四 三橋と消えた八人
この辺で少し、ソ連の秘密機関を系統的にみてみよう。ソ連側の直接の指導には、内務省系のものと赤軍系のものとがあった。赤軍系というのは沿海州地区をはじめ、ウラジオ、ウォロシーロフ、イマン、チタ各地区に一ヶ大隊約五百名、四十ヶ大隊約八千名の日本人が、「赤軍労働大隊」と呼ばれて、直接赤軍の管理下におかれたところがあったのである。ここでは日本人捕虜も赤軍兵士と同様の条件で、基地建設などの土工作業を行っていた。
他の日本人捕虜収容所は、ナホトカで帰還の送出をする第二分所が外務省の管轄であるのを除いては、すべて内務省の監督下にあった。
内務省の管轄にある捕虜の〝再武装〟教育ということは、とりも直さずオルグ要員の政治教育とスパイ要員の技術教育の二種類があったということである。
これらの学校のうちで、明らかにされたその名前をあげるならば、モスクワ共産学校、ホルモリン青年学校、同政治学校、同民主主義学校、ハバロフスク政治学校、チタ政治学校などの「政治教育機関」と、モスクワ無線学校、同情報学校、ハバロフスク諜報学校、イルクーツク無線学校などの「技術教育機関」とがある。
モスクワ無線学校というのは、三橋正雄氏の入ったスパースク、議員団のたずねた将官収容
所のあるイワノーヴォ、またクラスナゴルスクなど、モスクワ近郊に散在している。
たびたび引用するが、志位氏はソ連研究家として一流の人物であるから、同氏の近著「ソ連人」に、現れている部分を抜いてみる。これは同氏がスパイ誓約を強制させられる当時の、取調べに関連して書かれたものである。
三回目の呼び出しの時、私は自分の調書を読むことができた。それは訊問官が上役らしい大佐に呼びつけられて、あわてて事務所を出て行ったとき、机の上に一件書類が残されていたからである。
これによって私たちをいままで逮捕し、取調べていた機関がすっかりわかった。まず終戦直後の奉天で猛威を揮ったのが、ザバイカル方面軍司令部配属の「スメルシ」であった。この「スメルシ」というのは、「スメルチ・シュピオーヌウ!」(スパイに死を!)の略語で、文字通りのいわば防諜機関である。
これが進駐とともにやってきて、私たちを自由から〝解放〟したのだ。調書は「スメルシ」からチタの「臨時NKVD(エヌカーベーデー)検察部」に廻され、さらに、モスクワの「MVD(エムベーデー)戦犯審査委員会」に達している。
NKVD(内務人民委員部)は呼称の改正に伴って、昨年の二月頃からMVD(内務省)になったのだから、私たちの調書は逮捕から、半年後にはモスクワに着いたわけだ。ところで、いまここで訊
問している連中は、MGB(エムゲーベー)(国家保安省)の「戦犯査問委員会」に属している。これは恐らく旧NKVDのうちの、ゲー・ペー・ウーだけがMGBに移って、俘虜や戦犯の管理はMVDで、訊問や摘発はMGBでやるようになったのだろう。