三橋と消えた八人」タグアーカイブ

迎えにきたジープ Contents.002-003 目次

迎えにきたジープ Contents.002-003
迎えにきたジープ Contents.002-003

私こそスパイなのだ

吹雪の夜の秘密

読売の「幻兵団」キャンペイン

ソ連的〝間抜け〟

細菌研究所を探れ

招かれざるハレモノ客

七変化の〝狸穴〟御殿

三つの工作段階

ヤミルーブルを漁る大阪商社

街に流れ出したソ連色

東京細菌戦始末記

作られない捕虜名簿の秘密

マイヨール・キリコフの着任

帰ってきたダンサーたち

バイラス病原菌の培養成功

朝鮮戦線に発生した奇病

アメリカは日本に原爆を貯蔵?

国際犯罪の教官、情報ギャング

ウソ発見機の密室

押しボタン戦争の原爆投下

迎えにきたジープ

怪自動車の正体

新版〝ハダカの王様〟

せせり出てきた敵役

三橋と消えた八人

スパイ人と日本人

付、事件日誌

あとがき

迎えにきたジープ p.190-191 志位氏はソ連研究家として一流

迎えにきたジープ p.190-191 Regarding the Soviet secret agency, there were jurisdiction of the Ministry of Interior Affairs (MVD) and the Red Army. In the Red Army, about 8,000 Japanese POWs in Primorye, Vladivostok, Voroshilov, Iman, and Chita were called "Red Army Labor Battalion" and engaged in base construction.
迎えにきたジープ p.190-191 Regarding the Soviet secret agency, there were jurisdiction of the Ministry of Interior Affairs (MVD) and the Red Army. In the Red Army, about 8,000 Japanese POWs in Primorye, Vladivostok, Voroshilov, Iman, and Chita were called “Red Army Labor Battalion” and engaged in base construction.

四 三橋と消えた八人

この辺で少し、ソ連の秘密機関を系統的にみてみよう。ソ連側の直接の指導には、内務省系のものと赤軍系のものとがあった。赤軍系というのは沿海州地区をはじめ、ウラジオ、ウォロシーロフ、イマン、チタ各地区に一ヶ大隊約五百名、四十ヶ大隊約八千名の日本人が、「赤軍労働大隊」と呼ばれて、直接赤軍の管理下におかれたところがあったのである。ここでは日本人捕虜も赤軍兵士と同様の条件で、基地建設などの土工作業を行っていた。

他の日本人捕虜収容所は、ナホトカで帰還の送出をする第二分所が外務省の管轄であるのを除いては、すべて内務省の監督下にあった。

内務省の管轄にある捕虜の〝再武装〟教育ということは、とりも直さずオルグ要員の政治教育とスパイ要員の技術教育の二種類があったということである。

これらの学校のうちで、明らかにされたその名前をあげるならば、モスクワ共産学校、ホルモリン青年学校、同政治学校、同民主主義学校、ハバロフスク政治学校、チタ政治学校などの「政治教育機関」と、モスクワ無線学校、同情報学校、ハバロフスク諜報学校、イルクーツク無線学校などの「技術教育機関」とがある。

モスクワ無線学校というのは、三橋正雄氏の入ったスパースク、議員団のたずねた将官収容

所のあるイワノーヴォ、またクラスナゴルスクなど、モスクワ近郊に散在している。

たびたび引用するが、志位氏はソ連研究家として一流の人物であるから、同氏の近著「ソ連人」に、現れている部分を抜いてみる。これは同氏がスパイ誓約を強制させられる当時の、取調べに関連して書かれたものである。

三回目の呼び出しの時、私は自分の調書を読むことができた。それは訊問官が上役らしい大佐に呼びつけられて、あわてて事務所を出て行ったとき、机の上に一件書類が残されていたからである。

これによって私たちをいままで逮捕し、取調べていた機関がすっかりわかった。まず終戦直後の奉天で猛威を揮ったのが、ザバイカル方面軍司令部配属の「スメルシ」であった。この「スメルシ」というのは、「スメルチ・シュピオーヌウ!」(スパイに死を!)の略語で、文字通りのいわば防諜機関である。

これが進駐とともにやってきて、私たちを自由から〝解放〟したのだ。調書は「スメルシ」からチタの「臨時NKVD(エヌカーベーデー)検察部」に廻され、さらに、モスクワの「MVD(エムベーデー)戦犯審査委員会」に達している。

NKVD(内務人民委員部)は呼称の改正に伴って、昨年の二月頃からMVD(内務省)になったのだから、私たちの調書は逮捕から、半年後にはモスクワに着いたわけだ。ところで、いまここで訊

