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正力松太郎の死の後にくるもの p.002-003 目次 1~5

正力松太郎の死の後にくるもの p.002-003 目次
正力松太郎の死の後にくるもの p.002-003 目次

正力松太郎の死の後にくるもの——目次

1 正力さんと私(はじめに……)

銀座の朝に秋雨が……/正力〝社長〟の辞令

2 死の日のコラム休載

編集手帖なしの読売/正力なればこその「社主」

3 有限会社だった読売

悲願千人記者斬り/「畜生、辞めてやる!」の伝統/慄えあがった編集局長/五人の犯人〝生け捕り計画〟/社史にはない二度のスト/強まる「広報伝達紙」化/記者のド根性/紙面にクビをかける

4 〝務台教〟の興隆

朝・毎アカ証言の周辺/記事の魅力は五パーセント/読売の〝家庭の事情〟/務台あって の〝正力の読売〟/販売の神サマ復社す/七十三歳のブンヤ〝副社長〟/〝読売精神〟地を払うか/出向社員は〝冷飯〟組/正力〝法皇〟に対する本田〝天皇〟/〝アカイ〟という神話の朝日/封建制に守られる〝大朝日〟

5 正力コンツェルンの地すべり

正力代議士ついに引退す/報知新聞のド口沼闘争/伝説断絶の日本テレビ/〝務台教〟に 支えられる読売/小林副社長〝モウベン〟中/〝社長〟のいない大会社/新聞、週刊誌に追尾す

正力松太郎の死の後にくるもの p.062-063 読売の社史・日本新聞年鑑

正力松太郎の死の後にくるもの p.062-063 二十一年五月、題号をもとの読売新聞に改め、二十五年六月、有限会社を株式会社に改組して、資本金を二、四三〇万に増資。二十七年十月には大阪読売新聞社を創立し、年来の素志たる関西進出を実現した。
正力松太郎の死の後にくるもの p.062-063 二十一年五月、題号をもとの読売新聞に改め、二十五年六月、有限会社を株式会社に改組して、資本金を二、四三〇万に増資。二十七年十月には大阪読売新聞社を創立し、年来の素志たる関西進出を実現した。

社史にはない二度のスト

ここでもう一度、読売の社史にふれておかなければならない。これは、昭和四十年版の日本新聞年鑑によるもので、読売の報告にもとづいたものである。

「本紙は明治七年十一月二日、芝琴平町の日就社から創刊された。題号の『読売』は三百数十年前から、京阪や江戸の町で売られていた〝読売瓦版〟に由来するものである。

当時、他の新聞がむずかしい文章で、政論をたたかわすのを主としていた中に、本紙はふりがなつきの読みやすい、大衆向きの新聞を作って人気を得た。

十年三月、銀座一丁目京橋のたもとに移転、二十年代にはいって高田早苗、坪内逍遙が相ついで主筆となるにおよび、文芸新聞としての色彩を濃くし、幸田露伴、尾崎紅葉が入社、後には泡鳴、秋声らの自然主義運動の本拠たるの観を呈した。

関東大震災では、全焼の厄にあったが、翌大正十三年二月、正力松太郎が第七代目の社長とな

るや、独創的な企画や紙面の刷新によって、驚異的な発展をとげるにいたった。

昭和十五年には九州日報、山陰新聞、十六年には長崎日々、静岡新報を合併し、十七年には樺太の四新聞を統合して、本社経営のもとに樺太新聞を創刊し、同年八月には、長い歴史のある報知新聞を合併して、題号を読売報知と改めた。

第二次大戦の終りごろ、軍部の新聞統合案に対し、正力は身をもってこれに反対し、辛くもその実現をはばんだが、昭和二十年十二月、戦犯の容疑を受けるに及んで社長を退き、後任に馬場恒吾を推して社長とした。

二十一年五月、題号をもとの読売新聞に改め、二十五年六月、有限会社を株式会社に改組して、資本金を二、四三〇万に増資。二十六年一月、馬場が退き、安田が代表取締役副社長に就任。二十七年十月には大阪読売新聞社を創立し、年来の素志たる関西進出を実現した。

二十九年十一月、創刊八十周年を迎えるに当たり、資本金を一億四、五八〇万に増資した。三十年二月、安田死去し、代わって務台光雄が代表となった。

同年四月、英字日刊紙ザ・ヨミウリを発刊、同年六月、高橋雄豺が代表取締役副社長に就任した。

三十二年五月、読売会館を建設、三十三年七月一日、株式会社日本自動車会館を合併して、資本金一億五、三三〇万となった。三十四年、北海道支社を開設し、タイムズ式ファクシミリを用

いて、東京最新版の現地印刷を開始した。

昭和三十八年八月、朝刊十六ページ、夕刊十ページ建てで、三○○万の発行にせまられ、第二別館を建設、超高速度輪転機を四十八台とした。三十九年九月。北九州市小倉区に西部本社を創立、九州進出を実現した」

