名誉教授、法務省特別顧問で、刑法学の権威である小野清一郎博士に弁護人をお願いにいった。先生は第一番にいわれた。

「文春を読みましたよ。あの、記者としての反省、あれがなければダメですよ。よく気がつかれましたね」この言葉は、先生の新聞観なのではなかろうか。

そのほか、数多くの反響がある。だが、まず一つの事件を語ろう。

護国青年隊の恐喝

昨三十二年春、私は一人で、護国青年隊事件というのをやった。この右翼くずれの暴力団が、進歩的出版社として有名な、「光文社」のK編集局長をおどかしたということを、私はある右翼人から聞いた。

同社が出版した、「三光」という、支那派遣軍の暴虐ぶりをバクロした本のことで、この暴力団はK氏をおどかし、絶版を約束させたばかりか、金をおどし取ったという話を聞いたのである。

私はこの話を聞くと、即座に二つの面からするニュース・バリューを感じた。一つは右翼くずれの暴力団が、いよいよ金に困って、出版言論に干渉しはじめた。これは言論の自由にとって、

重大な問題だということだ。

(写真キャプション カッパブックスの『三光』は残虐写真で売った)

第二は、その進歩的出版物で売り出した、光文社のベストセラー・メーカーのK氏が、暴力に屈して絶版を約束し、現にその広告の撤回をはじめた、という点である。その辺の売れるならエロでもグロでもといった、商売人根性丸だしの出版屋と違って、「三光」の出版意図を読んでも信念のあるはずの編集者だからである。

すぐ調査をはじめた。これが右翼人というニュース・ソースをもっていた私の強味である。K氏は否定するが、広告代理店を調べてみると契約した有効期間内に広告を撤去したことは事実だった。

光文社の編集室と同室の、他の編集の人たちに当ってみると、おどかしの光景は手に取るように判った。彼らが、K氏の机を叩いてドナリつけ、光文社の編集記者一同は、息を殺して机

にうつぶし、横眼で様子をうかがい、K氏はふるえていた、とその人はいう。

最後の事件記者 p.436-437 石井隊長に光文社恐喝の一件を

最後の事件記者 p.436-437 今度は護国青年隊の番だ。飯田橋のその本部には、革ジャンパー、革半長靴の制服姿もいかめしい歩哨が、その入口に立っている。
最後の事件記者 p.436-437 今度は護国青年隊の番だ。飯田橋のその本部には、革ジャンパー、革半長靴の制服姿もいかめしい歩哨が、その入口に立っている。

すぐ調査をはじめた。これが右翼人というニュース・ソースをもっていた私の強味である。K氏は否定するが、広告代理店を調べてみると契約した有効期間内に広告を撤去したことは事実だった。
光文社の編集室と同室の、他の編集の人たちに当ってみると、おどかしの光景は手に取るように判った。彼らが、K氏の机を叩いてドナリつけ、光文社の編集記者一同は、息を殺して机

にうつぶし、横眼で様子をうかがい、K氏はふるえていた、とその人はいう。

しかも、相手は電話の受話器を突きつけて、「一一〇番に訴えたらどうだ」ともいったが、何もできなかったという。

東販、日販などの大取次を当って、売れゆきの部数を調べ、さらに恐喝された金額までもと狙ったが、こればかりは判らない。取次店では、「註文がくるのに、光文社は増刷しないから絶版らしい」というし、K氏は、「予定の部数がでたし、刊行の目的を達したから、返本がコワくて刷るのを止めた」と、弁解する。

今度は護国青年隊の番だ。飯田橋のその本部には、革ジャンパー、革半長靴の制服姿もいかめしい歩哨が、その入口に立っている。決して気持の良いところではない。石井隊長に会い、財政部次長という青年にもあって、光文社恐喝の一件をききだした。彼らは右翼としての信念から、「三光」のような本を出すべきでない、と抗議した事実を認めた。そして、K氏は絶版にし、広告を撤回すると約束したという。

