石井一昌著「日本を哭く」をご紹介する
正論新聞 編集長 三田 和夫
昭和三十二年春ごろのこと。当時、読売新聞社会部記者だった私は、光文社発行の「三光」(注・支那派遣軍の暴虐ぶりをバクロした本)が、護国青年隊の抗議に、広告を中止し、絶版を約束させられた、という情報を得て調べはじめた。と、岸首相が自民党幹事長時代に、やはりオドされて、金を出したという話も出てきた。当時の中村長芳秘書が、警視庁捜査二課に事情をきかれた、という。
それらの取材を終えて、社会面の大きな記事になったその日から、社の読者相談室は、護国青年隊の抗議の波状攻撃を受けて、騒然とした空気に包まれていた。
「三田の奴メ! 同志のような顔をしやがって、裏切りやがったな。どうするかみていやが れ!」(拙著「最後の事件記者」より)
そんな彼らの言葉も、耳には入ってきていた——それから一年余を経て、私は、横井英樹殺害未遂事件にからむ、安藤組の犯人隠避事件の責任を取って、読売を退社する。
昭和四十二年元旦付号から、私は、独力で「正論新聞」を創刊する。読売退社から八年余、雑誌の寄稿家として生活するうち、出版社の都合で、私の原稿はカットされ、ボツにされることが多くなった。本当のことを書くとモメるのである。「三田の原稿はヤバイ」ということである。そのため、自分が発行人で、編集人で、執筆者でなければならない、という結論に至ったからだ。
「私はかつて読売記者時代、『護国青年隊』の恐喝事件を取材して、総隊長・石井一昌に会った。昭和三十二年四月十九日である。その時の印象は、まさに粗暴な〝飢えた狼〟であった。彼は、読売記事を読んで激怒し、私を憎んだ。連日のように、読売本社に押しかけ、私を痛罵したものだった。
そして、本紙(注・正論新聞)がさる四十五年暮れに、『右翼暴力団・護国団』を取りあげるや、当時潜行中の彼は機関誌の『護国』に地下寄稿して、またもや、私を非難攻撃した。
しかし、因果はめぐる小車…で、私は、彼の自首説得に、小さな力をかすことになる。保釈になった彼は、その尊敬する先輩の事務所で、正論新聞の綴じこみを見て、質問したのだった。その先輩は、『真の右翼浪人たらんとするなら、正論新聞もまた読むべし』と訓えられたという。…こうして、私と彼とは満十五年目のさる昭和四十七年四月二十九日に、再び相会って握手をした」(正論新聞47・10・15付、連載『恐喝の論理…〝無法石〟の半生記』続きもののはじめに、より)
こうして、私と彼との交際がはじまり、すでに二十三年になる。さる平成六年四月二十九日、「護国団創立四十周年記念会」の席上、私は指名されて、あいさつを述べた。
「…実は、石井さんは、当時隊員たちに指令して、〝いのちを取っちゃえ〟という目標の人物を十五名リストアップしていた。その最後の第十六位にランクされたのが、私だったのです…」と。
いのちを〝取る〟側は、国の将来を憂えてその邪魔者を排除する信念。〝取られる〟側は、真実を書き貫こうとする信念。その死生観には、共通するものがあって、対立する立場を乗り越えて、結ばれた友人である。これをいうならば、〝怪〟友といわんか。それは 快友であり、戒友であり、魁友でもある。
平成三年十一月「正論新聞創刊二十五年を祝う会」で、私は、この話を披露した。「この席には〝捕える側〟も〝捕えられる側〟も参会されている…」と。
読売の警視庁記者時代に親しくした、土田国保、富田朝彦、山本鎮彦の昭和十八年採用の元長官たちと、石井さんはじめ、稲川会や住吉会の幹部たちのことを話したのだった。
昭和三十二年、売春汚職事件にからんだ立松記者誤報事件で、対立関係にあった当時の岡原昌男・東京高検次席検事(故人。元最高裁長官)も、「…正論新聞の論調は〝おおむね〟正論である。どうして、おおむねをつけたかといえば、ある時には、三田編集長の個人的見解が、色濃く出されているからです…」と祝辞を下さった——対立のあとにくる友情とは、こういうものであろうか。
「右翼といいながら、ゴルフ三昧の奴や、クラブを経営しているのもいるんだ」——このパーティーのあとで、石井さんは、痛憤の情を吐露した。
「ウン。むかしの『恐喝の論理』の続編でもやろうか。日ごろ、感じていることを、メモに書き留めておきなさいよ」と私。それからまた歳月が流れる。「石井一昌の憂国の書を出版したいんだ。もう年だから、総括をしておきたい。だれか、書き手を紹介してよ」と頼まれて、まる五年——とうとう、このほど「日本を哭く—祖国の建直し、魁より始めよ」が立派な本になった。
「この本のため、石井のいのちを取っちゃえというのが、現れるかもしれない。だが、自分の信念のために斃れるなンて、カッコいいじゃないですか」と、石井さんは笑う。かつて私は、彼の第一印象を、「粗暴な〝飢えた狼〟」と評した。が、いまも、顔は笑いながらも、眼は、決して笑っていなかった。
この著の、戦後秘史としての価値が大きいことを、ご紹介の第一の理由とする。
(平成七年十二月一日記)