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迎えにきたジープ p.212-213 日誌つづき あとがき

迎えにきたジープ p.212-213 Kaji / Mitsuhashi Spy Case Diary March 20th, 1953 to November 17th, 1954. Afterword (continued)
迎えにきたジープ p.212-213 Kaji / Mitsuhashi Spy Case Diary March 20th, 1953 to November 17th, 1954. Afterword (continued)

同二十日 第十回公判。懲役四ヶ月(未決八十日算入)の判決言渡しがあり、また三橋被告は保釈となって小菅を出所した。

四月二十八日 鹿地氏は「静養のため姿を消す」と失踪宣言を行った。

同二十九日 国警都本部では、鹿地氏の失踪を確認、電波法違反容疑の逮捕状を請求した。

五月八日 鹿地氏から猪俣氏宅へ、六日付中央局消印で、「三橋との対決に備えて静養する」旨の私信が届いた。

同九日 鹿地氏へ逮捕状が発せられた。

八月四日 法務委で両氏の対決が行われ、三橋氏は会っていると証言、鹿地氏は一面識もないといい張った。

同五日 法務委では「鹿地不法監禁事件」の新証人として板垣幸三氏を喚問した。

同七日 法務委では、「鹿地氏が不法監禁された疑いがあり、特に平和条約発効直後の日本政府に何ら監禁の通告がなかったことは遺憾である」との結論を出した。

九月九日 鹿地氏は電波法違反容疑で書類送検された。

十月十七日 東京高裁で三橋被告に控訴棄却の判決があり、被告は最高裁へ上告手続をとった。

十一月二十七日 東京地検では鹿地氏を電波法違反の共同正犯容疑で起訴した。

▽昭和二十九年

十一月十七日 三橋被告は九月十七日最高裁への上告を取下げ、十月八日から府中刑務所に服役中であったが、満期出所した。

あとがき

この数冊の「東京秘密情報シリーズ」は、私のライフ・ワークにもと願ってまとめあげたものである。それだけに、大袈裟にいうならば、私の十年余の記者生命をかけているつもりである。また、いろいろの意味の反響は、充分覚悟もし計算にも入れているつもりである。

私に、この著をまとめさせたものは、ただ一つ、「真実」をできるだけ多くの人に知ってもらわねばならない、という気持である。

「真実」を伝えるということは難かしい。私が長い間お世話になっている読売新聞の『われらは真実と公平と友愛を以て信条とする。それが平和と自由に達する道であるからだ』という信条は、実に立派な言葉である。これをみる時、私は顧みて恥しい思いのすることがある。しかし、この著での「真実の追及」という、私の根本的な執筆態度は認めて頂きたい。

私は左翼的な立場の人々からは〝反動記者〟と罵られつづけてきた。それは、私が「真実」に対して眼をつむり、彼らの御用記者となって、そのアジに乗らなかったからである。

良い例をあげよう。私が取材し執筆したいわゆる〝反動的〟な記事の多くは、いろいろな抗議や取消要求を受けた。私はその人たちに進んで会い、その言分を聞いた。再調査もした。そ

して、抗議を蹴り、取消を拒んだ。その結果、私は〝反動記者〟〝デマ記者〟〝職業的ウソつき〟と、彼らの陣営にある新聞雑誌によって、口を極めて攻撃された。また告訴さえも受けたのであった。

赤い広場ー霞ヶ関 p.088-089 志位氏の手記から引用しよう

赤い広場ー霞ヶ関 p.088-089 He thrust a small piece of paper hidden behind his palm   into my pants pocket.
赤い広場ー霞ヶ関 p.088-089 He thrust a small piece of paper hidden behind his palm into my pants pocket.

また「私はアメリカのスパイだった―キャノン機関の手先として」(サンデー毎日二十八年八月二日号)板垣幸三氏は、終戦時樺太でソ連軍人のボーイ(十五才)となり、北鮮を経て密輸船で日本へ入国、キャノン機関で教育され、最後は同機関のアジトの赤坂見付のドライヴ・イン(ラテンクォーター)のボーイになっていたが(当時二十三才)、鹿地事件で表面化したキャノン機関攻撃のため、法務委員会に証人として引張り出されたというだけの人物である。

志位氏の手記(著書「ソ連人」)のうち、興味深い幾つかの個所を引用してみよう。いずれもドラマチックであるが、〝彼とその相手以外の誰にも分らない事実〟である。

二十六年九月はじめのある朝、私はいつものように家を出ると、経堂駅に通ずる道を、急ぎ足で歩いていた。私がとある町角を曲ったとき、この辺ではあまり見かけない一台のジープが道端に止まっていて、運転手らしい男が、エンジンに首を突込んで油まみれていた。なんだ故障だなと、何気なくそのジープの横を通り過ぎて私がものの十歩も歩かないうちに、

『ギブ・ミイ・ファイヤー!』

早口の英語が私の後から追ひかけてきた。ふり返った私はポケットからライターを出して、その声の主の咥えていた煙草に火をつけてやった。

ふと見上げた私の眼と彼の眼がかち合った。ものいいたげなその視線、背のすらりとした明るい顔つきの若い白人だった。

煙草に火をつけ終るやいなや、彼は手のひらに隠していた小さな紙片を、私のズボンのポケットに突込んだ。それはほんの一瞬のことであった。私が、また一、二歩行きかけて、手をズボンのポケットに入れたら、

『アフター・ナーウ(あとで)』

と、白人の英語がまた早口に追いかけてきた。私はそのままバスの停留所に急いだ。

始発のバスのなかで、私は汗にまみれた小さな紙片を人眼を盗むようにして、素早く読んだ。

『あなたが帰ってから三年です。子供たちもワンワン泣いています。こんどの水曜日の二十一時テイコク劇場裏でお待ちします。もしだめなら次の水曜日の同じ時間、同じ場所で……』

金釘流の日本文、判読するのに一寸骨は折れたが、「協力」のためのレポであることはすぐ私につかめた。『子供たちもワンワン泣いています』という吹き出しそうな言葉は、明らかにあの合言葉の上の句であった。しかも日時、場所を指定してきていた。

来るべきものがついにきた。回答までの三日間私の頭脳はめまぐるしく回転した。ここでまず一番簡単な方法―それは、CICにこのことを報告することであった。しかもそれは占領下の当時の状況のもとでは、私にとってもっとも安全かつ有利かも知れなかった。 だがここで私がCICに報告すれば、私があの終戦の時に決心し、シベリヤで考え、舞鶴で心に誓った「全員引揚げの促進」がすべて嘘になる。まだ多くの同胞が、あの暗いシベリヤから帰ってきていないのだ。私はどんなことをいわれようと、自分自身を裏切ることはできないと、こう考えた。