「いくら出しました?」

私はサッと単刀直入に切りこんだ。二人はニヤリと笑って、顔を見合せた。

「金をとったらカツ(恐喝)になるサ」

ニヤリとして否定する。

こうして、私の特ダネは取材を終り、原稿にされた。ところが、どうしてか紙面にのらない。

いろいろとウルサイ問題の起きそうな記事だから、その責任をとりたくないのか、デスク連中は敬遠してのせようとしない。そんな時に、カンカンガクガク、デスクと論争しても、掲載を迫るような硬骨の記者も、何人かいるが、私は軽べつすると論争などしないたちだ。

新聞記者というピエロ

そうこうして、一週間ほどたつうちに、朝日が書いてしまった。私の狙った観点のうち、言論の自由の侵害の面だけ、記事として取上げたのだ。読売の場合でもそうだったが、光文社という大口の広告スポンサーとして、営業面からの働きかけがあったのかもしれない。

私としては、K氏のような一流の出版文化人が、暴力に屈した点も書くべきだと思った。この恐いという気持は、警察の保護に対する不信へもつながるのだが、会社の金で済むことなのに、怪我でもしたらバカバカしい、という、インテリ特有の現実的妥協とともに、やはり取上げるべき問題であったと思う。

朝日が特ダネとして書いた日、私は出社すると、デスクの机のところにいって、オクラ(あずかり)になっていた私の原稿をとり出し、デスクの面前でビリビリと破いてすててしまった。

それから一週間ほどすると、私はデスクに呼ばれた。護国青年隊が、光文社ばかりか、「日本敗れたり」「孤独の人」「明治天皇」などの映画会社や、他の出版社もおどかしているという話を原編集総務が聞いてきて、この〝姿なき暴力〟を社会部で取上げろ、と命令してきたという。だ

から、もう一度、やってくれというのだった。

最後の事件記者 p.438-439 ジャーナリズムとはあわれな世界

最後の事件記者 p.438-439 「君以外の記者じゃ、護国青年隊なんていったら、恐がってやりやしないよ。腹も立つだろうけど、こんな危険な仕事は、君でなきゃできないよ。まげてやってくれよ」
最後の事件記者 p.438-439 「君以外の記者じゃ、護国青年隊なんていったら、恐がってやりやしないよ。腹も立つだろうけど、こんな危険な仕事は、君でなきゃできないよ。まげてやってくれよ」

朝日が特ダネとして書いた日、私は出社すると、デスクの机のところにいって、オクラ(あずかり)になっていた私の原稿をとり出し、デスクの面前でビリビリと破いてすててしまった。
それから一週間ほどすると、私はデスクに呼ばれた。護国青年隊が、光文社ばかりか、「日本敗れたり」「孤独の人」「明治天皇」などの映画会社や、他の出版社もおどかしているという話を原編集総務が聞いてきて、この〝姿なき暴力〟を社会部で取上げろ、と命令してきたという。だ

から、もう一度、やってくれというのだった。

「じゃ何故あの原稿を使わなかったのです。朝日より一週間早く提稿しているじゃないですか。それを、朝日の特ダネの後追いをしろというのですか」

私は反撥した。モメる原稿を扱ったデスクは、それがモメた時には責任者になるから、こんな形で、上から命令されれば、欣然としてやるのだ。こんな実情では、意欲的な紙面なんぞ出来やしない。四十歳すぎて、女房子供を抱えたデスクが、身分保証もなければ、どうして火中の栗を拾うであろうか、それも当然のことである。

「君以外の記者じゃ、護国青年隊なんていったら、恐がってやりやしないよ。腹も立つだろうけど、こんな危険な仕事は、君でなきゃできないよ。まげてやってくれよ」

確かにピエロである。文春十一月号の読者の声欄にあるように、「むきになって、筆者が自分の記者ぶりを述べれば述べるほど、ジャーナリズムで踊ったピエロの姿がにじみ出て、ジャーナリズムとは、あわれな世界だなアと、思わず叫びたくなる」のも、当然な話である。

危険な仕事は、君にしかできないのだ、とオダテられて、その気になって、女房子供のことも忘れてしまう〝新聞記者〟というピエロを、では一体、誰がっくったのだろう。誰がそうさせたのだろう。

それはジャーナリズムという、マンモスに違いない。二十二、三歳の若造二、三人にかこまれて、机を叩かれただけで、意欲的らしさを装った出版物は、直ちに絶版になるという現実が、ジ