正力松太郎の死の後にくるもの p.064-065 鈴木東民らは社長以下の退陣を要求

鈴木東民が組合長であるとともに編集局長に就任した。馬場は編集権を自分の手にとりもどすことに苦慮し、鈴木ら六名に勇退を求めたが、応じなかったので解雇することにした。第二次争議は、これを動機として起った。
正力松太郎の死の後にくるもの p.064-065 鈴木東民が組合長であるとともに編集局長に就任した。馬場は編集権を自分の手にとりもどすことに苦慮し、鈴木ら六名に勇退を求めたが、応じなかったので解雇することにした。第二次争議は、これを動機として起った。

三十二年五月、読売会館を建設、三十三年七月一日、株式会社日本自動車会館を合併して、資本金一億五、三三〇万となった。三十四年、北海道支社を開設し、タイムズ式ファクシミリを用

いて、東京最新版の現地印刷を開始した。

昭和三十八年八月、朝刊十六ページ、夕刊十ページ建てで、三〇〇万の発行にせまられ、第二別館を建設、超高速度輪転機を四十八台とした。三十九年九月。北九州市小倉区に西部本社を創立、九州進出を実現した」

会社側の社史には書かれていないが、第一次、第二次のストがあった。「組合史」第一巻(昭和三十一年、読売従組発行)にはこうある。

「一九四五年十月二十五日、読売新聞社の全従業員をふくむ、読売新聞社従業員組合が結成された。これが今日の我々の組合の出発点である。

九月十三日、論説委員鈴木東民ほか四十五名が、社内改革の意見書をつくり、主筆、編集局長の退陣を正力に申入れた。これを拒否されて、鈴木らの民主主義研究会は、社長以下の退陣を要求、正力は十月二十四日に、鈴木ら五名の退社を申し渡した。かくて、二十五日の組合結成とともに、第一次争議に突入した。

そこに、正力の戦犯容疑の逮捕状が出たので、十二月十二日、正力社長、高橋副社長、中満編集局長、務台常務は退任し、馬場社長、小林光政専務、鈴木編集局長の陣容となり、第一次争議は

解決の形となった。

鈴木東民が組合長であるとともに編集局長に就任したので、編集はもちろん人事や業務の全般に対して、経営協議会を通じて有力な発言をなしうることとなったため、実質的には、第一次争議中の組合の業務管理がそのままつづいている形であった。そのため馬場は編集権を自分の手にとりもどすことに苦慮し、四六年六月十二日、鈴木ら六名に勇退を求めたが、応じなかったので解雇することにした。第二次争議は、これを動機として起った。

その後、七月十四日から十七日まで、新聞発行は不可能となり、十七日、分裂した組合、刷新派組合員が大挙して工場を明渡し、十八日から新聞が印刷刊行された。

その間、GHQの両派応援の介入、日本新聞通信放送労働組合のゼネスト計画の失敗などの曲折を経て、十月十六日、鈴木東民以下の依願退社扱いによる解決をみ、分裂した組合もまた、従業員組合として一本化した」

この第一次、第二次争議の、詳しい事情は、「組合史」が文献中心の表現をしているのに対し、赤沼三郎「新聞太平記」(昭和二十五年、雄鶏社)(注。読売政治部出身の政治評論家花見達二のペンネームといわれる)は、このストの経過について、正力、高橋、務台、八反田、岡野、品川、清水らの現存幹部たちの役割りについてまで、情景タップリに叙述しており、馬場は主筆に迎えた岩淵辰

雄の提案をうけて、廃刊の決意を固めたという。七月十四日、新聞が停った日だ。

正力松太郎の死の後にくるもの p.066-067 七月十四日、新聞が停った日だ

正力松太郎の死の後にくるもの p.066-067 『赤色新聞として汚名と害毒を世に流すよりも、いまここで七十年の読売の歴史を完全に閉じるが良い。そして読者にもお詫びしたい。~世の指弾をあび、蔑視の渦中にさらされて、何で読者大衆にまみえる顔があるであろう』馬場は壇上で泣いた
正力松太郎の死の後にくるもの p.066-067 『赤色新聞として汚名と害毒を世に流すよりも、いまここで七十年の読売の歴史を完全に閉じるが良い。そして読者にもお詫びしたい。~世の指弾をあび、蔑視の渦中にさらされて、何で読者大衆にまみえる顔があるであろう』馬場は壇上で泣いた

この第一次、第二次争議の、詳しい事情は、「組合史」が文献中心の表現をしているのに対し、赤沼三郎「新聞太平記」(昭和二十五年、雄鶏社)(注。読売政治部出身の政治評論家花見達二のペンネームといわれる)は、このストの経過について、正力、高橋、務台、八反田、岡野、品川、清水らの現存幹部たちの役割りについてまで、情景タップリに叙述しており、馬場は主筆に迎えた岩淵辰