問している連中は、MGB(エムゲーベー)(国家保安省)の「戦犯査問委員会」に属している。これは恐らく旧NKVDのうちの、ゲー・ペー・ウーだけがMGBに移って、俘虜や戦犯の管理はMVDで、訊問や摘発はMGBでやるようになったのだろう。

迎えにきたジープ p.192-193 秘密警察セクリートの恐怖

迎えにきたジープ p.192-193 NKVD's secret action team, called "Secrete", is infiltrating every workplace and every level. No one knows the fear of Secret NK as much as the Soviet people.
迎えにきたジープ p.192-193 NKVD’s secret action team, called “Secrete”, is infiltrating every workplace and every level. No one knows the fear of Secret NK as much as the Soviet people.

NKVD(内務人民委員部)は呼称の改正に伴って、昨年の二月頃からMVD(内務省)になったのだから、私たちの調書は逮捕から、半年後にはモスクワに着いたわけだ。ところで、いまここで訊

問している連中は、MGB(エムゲーベー)(国家保安省)の「戦犯査問委員会」に属している。これは恐らく旧NKVDのうちの、ゲー・ペー・ウーだけがMGBに移って、俘虜や戦犯の管理はMVDで、訊問や摘発はMGBでやるようになったのだろう。

同室の誰かがいったように、MVDもMGBもソ連国家の必要悪というよりも、ソ連国民の業である。なにしろこれらの秘密警察は、四世紀ほど昔のイワン雷帝の代にはじまって、帝政末期にはアフランカとして、泣く子も黙らせる力を示し、革命後はまずチェカー、ついでゲー・ペー・ウと名前はかわったものの、帝政以上の猛威を逞しくしたのだから。

もちろん、私がいままでエヌ・カー・ヴェー・デーと書いてきたものは、エム・ヴェー・デーのことである。

ソ連は軍人の国である。真横にピンと張った大きな肩章、襟や袖やズボンの縫目にまでも兵科別の細い色筋がついた派手な軍服、大きな正帽と長靴——民間人がボロ服をまとい、日用品に事欠きながら「働らかざるものは食うべからず」の鉄則に追いまくられて、パン稼ぎに狂奔するとき、軍人の妻は働らかざるものなのにパンの配給をうけ、美しい家庭着に白い手足をつつんでいる。もちろん軍人といっても将校だけのことである。

その将校の中でも巾の利くのがエヌ・カーである。エヌ・カー・ベー・デーというのは内務

人民委員部の略称で、前々称のチェ・カー、前称のゲー・ペー・ウーと同じである。国家保安労農警察、国境並に国内警備、消防、強制労働管理、戸籍、経理の七局に分れて、赤軍と同じような服装をした正規軍を、コバルト・ブルーの鮮やかな正帽の短かいつばの下に、鋭い眼をひそませた精悍な顔付の将校が指揮している。

彼らの青帽子は、赤軍将校のカーキ帽子とハッキリ区別されているが、セクリートと呼ぶ私服の秘密行動隊が、あらゆる職場やすべての階層に潜入している。〝壁に耳あり〟の諺と、その耳の恐さをソ連人ほどよく知っているものはあるまい。

彼らは自分の周囲の誰が、セクリートであるか分らないという恐怖に、いつもつきまとわれている。ただ、職場の友人が突然行方不明となったり、昨日の上役が今日は一労働者に転落したりする事実を、その理由をうなずけないままで既成事実として認識している。

『パチェムー?』(何故?)と問うことは許されない。ましてや姿を消した人の消息を追及するなどは常識の埒外である。

内務省は軍隊と警察に分れる。軍隊はさらに、国境警備隊と国内警備隊に分れている。この国境警備隊の司令部第四課が、通称NHO(イノオ)と呼ばれ対外諜報を担当しているのだ。作戦上の責任分担は、国境線から敵領十キロまでは国境警備隊で、それ以遠は赤軍の管轄である。

迎えにきたジープ p.194-195 スパイ要員として特殊教育

迎えにきたジープ p.194-195 The Soviet captain said. "Communicate with the Soviet representative and the Soviet government. The equipment is a very small machine. There is no fear of being discovered. The wavelength, calling code and the time changes with each communication."
迎えにきたジープ p.194-195 The Soviet captain said. “Communicate with the Soviet representative and the Soviet government. The equipment is a very small machine. There is no fear of being discovered. The wavelength, calling code and the time changes with each communication.”