ャーナリズムであろう。

ピエロの妻

 私はその仕事を引受けた。どうしてもやらなければ怠業である。従業員就業規則違反である。今、一枚何千円もの原稿料をとる菊村到氏も、活字になりもしないと予想される原稿の、書き直しを命ぜられて、それが拒否できないバカらしさに、社を辞めたのであろう。

それから数回にわたって、この暴力団をタタいたのだが、彼らは怒って社の読者相談部という苦情処理機関へ押しかけてきた。「三田の奴メ、同志のようなカオをしやがって、裏切りやがったな。どうするかみていろ!」という、彼らの言葉が、私に伝ってきた。

そうこうするうちに、岸首相までが、自民党の幹事長時代に、百万円をタカられたということが判明した。事件は国会でも取上げられたので、警視庁捜査二課でも放っておけずに、後藤主任を担当として捜査を始めた。

私はこの主任に協力して、何とかして金星をあげさせようと努力した。だが、どこの出版社もどこの映画会社も、被害にあっていながら、被害を認めようとしない。被害届がなければ事件として立たない。商売人である出版社や映画会社が、金で済ませるのはまだ良いが、暴力追放をスローガンにした、岸首相の秘書官、現金を飯田橋の本部にとどけた本人までが、どうしても被害を認めない。

最後の事件記者 p.440-441 岸首相が百万円をタカられた

最後の事件記者 p.440-441 しかし、どんな証拠がでても、中村秘書(当時外相秘書官)は、被害を認めようとしない。「選挙が終るまで待ってくれ」「岸が外遊から帰ってきたら……」と。
最後の事件記者 p.440-441 しかし、どんな証拠がでても、中村秘書(当時外相秘書官)は、被害を認めようとしない。「選挙が終るまで待ってくれ」「岸が外遊から帰ってきたら……」と。

そうこうするうちに、岸首相までが、自民党の幹事長時代に、百万円をタカられたということが判明した。事件は国会でも取上げられたので、警視庁捜査二課でも放っておけずに、後藤主任を担当として捜査を始めた。

私はこの主任に協力して、何とかして金星をあげさせようと努力した。だが、どこの出版社もどこの映画会社も、被害にあっていながら、被害を認めようとしない。被害届がなければ事件として立たない。商売人である出版社や映画会社が、金で済ませるのはまだ良いが、暴力追放をスローガンにした、岸首相の秘書官、現金を飯田橋の本部にとどけた本人までが、どうしても被害を認めない。

私は主任と同行して、甲府の奥に住む元同隊幹部を探し出して、当時の被害状況の参考人調書まで作らせた。その男を口説き落すのに、どんなに苦労をしたことか。金を渡した中村秘書を落城させるため、関係事実を調査しては主任に提供するなど、刑事以上の苦労であった。しかし、どんな証拠がでても、中村秘書(当時外相秘書官)は、被害を認めようとしない。「選挙が終るまで待ってくれ」「岸が外遊から帰ってきたら……」と。

「あんたのおかげで、次々と証拠をつきつけて、中村秘書を理責めにしたのさ。しまいには、彼も額に脂汗をかいて、もう少しで被害を認めてくれるところまでいったよ。だけど、逮捕した容疑者ではなく、協力してくれる被害者という立場だろ、むずかしいよ。認めようとしないものを認めさせようというんだからナ。オレは捜査二課の一主任だ、あんたは外相秘書官だから、上の方へ手を廻して、一警部補のクビを切るぐらいは簡単だろうけれどと、熱と誠意で押したのサ。もう少しのところだったのに、惜しいことしたよ。あんなに協力してくれたのに、カンベンしてくれよ。本当にありがとう」

主任はこういって、私に感謝した。彼の声にならない声は、警視庁の幹部の方に、岸首相の事件はやめろと、政治的圧力がかかったのだとも、受取れるような感じだった。

この事件での、私の捜査協力はついにモノにならなかったが、何回かの記事で、私はともかくとして、妻はどんなにか恐い思いをしたようだった。「家の付近に、怪しい奴がウロついているから、今夜は帰ってこないほうがいいわ。奈良旅館へ泊って……」という電話がきて、私は一週間