雄の提案をうけて、廃刊の決意を固めたという。七月十四日、新聞が停った日だ。

「『赤色新聞として汚名と害毒を世に流すよりも、いまここで七十年の読売の歴史を完全に閉じるが良い。そして読者にもお詫びしたい。そのつもりで全従業員に訴えたい』

聞いていた重役は、みな泣いた。品川重役はたまりかねたか、

『社長、そんなことは思いとどまって下さい。わたしが今一度、工場へいって頼んでみますから……』

拳で涙をぬぐって出ていこうとする。もうそんなことが、なんの効果もないことは、みんなよく判っていた。

……輪転機は鳴りやんだ。新聞発行は停った。工場は暗黒になった。射るような夏の西日が、葬儀車のようにならんだ発送トラックを照らしつけた。工場は乗取られた。

……千九百名の社員が大ホールに集められた。空爆でただれ焦げた大ホールだった。馬場は壇上に立った。

『光栄ある伝統の本社も、ここに七十年の歴史を閉じるほかない。世の指弾をあび、蔑視の渦中にさらされて、何で読者大衆にまみえる顔があるであろう』

馬場は壇上で泣いた」

このあとに工場奪取の提案がなされ、青年行動隊が組織される。活字ケースをひっくり返されないため、千三百人の再建派が、青行隊を先頭に、四百人の籠城する工場を攻撃しようというのだ。当時は用紙割当制時代だから、すでに三日の休刊、活字ケースがバラされたら、さらに十日も休まねばならない。そしたら、割当てがなくなる。自然廃刊になるという危機感が、みなをいらだたせる。

「『万一の場合、死んでくれるものが、青行隊のなかに何人あるのか、すぐ調べてくれ』

それはもう真夜中であった。事は急を要し、秘密を要する。……青行隊の鈴木、鹿子田が、決死の覚悟の青年を点呼してみると、十三名あった。武藤委員長の前に、ひとりひとり呼ばれた。

『大丈夫か、やってくれるか』

『お父さんはいるか? お母さんは?』

そして、つぎつぎ固い約束が交わされた。さすがに、家族のことを口にすると、みんなおたがいに涙が流れた。

工場の二つの入口から、七名と六名が突入して活字の馬を奪還する。……青行隊が、活字台に伏せた、その体をふみこえて、工場に突入。……夜十一時五分前、再建派が青行隊を先頭に工場に向ってナダレを打った。

……『新聞が出ました。いま、再刊一号が出ました』

馬場は電話口で声をあげて泣いた。

『ありがとう。ありがとう。ありがとう』」

正力松太郎の死の後にくるもの p.068-069 毎日がストの洗礼を経なかった

正力松太郎の死の後にくるもの p.068-069 青地晨が、朝日—毎日をとりあげ、「大きく引きはなしている朝毎両紙の王座が、にわかにゆらぐものとは思えないのである」といっているが、青地の、読売と正力に対する認識不足は嘲うべきであった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.068-069 青地晨が、朝日—毎日をとりあげ、「大きく引きはなしている朝毎両紙の王座が、にわかにゆらぐものとは思えないのである」といっているが、青地の、読売と正力に対する認識不足は嘲うべきであった。

……『新聞が出ました。いま、再刊一号が出ました』

馬場は電話口で声をあげて泣いた。

『ありがとう。ありがとう。ありがとう』」

朝日のストについて細川隆元が「朝日新聞外史(騒動の内幕)」(昭和四十年、秋田書店)を書いているが、花見と細川の筆力の違いもさることながら、終戦直後と昭和元録という、時代背景の差もあって、この読売争議ほど、朝日のはドラマチックではない。

もっとも、朝日もまた、終戦直後には、民主化騒動を経ているが、読売のそれにくらべると、正力の下獄などという、緊迫感の盛り上りに欠ける。さすがに読売は〝事件の読売〟だけのことはあると、改めて、花見の文章に酔ったほどであった。

読売と朝日とが、戦後、このような騒動によって、体質の改善が行なわれたのに対し、毎日がストの洗礼を経なかったことで、今日の朝読—毎日の差がついたという人もいる。しかし昭和二十八年に青地晨が、その著の「好敵手物語」に、朝日—毎日をとりあげ、「部数において朝日四百三万九千余、毎日四百五万五千余と、読売(東京)百八十九万七千余と産経百二十一万余部=二十七年二月現在、新聞協会編ザ・ジャパン・プレスより。但し数字は公称=を、大きく引きはなしている朝毎両紙の王座が、にわかにゆらぐものとは思えないのである」といっているが、青

地の、読売と正力に対する認識不足は嘲うべきであった。

元朝日記者の酒井寅吉もまた、文芸春秋誌の「新ライバル物語」(昭和四十年十一月号)で、朝日—毎日をとりあげているが、「……読売の経営難は朝毎以上。……この値上げ競争で結局、弱小新聞はふるい落され、二大新聞(朝毎をさす)の独占化へ進んでゆく道が大きく開かれることになる」と、観測を誤っている。

務台事件後の読売の一番困難な時期、つまり、酒井寅吉が、この〝読売の経営難は朝毎以上〟と書き、朝毎の二大紙独占化を予想した時点で、編集局長となった原四郎について、さらに語らねばならない。なぜなら、予想はくつがえされて、それからわずか四年後に朝日—読売の独占化時代に突入したからである。

強まる「広報伝達紙」化

読売編集局における、局長の原四郎を評して、〝一犬実に吠えて万犬虚を伝う〟というべきである、と述べたのは他でもない。