国内警備隊が、コルホーズ、工場、鉄道、都市各警備隊をもっているのでも、ソ連が並々ならぬ軍事国家であり、圧政を敷いているということが分るだろう。

赤軍には軍諜報部があり、その参謀部第四課が対外諜報の担当で、第二課が四課の収集した情報を整理分析する。この他、外務省、貿易省、党機関がそれぞれに対外諜報機関を持っており、或る場合にはそれがダブって動いている。

スパイ要員として特殊教育をうけた人たち、これがいわゆる「幻兵団」である。その適例として三橋正雄氏の場合はどうだろうか。山本昇編「鹿地・三橋事件」第四部「三橋の告白」の項に、彼のスパースクでの教育内容が具体的に書かれているから摘記しよう。

(二十二年二月ごろ、マルシャンスク収容所で〝モスクワの調査団〟にスパイ誓約書を書かされたのち)二十二年の四月でした。誰、誰と、名前を呼び出されました。その中に私が入っておったわけです。やっぱり前に希望した各地の日本人技術者なんです。

当時大体モスクワへ行くという噂が飛んでいました。そこから、客車に乗って一行八人でモスクワまで二晩ぐらいかかった。そうして四月の七日頃でしたか夕方モスクワの駅に着いたんです。それからモスクワの収容所に入れられたわけです。

モスクワの収容所は、部隊番号がわかりませんね。そこは日本人が千五百名位いた。主に兵隊で、

将校はいくらもいなかった。皆工場の作業に行っておりました。工場を建設しているんですね。ジーメンス、それからツアイスなんかの設備を、どんどん運んでいるようでした。ドイツのいわゆる技師も家族をそっくりつれて来ているんです。なかなか優遇されているようでした。

そこの収容所に、六月二十四、五日頃、隊長格の男がやって来たんです。我々八名の人間を、順番にやっぱり調べたんです。最初はそういう身上調査、二日目にはいろいろ貿易などについての雑談をやった。隊長は、あなた日本へ帰ってから、私のほうと取引をやりませんかと言いましたが、私は又、貿易でもやらしてくれるのかと思ったんです。

その次の三回目に、いよいよあの話が始まったんですよ。『どんな仕事ですか』『いろいろソ連の代表部と、ソ連本国との通信をやってくれ。設備は非常に小型な機械ができておるし、それから絶対発見される心配はない。通信プログラムはうまくできておるから、やるたびに波長が変るし、呼出符号も変るし、時間も変る』と、そのときの経緯は大体公判廷ですっかり述べましたがね。誓約書を書いてくれと言うので、向うに言われる通りに書いて署名したんです。

それから、いわゆる七月の三日か四日、松林の家に移されました。ちょっとモスクワ駅から四十分ぐらいのところの小さな田舎町で、そこの松林の中の建物というのは、部屋が十幾つあった立派な建物ですが、木造で中がなかなか豪華なものでした。岩崎邸みたいな感じでした。松林の中にあるから、特殊な秘密目的の要員勤務のものを教育するところだったかも知れません。

迎えにきたジープ p.196-197 三橋氏のように偽装して帰国

迎えにきたジープ p.196-197 Eight people, who were sent to the Spassk camp, received private instruction on spy technology in a special operative's house. They disguised themselves as general repatriates and returned to Japan.
迎えにきたジープ p.196-197 Eight people, who were sent to the Spassk camp, received private instruction on spy technology in a special operative’s house. They disguised themselves as general repatriates and returned to Japan.

そこに四ヶ月いたわけですが、大体教育は三ヶ月で終ったんです。まあ通信機の隠し場所はどういうところがいいとか、例えば漬物の桶を二重底にして下に無線機を入れろ、炭俵の底に機械を入れて、上に炭を入れておけ、小さいものは壁をえぐって中に入れ、元通り蓋しておけ、天井裏なんかすぐ狙われるからまずい、などと言っておりました。

また庭の敷石を持上げて、その下に入れるようにとか、電文など書類は箱かなんかに入れて石垣なんかあったら、石を一つ抜けば入れられるように細工をしてかくせなど言われた。永久的に一年なり二年なり使わない場合は罐に湿気が入らないように密封して、エナメルでも塗って地下に埋めておけとも言われた。

それから尾行を発見する方法については、ときどき振返ってみずに、曲り角で来た方向をちょっと見るとか、電車の乗降のとき自分と一緒に乗った人間を覚えておいて、降りるときにその中の人間が一緒に降りたら注意しろ。次に尾行されたら、約束の場所には来ないのが鉄則だと教わった。

十月三十日の午後三時頃急行列車でモスクワ駅を、雪の降る中を出発しました。バイカル湖をちょっと通り過ぎたあたりでゲーペーウーみたいなものが入ってきました。付添の将校が証明書を出したけれどもやっぱりさすがに私には目をつけましたね。日本人というとおかしいとみられると思ったのでしょうか。私の名は朝鮮人の何とかいう名前になっていたらしいんです。