も旅館住いをした。

「暴力団が子供を誘拐したらどうしようかしら」

そういって、学校へ通う長男にかんで含めるように教えた。長男もオビエた顔で、母の注意を聞いていた。

「パパの留守に、家へやってきたらどうしよう。私はともかくとして、この子に手を出したりしたら……」

幼い次男を抱きしめて、彼女は真剣に考えた。そしていった。

「浅草あたりでは、一万五、六千円でピストルが買えるというじゃないの。社で前借して買ってきて下さいよ。家へ押し入ってきたら、撃ってやるんだ」

そして、しばらくしてまたいった。

「……ね、パパ、お願いだから死なないでよ。……もう、危険なお仕事はやめて!」

これが、〝ピエロ〟の妻である。ああ! 母は強く、女は弱い!

それなのに、ピエロは、踊るのをやめない。バリバリッと、音を立てて、ひろげる。サッと眼を射る大きな横見出し。「自称右翼〝護国青年隊〟の内幕」、肩に太い二本見出し「恐かつ専門の暴力団、分け前は前科で決る」何ともいえない芳香を放つインク、何十万、何百万枚と刷ってゆく輪転機のごう音。

——この感覚のエクスタシーが、新聞というマンモスなのか。

最後の事件記者 p.442-443 あの検事の名前を明らかにして

最後の事件記者 p.442-443 立松記者は、デタラメやウソを書いたのではない。相手は、検事の肩書を持つ課長である。立松はそれを信じて原稿を書いた。その結果が現役記者の逮捕である。
最後の事件記者 p.442-443 立松記者は、デタラメやウソを書いたのではない。相手は、検事の肩書を持つ課長である。立松はそれを信じて原稿を書いた。その結果が現役記者の逮捕である。

ピエロはとばされる

新聞記者の功名心という、誰にも説明できないピエロの衣裳は、麻薬のように本人だけのエクスタシーなのである。

何も光文社ばかりではない。新聞の世界にも、ガラ空きの客席を前に、一人踊り呆けるピエロの自覚が訪れてきている。去年の秋の売春汚職にからむ立松事件がその最初のステップである。

立松記者は、デタラメやウソを書いたのではない。福田篤泰、宇都宮徳馬両代議士が、売春汚職にからんでいると、しかも、五人の代議士のうち、この二人だけは名前を出しても絶対大丈夫だ、と、ハッキリ聞いたのである。彼は私たちの前で、相手に電話した。立松もピエロだから、何もそんな芝居は必要としない男である。

相手は、検事の肩書を持つ課長である。立松はそれを信じて原稿を書いた。その結果が現役記者の逮捕である。

立松記者の上司もまた、その課長に会って確かめたはずである。社会部のピエロたちは、たとえ立松記者を有罪としようとも懲役に送ろうとも、ニュース・ソースは明かすまいと決心した。本人もそのつもりであったに違いない。社会部のピエロたちの意見は、それが、本当の新聞としての責任と正義とを貫ぬく道だと信じた。

記事は取消すまい、そのため懲役へ行くのも止むを得ない——ヤクザの仁義と似ているッて?

そうだとも、ピエロだもの。

何しろネタモトは、検事という、日本の最高級のランクにある人種で、しかも役所。なんと中央官庁の課長で、過去には立派な仕事ばかりしてきた人である。ナントカ疑獄とかカントカ疑獄とか、この人のいうことを信じない記者がいたら、おめにかかりたいものである。

司法記者クラブのキャップとして、その反対側の立場の検事のいう言葉を信用して、立松を出頭させてしまい、ヒッカケ逮捕という最悪の事態を招いてしまった私も、大いに責任を感じていた。もとより、私もネタモトを信じたから、記事を取消すべきではないという意見だった。

だから私は、上司にも相談せず、独断でマルスミ・メモといわれる、済の字を丸でかこった印のついた代議士の名簿を、知合いの代議士たちに見せたのである。かつて国会を担当していたから、知合いは沢山いた。するとそれは委員会へ持出されてしまった。

その結果出てきたものは、最初の掲載記事と同じ場所へ、同じ体裁で、同じ長さの記事を出して、前の記事を訂正するという、前代未聞の出来事であった。私が書いた記事に対しても、同じような要求をうけたことは、一再ならずあった。だが、それらはすべて、一笑のもとにケトばされた。

