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正力松太郎の死の後にくるもの p.002-003 目次 1~5

正力松太郎の死の後にくるもの p.002-003 目次
正力松太郎の死の後にくるもの p.002-003 目次

正力松太郎の死の後にくるもの——目次

1 正力さんと私(はじめに……)

銀座の朝に秋雨が……/正力〝社長〟の辞令

2 死の日のコラム休載

編集手帖なしの読売/正力なればこその「社主」

3 有限会社だった読売

悲願千人記者斬り/「畜生、辞めてやる!」の伝統/慄えあがった編集局長/五人の犯人〝生け捕り計画〟/社史にはない二度のスト/強まる「広報伝達紙」化/記者のド根性/紙面にクビをかける

4 〝務台教〟の興隆

朝・毎アカ証言の周辺/記事の魅力は五パーセント/読売の〝家庭の事情〟/務台あって の〝正力の読売〟/販売の神サマ復社す/七十三歳のブンヤ〝副社長〟/〝読売精神〟地を払うか/出向社員は〝冷飯〟組/正力〝法皇〟に対する本田〝天皇〟/〝アカイ〟という神話の朝日/封建制に守られる〝大朝日〟

5 正力コンツェルンの地すべり

正力代議士ついに引退す/報知新聞のド口沼闘争/伝説断絶の日本テレビ/〝務台教〟に 支えられる読売/小林副社長〝モウベン〟中/〝社長〟のいない大会社/新聞、週刊誌に追尾す

正力松太郎の死の後にくるもの p.098-099 米上院外交委員会証言内容

正力松太郎の死の後にくるもの p.098-099 極めてショッキングな内容。それは他でもない。先刻御承知の「朝日、毎日はアカの巣くつで、だから、アメリカのベトナム政策が批判されるのだ」というもの。
正力松太郎の死の後にくるもの p.098-099 極めてショッキングな内容。それは他でもない。先刻御承知の「朝日、毎日はアカの巣くつで、だから、アメリカのベトナム政策が批判されるのだ」というもの。

朝・毎アカ証言の周辺

さる四十年四月二十九日の午後、アメリカの二大通信社であるAP、UPIが、そろって打電してきた記事は、日本の新聞界にとって、極めてショッキングな内容で、そのため、外電センターである共同通信社でも、その配信について、しばし思い悩んだといわれるほどのものであった。

それは他でもない。先刻御承知の「朝日、毎日はアカの巣くつで、だから、アメリカのベトナム政策が批判されるのだ」というもの。米上院外交委員会が、四月七日に開いた一九六六会計年度の軍事援助に関する、秘密聴聞会での、ポール国務次官、マッカーサー国務次官補の証言内容についての記事であった。

これに対し、朝日、毎日両紙は、それこそ〝猛然〟と反ばくし、ことに毎日の反ばく記事の扱い方の大きさは、同社の受けた衝撃を物語ってあまりあった。

だが、問題はここからが始まりである。朝、毎の一面の大きな記事に対し、「三大紙」である、読売のそれは、まさに不当なほどの、小さな記事であったからである。

私は、この「三大紙」の同記事を丹念に読みながら、今日を、さらに近い将来を暗示する、極めて象徴的な事実を想い起さざるを得なかったからであった。

四月二十三日、東京中央局の消印。市販のタテ長のハトロン封筒。マジック・インキの達筆(書き馴れた)な宛書、色は黒。差出人の住所氏名なし。内容物は、白ザラ紙二枚にタイプされた檄文と、別紙の内容目次。ここに、その檄文を引用しよう。

「最近の思潮動向の御検討材料として御参考までに同封資料をお送り致します。

この『教育の森』構成草案は、毎日新聞が、『企業—の森朝刊第五面連載』の終了次第朝刊に長期間連載するものの説明であります。

その各項目をみますと、左翼偏向教育グループとして定評のある教育科学全国連絡協議会(略称・教科連・委員長勝田守一—千代田区神田錦町一の三〇平和ビル)の主張、表現をそのまま受け入れ、きわめて一方的な立場から、取材編集を進めていくことが明らかであります。

しかも、そのスタッフに名を列ねる藤田恭平、牧孝昌の両名は、共産党のフロント組織である日本ジャーナリスト会議のメンバーであり、毎日新聞学芸部内においても札つきの左翼として有名な存在であります。

また、村松喬は、さきに学芸部長時代にこれら左翼グループの接近を許し、同学芸部赤化の

原因をつくり、そのため管理能力欠除という理由で学芸部長を解任された人物です。

正力松太郎の死の後にくるもの p.100-101 米国務省政策企画委員長ロストウが来日

正力松太郎の死の後にくるもの p.100-101 ロストウの記者会見は、朝・毎だけが単独会見で、読売はその他大勢とコミの共同会見しかできなかったという、重大な事実がある。そこに、朝毎アカ証言の入電であった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.100-101 ロストウの記者会見は、朝・毎だけが単独会見で、読売はその他大勢とコミの共同会見しかできなかったという、重大な事実がある。そこに、朝毎アカ証言の入電であった。

また、村松喬は、さきに学芸部長時代にこれら左翼グループの接近を許し、同学芸部赤化の

原因をつくり、そのため管理能力欠除という理由で学芸部長を解任された人物です。

これらのスタッフによって編集する『教育の森』がいかなる記事となって、紙面に表われてくるかは、自ずから明らかでありましょう。

このような企画のものを、わが国の代表的全国紙であり、社会の公器である毎日新聞が、左翼グループの陰謀企画にもとづき、長期に連載することは、きわめて重大な問題であります。