やっばりこうなったら、向うは同じソ連人の内部でも知らせないという態度をとっているんですね。

出発するときにリヤザノフが、朝鮮人ということになっているんだが、ということを言っておりました。それでハバロフスクへ着いたわけです。

ハバロフスクの隊長の家に、すぐ行ったんです。そこで、今まで着てきた私服を全部ぬいで、またそこの日本人の捕虜の服を着て、そっくり新京からシベリヤへ出発した当時の元に還って、十六地区の十八分所というのに入ったわけです。他の兵隊には病気で入院しておって、こっちへ送られたんだと言うことにして、体が悪いからとの口実で作業はしませんでした。

十一月の二十二日頃、ナホトカを出て十二月の三日に舞鶴へ着いたというわけです。

この一緒にスパースクに送られた八人というのは、高田少佐、土田、小林、近藤、野崎、平島各少尉、伊藤曹長、三橋一等兵の八名であるが、いずれも、特殊工作家屋の中で、スパイ技術の個人教授を受け、三橋氏のように偽装して帰国したのである。

そしてこれらの多くの人が、ラストヴォロフ事件で警視庁の取調べをうけ、参考人として供述調書をとられたのである。

その調べから、帰国後の最初のレポ状況をみよう。

▽三橋氏の場合

十月三十日、そこを出発したが、その前つぎのような指示をうけた。内地へ帰ったら、その月の中

旬のある日(たしか十六、七日と思う)に、上野公園交番裏の石碑にチョークで着の字を丸でかこんだのを記せ。

迎えにきたジープ p.198-199 ソ連の日本人抑留が不当

迎えにきたジープ p.198-199 The eight people who were supposed to have achieved "human transformation" through the "special technical education" by the Soviet Union easily confessed all.
迎えにきたジープ p.198-199 The eight people who were supposed to have achieved “human transformation” through the “special technical education” by the Soviet Union easily confessed all.

▽三橋氏の場合

十月三十日、そこを出発したが、その前つぎのような指示をうけた。内地へ帰ったら、その月の中

旬のある日(たしか十六、七日と思う)に、上野公園交番裏の石碑にチョークで着の字を丸でかこんだのを記せ。

それから、三ヶ月後の同じ日午後四時に上野の池の端を歩け。(場所は公衆便所の位置まで示された詳しい地図で説明された)その際、新聞紙を手に持っていれば、ソ連代表部員がきて、

『池に魚がいますか?』

と聞くから、

『戦争前にはいたが、今はいません』

と答えて、その男の指示に従え、と云うのであった。

▽平島氏の場合

帰った月の最初の五の日、聖路加病院の正門から左の塀の角に〝○キ〟と書け。二日後に行って印が消えていたら連絡済であるから、次の五の日の夕方五時に、築地本願寺の入口で、新聞紙を捲いて右手に持って待て。同じ目印の男が次の合言葉で話しかけたら、その男の指示に従え。

『貴方は石鹸会社のA氏を知っているか』

『知っている』

『彼は今何をしているか』

『彼はもう止めた』

そして、次のレポの日時を指定され、歌舞伎座の横丁で、ジープにのったソ連人と連絡したのである。

こうして「特殊な技術教育」をうけて、「人間変革」をなしとげたはずの八人も、簡単にその一切を自供してしまった。

ソ連の日本人抑留が不当であり、シベリヤ民主運動が〝押つけられたもの〟であったからである。それは、酒や女や麻薬や賭博や金などのような、人間の第二義的弱点ではなく、人間性そのものへの挑戦である「帰国」という弱点の、利用の上に立った脅迫や、強制されたものであったからである。

五 スパイ人と日本人

鹿地・三橋事件は、読めば読むほど分らないといわれ、「ウソ放送局」や「片えくぼ」の好材料となった。だが、分らないことはない。話は簡単である。

まず私の許へ寄せられた二通の読者からの手紙をみてみよう。

十四日付記事面白く拝見した。特に対日スパイとしては大先輩の青山和夫を引張り出して暴露させたのは大成功だった。今度は鹿地に青山のことを書かせたら面白い泥試合がみられると思う。

しかし記事はもう少し前、例のスメドレー女史(註、ゾルゲ事件の立役者の一人)から金をもらって、香港へ飛んだあたりから始めてもらいたかった。ただし資料を集めるに苦労は必要で、内山完造

グループは口が堅いし、平沢さくら(註、鹿地氏の前夫人)では、彼と一緒になった当時、黄浦口に飛び込んで自殺しかけたオノロケ話位しかできまい。