私は絶対不服であった。それならば、あの検事の名前を明らかにして、その間違った経過を、読者の前に公表すべきである。相手をぶん殴って、すぐ済みませんとだけ謝れば、それで済むはずのものでない。このように間違えたのですから、御立腹でしょうが、お許し下さいと、謝るの

が常識であり、礼儀であり、読者への責任である。

最後の事件記者 p.444-445 サラリーマンだけを雇用することに

最後の事件記者 p.444-445 私は、早晩トバされるべき運命なりと、覚悟していた。横井事件などがなくとも、辞めるべき客観状勢であったのである。
最後の事件記者 p.444-445 私は、早晩トバされるべき運命なりと、覚悟していた。横井事件などがなくとも、辞めるべき客観状勢であったのである。

その結果出てきたものは、最初の掲載記事と同じ場所へ、同じ体裁で、同じ長さの記事を出して、前の記事を訂正するという、前代未聞の出来事であった。私が書いた記事に対しても、同じような要求をうけたことは、一再ならずあった。だが、それらはすべて、一笑のもとにケトばされた。
私は絶対不服であった。それならば、あの検事の名前を明らかにして、その間違った経過を、読者の前に公表すべきである。相手をぶん殴って、すぐ済みませんとだけ謝れば、それで済むはずのものでない。このように間違えたのですから、御立腹でしょうが、お許し下さいと、謝るの

が常識であり、礼儀であり、読者への責任である。

この態度に、率直で良い、大新聞の襟度である、これからもそうすべきだ、と、オベンチャラをいう評論家や、他の新聞があった。そんなバカなことがあるものか。

一等部長である社会部長は、三等部長のつまらないポストへトバされてしまった。立松記者は「懲戒休職一週間」という、処分をうけた。私は、その時にはお構いなしであったが、早晩トバされるべき運命なりと、覚悟していた。私が立松記者なら、あの時に退社しただろうが、いずれにせよ、横井事件などがなくとも、辞めるべき客観状勢であったのである。

なぜかといえば、この事件の取消し方の、スジが通ってないのでも判る通り、社会部のピエロは、すべて整理されることになった。あんまりフザけた、道化芝居はやめて、商売らしい商売をするために、サラリーマンだけを雇用することになったようであった。

はじめて知る人の情

「最高裁の局長連中との会で、君の噂が出てね。みんな局長たちの意見は、起訴からして無理だから無罪だ、といってたよ。悪いニュースじゃないから知らせるよ」

ある記者が電話でそういってきた。

「メシが食えるかい? 大丈夫かね、相談に乗るよ」「ある会社のエライ人が、手記を書いたのだけど、文章がダメなんだ。印刷できるよう、まとめる仕事をやらないか」「ナニ、新聞ばかり

が社会じゃないよ」

人間、落ち目になって、はじめて人の情を知るというが、私は今度もそう感じた。本人はあまり落ち目とも思わないが、客観的には落ち目であることは確かだ。

電話の一本、ハガキの一枚に、私はどんなに慰められ、元気づけられたことか。そして、広い世間には、いろいろの考え方のあることを知った。

「あの文章を読んでその通りだと思うものは、新聞記者に一生を打ちこんだものだけしか解らぬでしょう。特に官僚の権力エゴイズムと、最近の××の月経の上った宮廷婦の集合の如き動脈硬化ぶりに対する、言外の痛恨の情など……」

「この馬鹿みたようなという実感は、警察と検事とを除いた、すべての日本人、否地球上のすべての人の吐息ではありますまいか。大体、権力を握った人間はヒューマンという意味では人間ではないでしょう。普通の場合でも検事たちの手にかかると、刑法的インネンを吹かけられて、惨めな人生になることが一般的でしょう」

私が、司法記者クラブにいた一年間の大事件は、売春、立松、千葉銀の三つであったが、それらの事件を通して感じられるのは、この二つの手紙と共通するものであった。一人は新聞記者の老先輩であり、一人は老実業人であった。新聞記者、それも読売の未知の地方支局員からももらった。

