『ネ、キリコフが来ていてよ』
ささやく声は、何という変りようだ! あのポンティアックの上品な若奥様と同じではないか。勝村もうっとりと眼をつむり、香ぐわしいようにチェリーの耳に口を寄せる。
『どこ? 連れは?』
『貴方の真後から、指三本右のテーブル。三人連れで、一人は……ホラ大谷少将。もう一人の日本人は知らない』
視線があちこち動くと怪しまれるので眼をつむっているのだ。恋のささやきとしか見えない二人の姿だった。静かにターンをして位置をかえる。目指すテーブルには……
——見たことがある男!
チェリーが知らないといった三人目の男。彼は眼をつむったままリズムに乗ってゆく。
——ああ想い出さない!
——あの濃い眉。険しい鼻。特徴のある男なのに、どうしても思い出せない!
彼の記憶は、何か薄いヴェールを冠ったように、どうしてもよみがえって来ない。チェリーが身を起して、彼をまともにみつめた。その眼が『どうしてステップをまちがえたの? 取乱すとヘンよ』と訴えている。ニッコリうなずいて、背中にあてた腕に力をこめて抱きしめた。
——可愛いい奴! 名前を訊いておけよ。
と、眼で答えると、カッと胸の奥底から熱い血がこみあげてきた。
——何故、何故、奴らがこの女を抱きしめるのを、俺が黙っていなければならないんだ!
たまらない気持で勝村は階段を下りていった。
——和子、お前はどうしてダンサーになぞなったんだ。
もう十年も前のこと——
外出さえ禁止された長い長い一年が過ぎ、日本陸軍が誇る近代的謀略学校「中野」を卒業した勝村中尉は、作ってからはじめて袖を通した軍服の胸を張って、待望の満ソ国境へ赴任のため特急「あじあ」の座席にゆられていた。
来る日も来る日も荒涼たる色彩のない風景。黒い豚。そして国際謀略都市ハルビンへ——ここ小上海の目抜き通りはキタイスカヤ街。ライラックの花咲く松花江(スンガリー)の河岸である。
機関長に着任の申告を済ませたその日、勝村の諜報将校としての生活がはじまった。軍服をサラリと脱ぎすてた自称満鉄社員は、日、満、露、華、蒙そのほか国籍も分らぬ、いろいろな人間と一緒くたになってうごきはじめたのだ。やがて彼は黒河出張を命ぜられた。
黒竜江(アムール)一本をへだてて、対岸は指呼の間にソ連領ブラゴヴェシチェンスク市だ。黒河の町は、謀略と諜報の第一線だけに、学校では教えてくれなかった不思議な情報交換組織があった。
黒河の町の西はずれに神社がある。そのそばには「工作家屋」と呼ばれる建物があるのだ。人相、年齢、氏名をソ連側に通告した満人の諜者が二、三名いる。
彼らは定期的に、定められたコースで対岸のブラゴエに渡り、ソ連側の工作家屋に行く。そ
こで携行した日本側の情報を渡し、またこちらの要求する、ソ連側の情報をもらってくるのが役目だ。