このような編集計画を進行したことの裏には、昭和四十五年における、日米安保条約の再改訂時を目ざす、左翼言論戦線の計画的陰謀があることは容易に察せられるところであります。

日本ジャーナリスト会議をはじめ、これら左翼言論人は、極めて巧妙に常に機会をとらえ、その編集する紙・誌・電波を利用して、彼らの『革命計画』を推進しようとしており、そのもっとも顕著な例をこの『教育の森』に見ることができるわけであります。

毎日新聞の公正を守るためにも、また、教育についての正しい世論喚起のうえからも、このような編集企画については厳しい批判と適切な対策が講ぜられるよう御期待致します。

なお当面の対策としては、この連載企画の変更、スタッフの解任などを要求すること(文書や面談によって)が考えられますが、その相手としては、次の両氏が適切と思いますので申添えます。

毎日新聞東京本社 上田常隆社長

同        田中香苗論説主幹

(参考)

『教育の森』構成草案中、とくに左翼偏向が明らかな項目、および教科連独自の表現や左翼的問題意識の明白な事例をあげると次の通りであります。              (以下略)」

差出人不明だから、いわゆる〝怪文書〟ではあるが、封筒の筆蹟、要領よくまとめられた文章、上田社長らへのアッピールなど、総会屋や新聞ゴロたちの手になる〝怪文書〟とは、全くジャンルを異にするものであることは明らかである。

そして、これが投函された二十三日という日は、前夜おそく、米国務省政策企画委員長ウォルト・W・ロストウが来日した折でもあり、ロストウは、「朝、毎アカ証言」が入電して、その反響が現れた五月二日まで滞日していたのであった。

さらにはまた、ロストウの記者会見は、朝・毎だけが単独会見で、読売はその他大勢とコミの共同会見しかできなかったという、重大な事実がある。そこに、朝毎アカ証言の入電であった。

それより数カ月も前のことである。テレビのクイズに「世界最大の発行部数を誇る新聞」というのがあった。解答者は「プラウダ」と答え、正解もまた「プラウダ」であった。正解のカネが鳴って、五分とたたないうちに、そのテレビ局の電話が鳴った。電話口では「世界最大の発行部

数を持つのは、読売新聞だ」と怒鳴っていたという。そして、不思議なことには、その番組の終りに、「プラウダは誤りで、正解は読売新聞でした」と、訂正されたという。

正力松太郎の死の後にくるもの p.102-103 もはや三大紙として認めてくれなくなった

正力松太郎の死の後にくるもの p.102-103 このような〝雰囲気〟に包まれていた昭和四十年ごろのことである。いわゆる「務台事件」が起きるのである。務台事件における現象面を追ってみよう。
正力松太郎の死の後にくるもの p.102-103 このような〝雰囲気〟に包まれていた昭和四十年ごろのことである。いわゆる「務台事件」が起きるのである。務台事件における現象面を追ってみよう。

それより数カ月も前のことである。テレビのクイズに「世界最大の発行部数を誇る新聞」というのがあった。解答者は「プラウダ」と答え、正解もまた「プラウダ」であった。正解のカネが鳴って、五分とたたないうちに、そのテレビ局の電話が鳴った。電話口では「世界最大の発行部

数を持つのは、読売新聞だ」と怒鳴っていたという。そして、不思議なことには、その番組の終りに、「プラウダは誤りで、正解は読売新聞でした」と、訂正されたという。

私が読売新聞社会部記者の出身であり、新聞を、そして読売を、こよなく愛するが故に、まず当時にさかのぼって、これだけの事実を提起するのである。

〝日本三大紙の雄〟と称し、称せられ、またそれだけの内容を持っていた、わが読売新聞は、ここ数年のうちに、内容、紙面ともに転落し、かくて、客観はもはや三大紙として認めてくれなくなったということが、ロストウの態度と、ポール、マック両氏証言でも明らかにされたのである。そして、「紙面で来い」という、記者気質と新聞の値打ちとの現実とは、アメリカ人にいわれるまでもなく、それを雄弁に物語っている。たとえ、テレビのクイズは訂正できようとも——

記事の魅力は五パーセント

さて、このような〝雰囲気〟に包まれていた昭和四十年ごろのことである。そしてこの〝雰囲気〟を背景に、いわゆる「務台事件」が起きるのである。ともかく、務台事件における現象面を

追ってみよう。

ここに数通のビラがある。読売労組教宣部で出した「組合ニュース」である。四十年の夏期手当をめぐる交渉委の経過を報じたものだが、その内容をまず、紹介せねばならない。

「交渉内容次のとおり。

組合——会社は〝ないソデはふれぬ〟の一点ばりだが、ランドの記事を見ていると、こんなところに金をつかっているではないかという、不信感がつのるばかりだ。

会社——いつもいうように、ランドには金は出ていない。しかし、ランドは新聞を伸ばすための事業であり、書くのは当り前だ。

組合——春闘のさい、会社は、新聞の公益性を守ると確約したのに、いっこう改まらないではないか。

会社——どれもこれも、新聞を伸ばすためにやっているのだ。「クジラ」がみんなの関心を集めるなら、「クジラ」を書くのも公益性に反するものではない。

組合——社の事業や宣伝も程度問題ではないか。「正力コーナー」もいぜんとしてつづいている。〝どうにかしてもらいたい〟という意見が、組合員だけではなく、読者の間からも強く

出ている。