「読んでみると、全く社の悪口はなく、取材意欲と愛社心にもえるものだった。読者には読売に

はいい記者がいたものだと感心させ、社の幹部も反省することがあるだろう。私たちも第一線地方記者として、読売に誇りを感じた。折あれば早くまた帰社して頂き……」

最後の事件記者 p.446-447 強い敵と闘うことは相当な勇気がいる

最後の事件記者 p.446-447 安藤と一緒にキャバレーに行き、それから三田は、銀座、渋谷を安藤のツケで飲み歩くようになった。といった、〝悪と心中した新聞記者〟のオ粗末の一席を平気で書いているのである。
最後の事件記者 p.446-447 安藤と一緒にキャバレーに行き、それから三田は、銀座、渋谷を安藤のツケで飲み歩くようになった。といった、〝悪と心中した新聞記者〟のオ粗末の一席を平気で書いているのである。

「読んでみると、全く社の悪口はなく、取材意欲と愛社心にもえるものだった。読者には読売に

はいい記者がいたものだと感心させ、社の幹部も反省することがあるだろう。私たちも第一線地方記者として、読売に誇りを感じた。折あれば早くまた帰社して頂き……」

「仕事をしすぎて病気になったのも、大兄同様悔んではいません。離れて思えば新聞なんてつまらない仕事だけど、そう思っても、やり抜かずにはいられないのは、お互に情ない性分でしょうか」

「読売新聞は貴殿の如き人材を多々踏み台として、今日の隆盛を築きあげてきたのだと想像されます」

官僚の権力エゴイズムについての反響が、一番多かったようである。ある紳士は私を一夕招待してくれて、警職法反対の運動を起そうではないか、とまでいわれた。

「ゲゼルシャフトとゲマインシャフトですよ。第一、菅生事件をみてごらんなさい。犯人の戸高巡査部長をかくまったのは、警察の幹部じゃないですか。これは、どうして犯人隠避にならないのです? そして、公判では検事が戸高をかばってますよ。警職法などが通ったら、世はヤミです。現状でさえこれですからね」

もう記者をやめてしまった、司法記者クラブの古い記者に街で会った。

「誰だい? 警視庁のキャップは? 君を逮捕させるなんて、あんなのは新聞記者で当然のことじゃないか」

この記者の時代には、新聞と警察はグルになって、おたがいにウマイ汁を吸っていたのだから

その意味での不当をなじっていた。

最後の事件記者

だが、私が一番ガマンならなかったのは、逮捕された奴は悪党だから、何を書いてもいいんだという、ジャーナリズム全般にみられる傾向である。それが、しかも全くのデタラメである。

ある旬刊雑誌が、私と安藤親分とが、法政大学での先輩、後輩の仲だと書いている。「新聞記者とギャングの親分という関係ではないんだ、学校の先輩、後輩なんだ」と、三田は自分の良心へいいきかせた。そうして、安藤と一緒にキャバレーに行き、それから三田は、銀座、渋谷のキャバレー、バーを、安藤のツケで飲み歩くようになった。そして、小笠原を逃がすように頼まれる——といった、〝悪と心中した新聞記者〟のオ粗末の一席を平気で書いているのである。

私は弁護士と相談して、私の名誉回復のため、訴訟を起す覚悟をした。まず、筆者を明らかにするよう要求したのだが、笑いとばされて、誠意がみられないからである。私が勝訴になったらその雑誌のバックナムバーをみて、デマを書かれて迷惑している人たち全部を集めて、徹底的に闘いたいと考えた。強い敵と闘うことは、相当な勇気がいることである。護国青年隊よりは、本質的に勇気が必要である。

最近のジャーナリズムをみていると、面白い傾向が出てきている。それは第二報主義であった週刊誌が、新聞を出しぬいて、特ダネをスクープしていることだ。

最後の事件記者 p.448-449 現実にはもはや事件記者はいない

最後の事件記者 p.448-449 新聞には、書いてものらないのか、書かせてくれないのか。面白い事件はさけるのか。安全第一の雑報記事だけにして、危険をさけるのであろうか。
最後の事件記者 p.448-449 新聞には、書いてものらないのか、書かせてくれないのか。面白い事件はさけるのか。安全第一の雑報記事だけにして、危険をさけるのであろうか。

最近のジャーナリズムをみていると、面白い傾向が出てきている。それは第二報主義であった週刊誌が、新聞を出しぬいて、特ダネをスクープしていることだ。

報道協定のことは抜きにして、週刊明星と週刊実話とか、皇太子妃のニュースを書いてしまった。それから、週刊朝日が、戦闘機問題のカゲの人、天川勇なる人物を詳細にレポートした。この絶好の社会部ダネは、大新聞には、何故かのらなかった。

十月二十八日の朝日社会面は、決算委の記事として、このナゾの人物の名前を出したけれども三十日発売の週刊朝日が書いているのだから、週刊の方が早かったことになる。

ことに面白いのは、週刊誌の皇太子妃の記事の筆者が、新聞記者だといわれていることだ。新聞記者が、自分の新聞にかかないで、雑誌に原稿を書くという傾向が、ハッキリと強まってきているのではなかろうか。

新聞には、書いてものらないのか、書かせてくれないのか。面白い事件はさけるのか。安全第一の雑報記事だけにして、危険をさけるのであろうか。新聞記者が、自分にサラリーをくれている新聞に書けず、雑誌に書くということは、実は深刻な問題ではないのだろうか。

新聞週間のとき、講師になった読売原出版局長は、こういっている。

「週刊誌ブームというものも、ラジオが思わぬ発達をとげたために起ったものだが、新聞がしっかりしていれば、週刊誌など作る必要はなかったはずだ。新聞が増ページして、週刊誌などつぶしてしまわねばならないと思う」(新聞協会報一三五六号)

この言葉は、裏返せば、新聞がしっかりしていない、ということだ。人気番組「事件記者」はつづいているが、現実には、もはや、事件記者はいない、といわれる。誰だって、危険を冒すの

はいやである。自分で額に汗して生活費をつくりだすよりは、記者クラブで碁、将棋、マージャンをたのしみながら、黙ってサラリーをもらう方が、ずっと楽だからである。私は、〝最後の事件記者〟であったようだ。このあとにつづく、バカなピエロはもういないだろう。

新宿慕情 カバー裏表紙+腰巻裏 収録内容案内

新宿慕情 カバー裏表紙+腰巻裏
新宿慕情 カバー裏表紙+腰巻裏

裏表紙

腰巻・ウラ

新宿慕情
四十年以上もの〈新宿〉との関わり合いを語りながら、著者の〈社会部記者魂〉ともいうべき、頑固な人生観を述べていて、飽きさせない。軽い筆致でたのしく、人生を説いている。

事件記者と犯罪の間
昭和三十三年、著者は、安藤組による「横井英樹殺害未遂事件」を、読売社会部の司法記者クラブ詰め主任として、取材しながら、大スクープの仕掛人として失敗。退社して、犯人隠避容疑で逮捕された。

最後の事件記者
著者の読売社会部時代の、数々のエピソードを綴りながら、大新聞の内部からの、新聞・新聞記者とはなにか、と問いかけている。自伝的構成になる著者の「新聞と新聞記者論」。

p.214-p.215 事件記者と犯罪の間p.214-最後の事件記者トビラp.215

p.214-p.215 事件記者と犯罪の間(p.214)「読んだあと御不浄で使える読売新聞、もんでも穴のあかない読売新聞、ふいても活字のうつらない読売新聞! 読売新聞をどうぞ」
 最後の事件記者トビラ(p.215)
p.214-p.215 事件記者と犯罪の間(p.214)「読んだあと御不浄で使える読売新聞、もんでも穴のあかない読売新聞、ふいても活字のうつらない読売新聞! 読売新聞をどうぞ」
最後の事件記者トビラ(p.215)

「まァいらっしゃい。元気で安心したワ。また、〝常に正義と真実を伝える読売新聞、天下四百万読者を有する読売新聞〟が、聞けるわネ」
女の子たちは、そういって集ってきた。私の酔えば必ず口にするこのキャッチ・フレーズは、有名である。そうして、私の行くバーの女の子たちは、大かた読売の愛読者になった。
私は一月ぶりのアルコールに、僅かばかりのビールで泥酔した。女の子たちは面白がって、キャッチ・フレーズの下の句が出るぞと期待したらしい。

「読んだあと御不浄で使える読売新聞、もんでも穴のあかない読売新聞、ふいても活字のうつらない読売新聞! 読売新聞をどうぞ」

読売記者でなくなった私は、とうとう、この下の句を叫び出していた。女の子たちは私の健在に拍手をしてくれた。私はやはり、根っからの社会部記者である。

p.215 最後の事件記者 トビラ

新宿慕情 p.006-007 私の〈新聞記者開眼〉であった

新宿慕情 p.006-007 はしがき(つづき)ふたつの原稿――「事件記者と犯罪の間」(文芸春秋誌所載)と「最後の事件記者」(実業之日本社刊)とは、私という一新聞記者の、転機を明らかにしたものなのである。
新宿慕情 p.006-007 はしがき(つづき)ふたつの原稿――「事件記者と犯罪の間」(文芸春秋誌所載)と「最後の事件記者」(実業之日本社刊)とは、私という一新聞記者の、転機を明らかにしたものなのである。

昭和三十三年七月二十二日、私は、横井英樹殺害未遂事件で、犯人隠避容疑により、警視庁に逮捕された。
二十五日間の留置場生活を終えて、自宅に帰った私は、各紙の報道した私の事件に関する記事

を読んでみて、「書く身」が「書かれる身」になった現実に直面した。

その記事のなかの私は、〝グレン隊の一味〟になり果てていた。悲しかったし、憤りさえ覚えたのだが、その次の瞬間、私はガク然とした。

「オレも、長い記者生活の間、同じように、こんな記事を書いていたのではないか?」という思いが、背筋を電光のように走ったのであった。

調べもせず、外形的な事実だけを綴って記事とし、多くの人を悲しませ、瞋らせていたのではないか……という反省であった——私の、〈新聞記者開眼〉であった。

もしも私が、この安藤組事件に連座して、読売を退社せざるを得ない立場に、追いこまれなかったならば、私は、さらに長く、深く、強く、過誤をつづけていたに違いなかったと、いまでもそう信じている。

そして、新聞社を去って、初めて、「新聞」というマンモスの姿を、冷静に見つめ、批判することも、知ったのであった。

もしも私が、あのまま読売に在職しつづけ、編集幹部にでも栄進していたならば、私は、尊大な、ハナ持ちならぬ権力主義者になっていただろう。

その意味で、この昭和三十三年の夏。読売を自己都合退社するキッカケとなった、安藤組事件に関して書いた、ふたつの原稿——「事件記者と犯罪の間」(文芸春秋誌所載)と「最後の事件記者」(実業之日本社刊)とは、私という一新聞記者の、転機を明らかにしたものなのである。

ともに、もう古いもので、古本屋などでも入手できないし、私の手許にも、一部しか残っていない。

新聞記者として開眼しながら、フリーの新聞記者という制度のない日本では、私は、雑誌の寄稿家でしかあり得なかった。そして、「真実を伝える」取材と執筆とに徹した私は、雑誌社・出版社の利害と衝突する原稿を、幾度か削られ、ボツにされた。

——真実を書くためには、自分がオーナーであり、パブリッシャーであり、エディターであり、レポーターでなければならない!

そう結論した私は、「正論新聞」の発刊を考え出した。私の、新聞論と新聞記者論の実験の場、という発想であった。(その部分については、拙著「正力松太郎の死の後にくるもの」昭和四十四年・創魂出版刊に詳述している)

私の人生での、大きな転機となった、このふたつの原稿を、ここに再録して、「正論新聞」の創刊十周年に当たっての、同社出版局の創設記念に上梓することとなった。

巻頭の「新宿慕情」の文章を読みくらべてみると、十七年前の私の原稿は、やはり、ギスギスしている感じだ。文章の道に、終りがないことを痛感する。もう二十年も経つと、キット、この「新宿慕情」も、読み返して恥ずかしくなるに相違ない。

旧友たちに、久し振りに逢うと、だれもが私の顔を見て、「変わったなあ」という。確かに変わったようだ。「むかしのカミソリ的なところがとれた」という人もいる。正論新聞をツブさず に、ここまで育ててきた苦労が、私を、円満にしたのかも知れぬし、年齢のせいかも知れぬ。